約束の
さあ行こう。木漏れ日さすその場所に。


序章
〜それもささやかな差異だと嗤え〜



「いよいよ完成ですね、博士」
 小さな窓から入る逆光の所為で、幾らか暗い研究室らしき部屋で、若い助手らしき男が弾む声で、囁く。
「………長い、道程だったが………それもあと僅かで完成だ………」
 もう一人の、老齢の『博士』と思しき男は、そう言うと満足げに低く笑った。
 手元の怪しげな液体を何処か遠くを見つめるように眺めながら。

「科学は………また進歩を遂げるんだよ、私の手でね………」

 マウスでの成功率は限りなく高い。人体実験も当然しなければならない。だが。 

 明日。
 明日、師と仰いだ『あの方』が来る事によって、またこれは確実なものになるに違い無いのだから――――。
 夕闇が全てを包むその決して然程広くもない研究室で、彼はまた低く笑った。




「え?室井さん……明日、出張なんスか?」
 食後のコーヒーの甘い香りと共に、年下の彼はちょっと不満そうに呟いた。
「俺、折角定時で上がれそうなのになー……」
 残念なのは、実は室井も同じではあるのだけれど。
「……仕方ない、明朝来日するのが決まったと先刻連絡が入ったんだ」
「あ………あの、ニュースでやってた超有名な科学者、です?」
「超、はやめろ。超は。極秘の研究に携わってるらしくてな…テロに狙われる可能もあるらしいからな……」
 図体のでかい割に背を丸めて、青島は上目使いで見ながらコーヒーカップを渡すついでに、綺麗な年上の上司の手をそっと握りしめた。

 カチコチ。

 甘い香りが。静かな空気が。確かに横たわるその場所で。

 カチコチ。

 時を刻む機械の音だけがやけに耳に入り込む。

「…青島?」
「………………………」
 そのまま、優しく手を握られ温もりだけを与えられる。
 不思議に思いながら、その茶色の瞳を見つめ返す。
 すると、なんの表情も浮かべないまま、唇だけを僅かに動かした。
 ―――それでも、その部屋には十分すぎる音量だったけれど。
「………ね」
「…え?」
「気を、付けて下さいね」
 きゅ、と唇をきつく噛んで、すぐに青島は視線を落とした。
「……出来れば行かないで、なんて言いたいけどね。そんなの無理だし、我が儘だし」
「……………」
「テロの警備に、なんでキャリア引っ張ってくかなぁ…」
「……青島」
「俺仕事大好き。戦ってるアナタ見るとわくわくするしね。でもさ、めちゃくちゃハラハラするのもホントな訳で」
 ――――他の人犠牲にしても生き延びて、って言いたいけど。
(…怒る貴方が怖くて言えません)
 ちゅ、と二・三度手のひらに口づける。
 まるで忠誠を誓うように。
「だから、『お願い』します」
「『お願い』?」
「そ。『約束』がいくつもあると大変だから。―――『お願い』。聞いてくれます?室井サン」
 視線を上げた先に、愛しい人の笑顔があった。
(…ああ、大好きだ)
 刻むように、この想いを感じて。抱きしめて。
 青島も微笑む。
「…分かった。無事に、帰るよう努力するよ」
「努力じゃダメです。絶対です」
 ははは、と室井が笑う。青島も笑う。
 確かに、その時青島はほっとしたのだ。『お願い』が室井に受理されて。
 その会話の後に、仕事の内容を聞いてテロの可能性の低さを説かれて。
 だけど、心の奥にそっと灯った弱々しいあかりは。


『他の人犠牲にしても生き延びて、って言いたいけど』


 その後、青島は後悔する。
 ―――彼を、研究所に行かせた事を…。



 その日は、朝からあまり良い天気とは言い難かった。
なんと言えば良いのだろう。強いて言うならば…そう。空が今にも泣き出しそうな―――……。

「……ちゃんと、『お願い』は守るから」
 本日宿直入りの、まだ子供のように安心しきって眠る彼の。少し癖のある髪を軽く撫でながら、小さく囁いて。まだ早い時間に、室井はドアをそっと閉めて部屋を後にした。

 何度も念密な打ち合わせを済ましたその警備要綱に目をもう一度通して。一向は、空港へと向かう。
 空港の、重圧的ともいえるその物々しい警備に降り立った老齢の科学者は、苦笑しながら祖国からの護衛に別れを告げる。

「――――あなたには、守りたいものがありますか?」

 政府への形だけの挨拶も終わり、何故祖国からの反対を受けながらもこの国に拘るのかと噂のあるこの著名な科学者は、とある小さな研究所へと向かう車の中で。
 そう呟いた。
「………………え?」
 何度も繰り返し目を通した筈の、本日の警備計画関連の書類から室井は視線を上げる。
 先ほどは、確か彼は母国語で話していて通訳が居た筈で。彼の口から流暢な日本語が流れたのに驚いて、彼を失礼ながらも凝視してしまう。
「……室井さん―――でしたね、貴方には……守りたいものがありますか?」
「――――…今は、貴方を守ること。この国の平和を守ることです」
「それは、有難い事だ―――しかし、私の聞いているのは仕事、じゃなく」
 苦笑しながら、その淡い色の瞳で真っ直ぐに室井を見つめた。綺麗な色の中に、寂しげな光りを放っているように感じたのは、室井の気のせいなのだろうか。
「………こうまでして、私がこの小さな研究所に何故行くのかがわからない……そう、お思いになられるでしょうが」
 遠くを見るような眼差しで、全てを手にしているであろう科学者は呟く。

「たった一つの、叶わなかったものを取り戻すための………ちっぽけな我侭の為です」

 哀しげな声で。
 著名な科学者であり、革命家であり。多くの名声と、巨大な富と、確立された地位を兼ね揃えた筈の顔ではなく。
 置き去りにされた、子犬のような瞳で。
 ただの孤独な老人のような顔で。
「――――貴方には、守りたいものがありますか?」



 彼―――レシェアード・M・クレヴァー博士に言われた言葉は、意外にも室井の心に入り込んでいた。
(―――守りたい、もの…?)
 それは、一体どんな定義の元に並べられていくのだろう。
 研究所内に入り、室井たちは彼をマニュアル通りに守りながら、共に施設を巡回している。
 廊下をつきあたり、所員と共に左に曲がると、今まで室井の斜め前にいた黒スーツの男がすっとクレヴァー氏の左横に立った。
 何故なら左側は、すべて中庭に通じる大きな窓ガラスになっていたからだ。
 もちろん、強化ガラスではあるが―――常に彼を人目にさらさないように警備する。これは鉄則だ。
 室井といえば、ただ無言でクレヴァー氏の後ろを歩いていた。責任者ではあるが、直接仕事するのは部下だ。自分は…まぁ無理矢理後ろにいる。あまり危険性のない位置で、彼を守っている。
 施設内に入ってしまえば、前後左右どこも危険性に変わりはないが、こうして視界が遮られない場所では、やはり危険度に違いは出てくる。
 一通り武術も護身術も身につけたが、プロには敵わない。ムキになって自分の領域をでるような真似はしなかった。形では自分はリーダーになっているが、実際は彼ら護衛人(ボディ・ガード)のメンバーの意見を述べてもらい、それに従っている。
 自分よりも、彼らの方がその術を知っているのだから。自分は何も出来ない。
 しかしだからといって、投げ出したくなかった―――だから今後ろに立たせてもらっている。

 確かに、目の前にいる人間の盾に、なっている。
 自分が、確かに誰かを守っている―――それは、例えようの無いほど、誇りとなって胸の内で輝く。

(―――貴方には、守りたいものがありますか…か)

 かっと後ろを歩いていた室井に、暖かさを伴った白い光が射し込んでくる。
 目を細めて、窓から覗く空を見上げる。

『守りたいもの』

(―――守りたいものなんて、たくさんある。)
 この目の前にいる、老人も。目には見えない秩序と平和を。この国を。人々を。―――約束を。
 そしてなにより、―――ああ。
(―――たくさんありすぎて、不安になる)
 青島は別格。即座に頭がそう答えを弾き出した。彼をここに分別してはいけない。
 彼は守りたい…というレヴェルでは済まされない。

 何故なら、彼は自分の根底に有る存在だから。
 失ったら、イケナイ…”生けない”…生きていけない。
(彼は既に…『守るもの』だ)
 くすっと笑みが漏れた…。それは連鎖を引き起こし、くすくす…とこらえてもこらえても溢れてしまう。
突然笑い出した室井に、クレヴァー氏が不思議そうな顔をして足を止め振り向いた。
『―――どうしたんです?』
 彼の母国語で聞かれ、室井は口元を押さえながら答えた。
『いえ。すみません。貴方に言われた”守りたいもの”の事を考えていたら…』
『いたら…?』
『……博士、”守りたいもの”とは、その存在事態他のものとは隔絶されたものですよね?』
 目で後ろを頼むとボディ・ガードに言う。窓ガラスが左側にずっと続く廊下は、もう終わりに近づいていた為、部下も頷いて場所を室井に渡した。
『貴方はそう考えているのですか?』
『―――いえ。”守りたい”ではなくて、”守らねばならない”の違いを説く時に、少し躊躇してしまいましたので』
『…では貴方の側には、既に強く願う程の存在がいる…?』
 寂しげな、そして優しく暖かい眼差しでそう問われ、室井は答えるのに数秒戸惑った。
『”もの”と定義するとき、人は様々なものを心の中で天秤に掛けます。しかしその天秤に掛ける事すらしない”もの”があるとするなら―――ミスタ・ムロイ』
 すっと、その節くれだちしわくちゃの人差し指がぴたり、と室井の胸を指さした。
『それが、”守りたいもの”です』
『ミスタクレヴァー…?』
『大切にしなさい。…貴方の、全てを賭して守りなさい。―――これがこのおいぼれがただ一つ、他人に説ける事です』
 クレヴァーはそうしてくしゃりと笑うと、止めていた足を再び前に運んだ。
 そして室井はクレヴァーに指さされた、左胸部分に手のひらを当てていた。
 少し遅れて彼の後を追う。
 すっと…彼の笑顔と共に言葉が心に滑り込んで来た。

『貴方の全てを賭して…』

(―――当然だ…)
 自分には、彼しかいない。
 彼としか、幸せになるつもりはない。
 たとえこの先、何があろうとも…――――。



 彼の誓いをまるで見計らったかの様に。
 神は、試練を与えた…――――。






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