●完全知欠伝説「神 撫 手」 |
2003年…。 週刊少年ジャンプにて、ひとつの新連載が始まりました。 その名も「神撫手」。 後に「知欠先生の後継者」とまで称される伝説のクソ漫画が、その胎動を始めたのです。 神撫手のおおまかなストーリーを紹介致しましょう。 主人公は速馬彰人。たしか13歳の少年です。 彼は鴨婆と呼ばれるおそらく少年の祖母であろう女性と生活し、彼女から盗みに関する多くのテクニックを教わっています。 彼はその泥棒テクニックを使い、美術館などから様々な名画を盗み出す怪盗「ゴッドハンド」なのです。 しかし、彼が盗み出す絵画はただの名画ではありません。 それらの絵は、実は彼の母(春栄)が描いた模写だったのです。 彰人少年は、母の描いた模写が古色をつけられ贋作として世界を渡り歩いているその現状を見かね、また母との想い出を取り返すために、それら模写を盗みまわっているのです。 ここまでがストーリーの骨子であり、そして、これに彰人少年が神撫手と呼ばれる幻覚能力に覚醒すること、楓花という少女との出会いなどが加わり、彰人少年の母の絵を取り戻すエピソードが綴られて……いけば、こんなひどいことにはならなかったかもしれません。 この基本的な要素が出揃った後の神撫手の迷走は、それはもう凄まじい物でした。 最初は上記の通りの怪盗モノだったにも関わらず、神撫手というファクターゆえ物語は次第に能力者バトル漫画へとシフトしていきます。 で、このまま能力者バトル漫画で終わればいいものを、何を血迷ったかミステリー路線へ再度の路線変更。 このミステリー路線は、ひどいクオリティで読者にビックリするほどの不快感を残したまま、何の意味もなく2週で終了し、再び能力者バトル漫画へと回帰。そこで打ち切り終了となります。 神撫手は様々な要素を断片的に、かつひどいクオリティで開陳し、そして全てを投げっぱなしにしたまま終了したのです。 神撫手という物語は、その全てを「混迷」の一言にまとめることができます。 上で見たとおり、ストーリーは混迷していますし、設定も混迷してますし、キャラクター描写も混迷の度を深めています。 作者もきっと混迷していたに違いありません。 漫画に関わらず、普通物語を創作する人は、そのストーリーから可能な限り不可解な描写を排除しようとするものです。 誰が読んでも納得できるように、できるだけ合理的な物語を作ろうとするはずです(一部例外もありますが)。 もちろん、創作者も人間ですから、細部でミスをして設定を覆したり、物語が破綻したり、そういうことは多々あります。 知識の欠如が物語に深刻なダメージを及ぼす場合もあるでしょう。 しかし、そのような結末に陥ってしまうことはあれど、誰もがその事態を避けようと、努力はするのです。 ですが、神撫手にはその努力がないのです。 この、努力がない、というのが神撫手の混迷・迷走を語る上で最大のポイントだと思います。 合理性の追求を放棄するという行為が、結果として、このようなクソ漫画へと帰結したのです(まあ、他にも原因はいろいろあると思いますが)。 しかし、この「そもそも努力をしていない」という作者の姿勢が、作品に思わぬ(負の)価値を与える結果となったのは運命のいたずらというべきでしょう。 実際に、僕はそのようなクソ漫画の単行本を、いま手元に2冊も持っているのですから。 ・握り潰せる漫画 前述の通り、神撫手という漫画には努力が感じられません。 その努力の放棄は、溢れかえる矛盾点、覆される設定、物語の薄っぺらさ、といった形で帰結しています。 作者の堀部先生によって彩られる一見目に鮮やかな神撫手世界は、それら多数の矛盾点の上に薄い薄い皮膜をかぶせた形で成立しているのです。 神撫手という漫画は腐りかけた土台の上に建てられた脆い脆いベニヤ製一軒家なのです。 しかし、この危うさ。 そこに、僕たちクソ漫画愛好家はうっかり愛着を覚えてしまい、結果として神撫手という漫画は商品価値を得てしまったのです。 神撫手という漫画は読めば読むほど、がらがらと音を建てて崩れていきます。 少し深く読みこむだけで、土台から崩れ、崩壊してしまいます。 神撫手を読む喜びは、例えるならば、雪を固めて作った一見精巧なオブジェを金属バットのフルスイングで力いっぱい殴り壊す快感といえるでしょう。 あなたはほんの少し注意を払って読みこむだけで、この物語を根底から破壊することができるのです。 神撫手は漫画太郎先生の「地獄甲子園」と比較することができるかもしれません。 漫画太郎先生の「地獄甲子園」も、神撫手と同じく読者に破壊のカタルシスを提供する漫画でした。 ただ、両者には決定的な違いがあります。 地獄甲子園は、作者漫画太郎先生から僕たち読者に一方的に与えられたカタルシスです。 僕たち読者は地獄甲子園という作品の中で自壊していく世界観を傍から眺め、漫画太郎先生からカタルシスを授けてもらうのです。 一方の神撫手は、読者が積極的に破壊する漫画です。 読者は神撫手の任意の部分をむんずと掴み取り、片手で軽く握りつぶすことができます。 他の作品には論理的整合性や一貫性などの支柱が組み込まれているため、なかなか握りつぶすことは出来ませんし、がんばって握りつぶしてもあまり気持ち良くなかったりします。 ですが、神撫手は違います。 誰もが握りつぶせます。面白いほど簡単に潰れます。プリンみたいです。 潰すつもりがないところまで気付けば潰れてます。 その余りの潰しやすさ、これが神撫手の最大の魅力ではないでしょうか。 「えっ!?ここまで壊れちゃうの!」 神撫手を一通り吟味し終えたとき。 あなたは、手元に神撫手という物語が何一つ残っていないことに、きっとビックリすることでしょう。 と、こう書けば、神撫手という漫画は救いどころのないクソ漫画のように思われるかもしれません(実際そうなのですが)。 ですが、この漫画が「悪い意味で」とはいえ、一応商品価値を持ち得たその事実は否定できません。 僕がこの神撫手を通じて、“握り潰せる漫画”という楽しみ方を知ったのは確かなのですから。 漫画に対する従来のコミットとは別の手法を提供した(堀部先生は意識してないけど)という点は評価すべきでしょう。 その意味で、神撫手には一般になされている以上の評価を与えても良いと思うのです。 僕は、正直、この堀部先生のテクニックを盗みたい。 誰もが簡単に握りつぶせるストーリーを作ってみたい。 与えられるだけじゃない、自分から積極的にコミットできる、そんなエンターテイメントを作ってみたい。 そう思い、僕は勇気を出して神撫手単行本を2冊も買ったのです。 この読むのも苦痛な漫画の単行本を2冊も買ったのです。 元は取らねばなりません。 僕はこのテクニックをマスターし、そして、応用してみせると誓ったのです! →空虚の解析(前編) |
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