●国はこんなにすごい |
最近、「影響を受けたインディーズアーティストは誰か?」という質問があり、数日考えてみたところ、結局、狩生健二さんの「国」しかないという結論に達しました。 というわけで、「国」の芸術的価値や、僕に及ぼした多大なる影響などを分析してみたいと思います。 こんなテキストを読みたい人間が何人いるか分からないし、第一、国のライブはもう見ることができないので、このテキストには意味がない気はします。 需要の無いところに供給することほどエネルギーの無駄遣いもありませんが、書かねば気が済まないので諦めて書きたいと思います。 (興味をもたれ方は、僕の紹介文、ならびに本家HPもご参照下さい) まずは国の演奏を要素要素に分解してみましょう。 《メイン》 狩生健二 主にボーカル。 自作のカラオケ(80年代ダンスミュージック風)に乗せて、あらん限りのエネルギーで歌う。 曲の完成度は無駄に高く、非常にキャッチーで普通に踊れる。 曲のクオリティから判断するに、狩生さんは相当ダンスミュージックを研究しているものと思われる。 しかし、キャッチーな曲調とは相反し、狩生さんの動き・歌い方(パフォーマンス)は挙動不審そのもので、うまく言葉にできないが、彼は私がこれまで見た人間の中で最も挙動不審の才能に恵まれている。 歌い方に関してだが、あれだけ怒声を張り上げているにも関わらず、リズムだけは保っているところが恐ろしい。 あの歌い方で、どうやって理性を残しているのだろうか。 傍目には力いっぱい声を出すこと以外、何も考えていないように見える。 歌ってないときは常に何か喋っている(MC)。 MCの内容はまったく支離滅裂で、連想されるワードからむりやり文章を作り出しているようだ。 これを歌が始まるまでノンストップで続けるのだが、実はこの「その場で文章を作って間断無く喋りつづける」というのは、ものすごく難しいことで、かなりの修練か、もしくは天性の才能というしかない。 挙動不審の才能といい、狩生さんは無駄な才能に溢れている。 基本的には狩生さんの血管はちきれんばかりのカラオケが国の音全体の9割を占めている。 《その他》 狩生さんの他には良く分からない人が突然入ったり消えたりしている。 他のメンバーは不定期のようだ。 国時代にもっとも多く見られたメンバーはエロスミスという人物で、狩生さんのカラオケ曲にほとんど関係なく、聞き取れないラップを吐き続けている。 他にも尺八をボエ〜と吹く人など、基本的に誰も狩生さんのカラオケに合わせようとはしていない。 これらの要素を考えるに、私は国というバンドを次のように定義したいと思います。 「国の本質とは不愉快な高揚感である」 と。 一般的なバンドのライブにおいて、気分が高揚するときのことを考えてみます。 たとえば曲のノリが良かったとき、曲のビートが速かったとき。 国における狩生さんの自作カラオケテープは、間違いなくノリの良い音楽です。 その曲を聴いているだけで、心が弾み、踊り出したくなるでしょう。 つまりここまでなら、国はまったく普通の「心地よい高揚感のあるバンド」なのです。 では、国のどこらが不愉快か? それは狩生さんのボーカルです。 血管はちきれんばかりに力の限り歌う、その歌唱法は普通のバンドでは決して受け入れられるものではありません。 曲の情感やメッセージ性など様々な大切なものを全て葬り去るからです。 しかし不愉快なのは歌が酷いから、ではありません。 この歌唱法から受ける衝撃というものは非常に大きなものです。 通常、歌を唄うという行為には様々な技術的留意が必要となります。 しかし、そういった留意を一切省みず、あらん限りのエネルギーをぶつける歌い方。 それを受けた僕たち聴衆は、芸術に触れたときの感動ではなく、たとえるならば血なまぐさい暴力を見せられたような、より動物的な高揚感を感じるのです。 直裁に言えば「ものすごい大声を出されると人は高揚する」ということです。 といっても単に声がでかければ良いと言うことでもありません。 それならば大学の応援団はどんなに簡単なことでしょう。 狩生さんの歌唱法で大切なことは「自分の肉体的限界を超えて」大声を出していることです。 彼の全てのエネルギーを「力強く歌う」ことだけに特化しているのです。 繰り返しますが、なぜあれでリズムが保てるのか、本当に不思議です。 そして、ハイテンションかつ意味不明な途切れることなきMC。 狩生さんの歌唱法について徹底していえることは、彼が常に己の全力を出しきっていると言うことです。 一人の人間が全力を出しきる姿が、僕たちの何か根源的な共感を呼び覚ますのでしょうか。 国のボーカルが不愉快であるとは、まさにこういうことです。 国はその曲だけをピックアップするならば、非常に軽快でキャッチー、僕たちは文化人として「胸を張って」この曲で高揚感を感じることができるのです。 しかし、その一方で狩生さんのボーカルはまさにけだものの咆哮。 僕たちは人間という動物として、その雄叫びに心を高揚させるのです。 お分かりでしょうか? 僕たちは「曲に騙されている」のです。 その軽快な曲のノリに僕たちは高揚感を感じます。これは事実です。 そして、次に狩生さんのボーカルに野性的な高揚感を感じます。ここが問題です。 僕たちは「高揚感」に関して、軽快な曲による高揚感と、野性的な雄叫びの高揚感を全く区別することができないのです。 文化を放棄した高揚感、文化人として、これほど屈辱的な愉しみはありません。 これがまさに狩生マジック、狩生さんの天才的なところだといえるでしょう。 そして、狩生さんにより狂的に高揚された感情に、その他の人たちが様々なファクターを付け加えます。 好き勝手に吐き出すラップも、何の関連性もなく吹き出す尺八も、突然現れて人にぶつかったりする大仏の仮面をつけた人たちも、普通に考えれば百害あって一利ないものですが、この狩生さんの生み出す高揚感に「すべて誤魔化され」、まとめてひっくるめて「勢い」と感じられるのです。 論理的な愉しみはそこにありません。 人はケモノに戻るのです。 しかし、それこそがまさにロックへの原点回帰といえはしないでしょうか。 ものすごく乱暴にまとめてみましょう。 国における狩生さんの狙いとは、おそらく、 「曲がノリノリで血管がはちきれるほど歌えば、客は興奮する。興奮さえすれば、周りが何をやっていようが、MCの内容が意味不明だろうが、歌詞が馬鹿げていようが、客はノリノリになる」 というところではないでしょうか。 まったく、なんというしたたかな計算でしょう! 僕が国のライブから受けた衝撃とはこういうことです。 それまでの僕は、音楽で人を感動させるということは、美しいメロディーや、かっこいいパフォーマンス、演奏やボーカルの技術、共感を呼ぶ歌詞、そういったものが必要不可欠と思っていました。 僕でなくとも、おそらく多くの人はそう考えていることでしょう。 ですが、違うのです。 上記のように、人は「曲がノリノリで、力いっぱい歌ってる」だけで、高揚することがあるのです。 このことを否応なく気付かされた、そのときの僕の感動を推し量って頂けますでしょうか。 また、国が優れているところは、そのライブが類を見ないほど楽しいものだと言うことです。 このような音楽そのものよりも、もっと根源的なメッセージを伝えようとする表現しようとするバンドはいくらでもあります。 しかし、そのようなバンドは得てして難解であったり、見た目が寂しかったり、理解しにくいものです。 たとえそのメッセージに強く共感できても、心が弾むことはありません。 国はそのようなバンドでありながら、誰が見ても楽しく、理解しやすく、心に直接訴えかけてきます。 僕はこのようなバンドでこれほど成功した例を見たことがありません。 狩生さんは全く、本当に天才だと思います。 追記 現在はMP3.comにて、国のライブ音源の試聴が可能です。 "secret love affair"という曲が、僕のいちばん好きな「恋のテレポーテーション」という曲です。 録音版なので、「血管はちきれんばかりに」は歌ってないように聞こえるかもしれませんが、実際ライブを見れば気の毒になるくらい全力投球です。 いま、国は島と改名し、まだライブ活動を続けていますが、現在はトーク主体で歌も若干余裕を持って歌っているため、同じ系統のバンドではあっても、狙いは全く別、違うバンドとみて良いでしょう。 僕としては昔の国のライブがまた見たいところですが、しかし彼のようなアーティストは昔のアクトを引っ張り出すようなことはしないので、望むだけ無駄でしょう。 国が動いていたときに、そのライブに触れることができ、しっかりとその意義を受け止め消化できた自分の僥倖を喜ばずにはいられません。 |
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