「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「[MASK=5=]
Dieが駆けつけた時には、めちゃくちゃになった部屋の片隅で、京はひとり、放心したように座っていた。
…看護婦も他の医者も、押さえつけて鎮静剤を打とうにも、あまりの狂暴さで近づくことすら出来なかったと言う。
どうすることもできず、ただDieが来るのを――本心は恐らく京が落ち着くのを――待っていたそうだ。
「京くん…」
足を投げ出して床に座り込んだ京は、力の抜けた体を持て余しているように見える。
扉の開閉でDieに気付いたのか、彼はぼんやりと瞳を上げた。
静かに近づいて、目の前に跪く。
「京くん」
眼を覗き込むようにしてもう一度名前を呼ぶと、京は嫌がって顔を背けた。
「ずいぶん機嫌悪いんやな。どうかしたか?」
「…………」
「何か嫌な事でもあったん?」
「…うるさい…」
平静を装って尋ねてみても、京は低い声で呟くように返すばかりだ。
仕方なく会話を止めて、京の全身に目を走らせる。
白い服のところどころに血がついていた。
腕や顔にも、この安全な部屋で、どうやってここまでやったのかと思う程の傷ができている。
「怪我しとるから、とにかくそっちを何とかせんとな」
「触るな!!」
立ち上がらせようと手を取った瞬間、弾かれたように叫ぶ。
そのままDieの手を振り払って、京は手近に落ちていたコップを投げつけてきた。
何か聞き取れない事を喚きながら、手の届く範囲にあるものを手当たり次第に投げつけてくる。
仕方なく手で顔を庇いながら、Dieは投げるものがなくなるのを待った。
そうする内に、悲鳴にも似た京の言葉の中の、一定の周期で繰り返されるフレーズに気付く。
「京くん」
「誰やねん、お前…!」
「京くん、俺が分からへんの?」
「触るな!!」
眼に怪我でもしたのかと思って手を伸ばしても、京はDieの手を正確に払いのける。
と言う事は、Dieの姿が見えないとか、声が分からないというわけではなさそうだ。
麻薬中毒に特有な錯乱状態が再発してしまったのだろうか――そんな不安を抱いて、Dieは少々手荒な方法を取った。
京の無理やり体を抱き込み、暴れて逃れようとする腕を押さえつけて、鎮静剤を打つ。
「嫌…、離しや!」
「大丈夫やから。な、痛くなくなってくるやろ?」
「やめっ…、俺に触るな! お前、誰なん!?」
Dieが何を言っても京は必死で抵抗してくる。
泣きたいような思いで、Dieはその体を抱き締めた。
小柄で痩せた体は腕の中に簡単に収まってしまう程なのに、そのか細い手足で、京は何とか逃れようともがいている。
普段はあんなに懐いて、自ら抱き着いてさえ来るのに。
一人の人間をここまで変えてしまうのが、MASKの――麻薬の残忍な所業なのだ。
「京くん…大丈夫やから。何も怖い事なんかあらへんよ」
何も聞き入れてはくれない京に、そう言い聞かせるのが精一杯だった。
…そうして暫くすると、鎮静剤が効いてきたのか、京の眼がぼんやりとした色になってゆく。
ますます軽くなった体を抱き上げて、Dieは京をベッドに横たわらせた。
怪我の応急処置をしてやり、優しく頭を撫ぜる。
と、京の瞳から涙があふれ出した。
言葉も無いままにあとからあとから涙をこぼすその様は、ひどく痛々しい。
「Die君…」
かすれた声で名前を呼びながら、割れた爪と傷だらけの指先で、京はDieの手を握り締めてくる。
骨っぽい感触を伝えるその手を握り返しながら、Dieは無理やりに微笑んでみせた。
「痛かったやろ。もう大丈夫やからな」
「…今まで、何処にいたん…?」
「…ごめんな。もっと早く来てやれなくて」
「さっき…知らない奴に、押さえつけられてな。嫌や言うたのに、無理やり注射打たれて……怖かった…」
「…そうか」
やはり錯乱状態を起こしているのだろう。
Dieが行った処置を全てそのまま、まるで誰かに無理やりやられた事のように離す京。
自分こそ泣き出したいような思いを抑えながら、それでもDieは、京を否定する事が出来ない。
これ以上不安がらせたくなくて、精一杯の嘘をつくりだす。
「俺が来るのが遅くて…俺の同僚が、京くんが苦しがってるからって、鎮静剤打ってくれたんや。怖い思いさせてごめんな」
「うん…」
「少ししたら眠くなるやろうけど、心配しなくて大丈夫やから」
「…Die君」
Dieの偽の説明に安心したのか、京は、ようやくDieの手を掴む指の力を緩めた。
泣き出しそうな眼でDieを見上げ、口を開く。
「何処にも行かない?」
「行かんよ。ここにいる」
「俺が何時起きても、そこにいる?」
「ああ、約束する」
「…うん」
子供じみた問いかけにしっかりと頷いてやると、京は不安そうな表情を緩めた。
嬉しそうに何度も頷いて、ややあってから、目を閉じる。
すぐにごく小さな寝息を立て始めた京に、Dieはそっと声をかけた。
「おやすみ」
「MASK…か」
思わず声に出して呟いてしまう。
――京の寝顔を眺めながら、Dieは先程のShinyaの話を反芻していた。
彼の話をざっとまとめると、こういうことだった。
まず初めに、Toshiyaが薫と出会ったのは、小さなライブハウス。
友人のバンドを見に来ていたToshiyaが、麻薬の売りをやっていた薫に声をかけたそうだ。
“遊ばない?”
この一言が全ての始まり。
Toshiyaの誘いに乗った薫は、ライブハウスの上にある部屋で、
「悦くなるヤツ」と言って、試験的にToshiyaにMASKを打った。
その言葉通りにMASKの効果は覿面で、「また会ってくれる?」というToshiyaに、
薫は携帯の番号を教え、後はねだられるままに、MASKを安値で売っていたのだそうだ。
しかし話はそこで終わらない。
MASKに致死性があることは、Toshiyaが救いようの無い中毒に陥ってから分かったのだと。
薫がToshiyaを好んで相手をさせるようになってから、
売人グループの内の一人からその情報が回ってきたのだと言う。
そうして、たまたま薫がそのことを話していたのを、Toshiyaが聞いてしまった。
「何でそんな麻薬使ったの!?」
泣きながらそう問い詰め、薫を責めたてるToshiyaに、薫は平然として言ったそうだ。
「お前だって遊びのつもりだったんやろ? それなら、どんな危険が待ってるか分からんよ。
自分の身くらい自分で守らなあかんやろ」
スラム生まれでスラム育ちの薫には、それはごく当然の事だったのかもしれない。
一方、両親を亡くしているとは言え、おっとりと育ったToshiyaには、それはあまりに残酷な言葉だった。
薫がそんな物言いをしなければ、この先も変わってきていたのかも知れないのだけれど。
――まあ何にしても、その後のToshiyaは、見ている方が驚くほどの速さで荒れていったそうだ。
薫はもちろん、裏で知り合った男に声をかけては、身を堕としていった。
それと引き換えに金をもらう事も多かったと言う。
その金で何をするのかと言えば、薫や他の売人からMASKを買う。
「どうせ死ぬんだから」
それが口癖だった。
そうして何日か経った頃、Toshiyaは珍しく薫の家に泊まった。
普段なら、たとえ薫の方から誘っても、「弟が待ってるから」と言って律儀に帰宅していたのに。
MASKに囚われても、京への愛情だけはそんなにも根強く残っていたのかと思うと、Dieはやりきれない思いになる。
そして当然、薫もそれは良く知っていたから、その時点で何かがおかしいと思ったのは正しかった。
ただ、彼がToshiyaを見くびっていたのが唯一最大の間違いだったのだろう。
「薫くんさ…薫くんも堕ちてよ」
「嫌やね。お前とみたいにはならんよ」
「…こんなに、僕の体にハマってるくせに」
素っ気無い薫の言葉に、Toshiyaはそう言い返して笑った。
その後は、Toshiyaの方が繰り返し求めてきて、二人して気を失うみたいに眠ってしまったそうだ。
そうして翌朝、目を覚ました薫が見つけたのは、腕の注射痕。
Toshiyaを起こして問い詰めると、彼は薄らと笑って言ったと言う。
「遊びのつもりなら、それなりの危険は覚悟しとけって言ったよね?自分の身くらい自分で守れって。何か間違ってるの?」
――そこまでを語り終えると、さすがに疲れたのか、Shinyaは溜息を吐いて口唇を閉ざした。
けれどそれは、偏に涙を堪えての事だったのだというのを、Dieは後から知ることになる。
「Toshiyaは、薫くんを恨んで…薫くんの言葉通りの復讐の仕方を取ったんや。そうすれば、薫くんだって言い返せないから」
Shinyaの言葉からは、怒りや恨みのようなものは感じられない。
でも、その内容から感じさせられるのは、恐ろしいまでのToshiyaの心の歪みだった。
薫の前でのToshiyaからは、京の前でのToshiyaのような優しさは微塵も感じられない。
恨みや怒りや復讐心で動く、哀れな人にしか見えなくて、
だからShinyaも、あからさまな感情をぶつける気にはなれないのだろう。
それでも彼は、こう続けた。
「…Toshiyaも、可哀想だったと思うけど。でも、ゆるせない」
それからの薫を支えつづけたのは、他の誰でもないShinyaだったから。
「薫くんだって必死に止めようとしてたし、僕も協力した。
色んな所から無免許の医者を見つけてきたりして、誰かは助けてくれるかなって」
出来る事は全部やったのに。
そう呟いて、Shinyaは切れ長な瞳の端から涙を零した。
Shinyaと薫の間柄が、ただの信頼の置けるパートナーだったのか、それともそれ以上のものだったのか。
Shinyaは決してそういうことを口にしなかったけれど、彼が薫を大切に思っていたことはまっすぐに伝わってきて、
その思いがひどく痛かった。
「それで…MASKの毒って言うのは?」
ややあってから、Dieが遠慮がちに尋ねると、Shinyaは目元を手で拭う。意外にしっかりした口調で、彼は話を続けた。
「…MASKの毒は、二段階に分けて現れるんだよ。初めは、根っからの平和主義者になる。
絶対に怒らないし、どんな物にも素直に感動して、いつも機嫌が良くて…それに、白いものに異常に執着する。
白い服とか、白いお皿とか、白なら何でもいい。自分の身の回りのものを白で統一したがるんだ。
…京くんにもあったでしょ」
――Shinyaの言葉の一つ一つに、背筋の寒気を覚えた。
ここに入院してしばらく、京はどんな検査にも協力的で、小さな花や鳥に可愛いと感動し、
いつもにこにこして、白い服、白いスリッパ、白いカーテン、――白いノートが欲しい。
そう言っていたから。
「それで…第2段階は?」
逸る気持ちを押さえて、低い声で問う。
ぼんやりと窓の外の青空を眺めたまま、Shinyaは口を開いた。
「しばらく安定期があって…その間は、前の人格に戻るんだ。
何でこんなに白いもんばっか集めたんやろ、とか言い出すしね。でもそれは何日間か過ぎないよ」
それも、京の経過に当てはまる。
ある日突然、不思議そうな顔をして、Dieに問うてきたことは今でも鮮明に思い出せた。
「何時から、こんな真っ白な部屋になったん?」
京くんがそうしたいって言ったんやろ?
そのような事を言っても、京は頑なに否定した。
そんなことしてない。知らない。覚えてない。
そんな言葉で。
「その後は…」
「…その後は、だんだん、凶悪になっていくんだよ。元の人格がある内は、周りに気付かれちゃ行けないと思うでしょ。
MASKはダウン系の効果があるから、MASKを欲しがる。MASKを打てば落ち着くけど、切れると暴れたくなる。
それでまたMASKを買いに行く。――これはどの麻薬にもある悪循環だけど」
「ああ…そうやな」
「あとね、」
最早相槌を打つくらいしか出来ないDieに構わず、Shinyaは話を続ける。
「視界が…暗くなるって、薫くんは言ってた」
「視界?」
「目に見えるものが、何だか黒っぽいって。見にくいって言って…それが始まり」
「始まり?」
「だんだん物や人の見分けもつかなくなってきて、その頃から狂暴性が出てくるんだよ。
人にケンカ吹っかけたり、物を壊したり。自分の思い通りにならないと、えらい怒ったりね。
それで、最終的にはその破壊性が人に向かう。根っからの破壊主義者になるってわけ」
今思えば、さっきの京の症状は、この時のShinyaの言葉通りだ。
人の見分けがつかない。
狂暴性が出て来る。
物を壊す。
人に対して攻撃的になる。
認めたくは無いけれど、全て京に当てはまった。
それでもその時は、MASKの毒性のそういった展開が信じがたくて、素直には頷けなかった。
するとShinyaは、これを見れば分かるかもね、と言って。
「…ほらね」
そう言いながら、自分の首をDieに見せてくれたのだった。
細い首にくっきりと残る、赤黒い紐の跡。
「これ…」
「薫くんに絞められた。こっちもそう」
袖を捲った腕には、切りつけられた痕。
京に会った頃は長かった髪も、暴力を振るう薫から逃げようとした時に、ナイフで切られたのだという。
そして冷静に戻ったときには、薫はいつも、涙を零しながらShinyaを抱きしめて謝りつづけたということも。
そんなことを、まるで他人事のような口調で話しながら、Shinyaの眼はようやくDieを見つめる。
「…毎回、何とか逃げてきたんだ。いつもいつも、家の中でも鎮静剤を持ち歩くようにして。でも、もう終わったんだよね」
震える声で呟いて、薄い口唇に微笑を浮かべる。
止まっていたはずの涙がはたはたと零れた。
「薫くんが寝てる隙に、買い物に出かけて…帰ってきたら、マンションの屋上に薫くんがいて」
それから先は、カルテに書いてあった通り。
「ToshiyaがいるとかToshiyaが呼んでるとか…よく分からんこと叫んで、飛び降りたんよ」
――市街地から外れたところに住んでいるため、薫が飛び降りる現場を見たのは、Shinya一人だったそうだ。
確かめる前から、もう息は無いと分かっていたけれど、どうして良いか分からずにShinyaは病院に電話した。
そうして救急車が来て、外来に運ばれ、事情を聞かれた後、この病院まで送られ。
ただでさえぼろぼろになっていた体を、検死と称して更に引き裂かれ。
「…薫くん、可哀想」
いくらか間を置いてから、Shinyaは、聞き取れるかどうか分からないくらいの声でそう呟いた。
――Shinyaの話を総合すると、MASKは総合性の麻薬という事になる。
アップ系、ダウン系、幻覚系すべての症状を引き起こす、最悪の麻薬だ。
しかも死因は明らかではない。
(…京くんは…)
安らかな寝顔を見ていると、鎮静剤が効いているのだということを忘れそうになってしまう。
でも、Toshiyaや薫の例と照らし合わせて考えると、非常に危ない段階にいる事に疑念の余地は無い。
それでも、ここまで治療を続けて、京本人もこんなに頑張っているのだから。
もしかしたら、助けられるかもしれない。
今日はこんなに酷い発作を起こしていても、明日はきっと。
それが駄目なら、明後日はきっと…。
――そんな一縷の望みに、疲れきった心身を預けたくなる。
「死なないよな…京くんは…」
京の髪を指で梳きながら、Dieは祈るような気持ちで呟いた。
―――――――――――――――――――――――――原作:Hikaru.M&雪緒、書いた人:雪緒
明かされる、Toshiyaと薫の関係。症状は悪化の一途をたどるばかり…続きをどうぞ。 【のち】」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」