約束の
さあ行こう。木漏れ日さすその場所に。


第一章
〜目指していた瞬間〜


 隣にある研究所実験室の『用意』とやらが、整うまでの間。
 研究所の数名、取材を許されたマスコミ数名と共に、ボディ・ガードと室井、そして部下の姿があった。

 しかし、と室井はふと思う。
 一体何の為の研究なのか、と。
 もちろん自分は専門の科学者では無いし、詳細は言われても物の半分も理解は出来ないに違いない。しかし、この都会から離れた―――失礼ながら、そう大きくも無い研究所に何故祖国から1歩出るというだけで命を狙われる危険まで押して、彼は何に拘る必要があるのだろう。
 日本政府直々の、依頼。そして物々しい程の警戒。護衛だけではなく、スパイまでも警戒するその研究とは。

 静かに、ドアが開き。
 一人の、男が入室すると、それまでソファーに深く身体を預け目を閉じていた博士がゆっくりと立ち上がった。

「お久しぶりです―――博士」
 
 ゆっくりと二人は互いの手を握り締め。何処か遠い目で何かを追っている。憧憬か。それとも……?
「時が、来たようだ」
 博士は、部屋に居る数名をゆるりと見回して、口を開いた。
「―――私には、『守りたいもの』があった……もう、随分と昔の話だが」


『守りたいもの』


 そのフレーズに室井が顔を上げると、博士が自分を見つめていた目と合った。

「その人は、私を置いて―――神の元へと旅立った。私に何も残せない事をずっと詫びながら」

 ゆっくりとその年齢を重ねたその手を、胸に当てて。
「愛する……守るべき人を、私は二度見送った。今、完成されるであろうこの研究は、神をも背く行為と知っていながら……しかし、この数十年間私はこの為だけに老いぼれた只の抜け殻を引きずって来たと言っても過言ではない」
「博士……貴方の長年の希望は、私の希望でもありました。抜け殻などと哀しい事を言わないで下さい」
 教授―――そう言われた彼は、沈痛な面持ちでそう呟く。
「『私には、貴方に残してやれるものが何も無い』……そう、二人は言ったのです………想いとか、形の無いものではなく」

「……それが長年の月日を費やして……哀しい、ただひとつの願いが叶うのです」



 どうぞ、と教授が博士を奥の部屋へと招いた。
 室井は中の研究室へは入らず、ドアで(少し開けておく)待機した。ナンバーカードを身につけたカメラマンと記者、そして三人のボディガードが入る。すでにこの研究所は予防策として様々な点検をなされているが、テロとは気を抜いた瞬間に攻撃してくるものと考えて間違いはない。いつでも博士を守れるようにと気を張りつめた。

 中に入った彼らの会話が、所々耳に入ってくる。

(博士の言った台詞と、研究内容には一体どんな関係があるのだろう…。)
 暇があったら、取材陣に尋ねてみるのもいいかもしれない。彼らは至っておしゃべりが好きな者が多いし、まとめた記事を推敲するのにちょうどいいと室井に研究内容を話してくれるだろう。


『私には、貴方に残してやれるものが何も無い』
 それは室井自身さえ、ふいを付けばわき起こる発作にも似た思いだった。
『何も残せない…』
 それは…。そう…彼に、愛していると囁かれたとき。

(何もないのだ…)
 彼に、返せるものなど。

 博士は、愛している者二人を見送ったと…言った。
 なんて強い人だろう、と思う―――例えそれが彼が思う願いの為なのだとしても。
 愛する人に先に逝かれる事ほど、辛いものはない。
 自分の願いを叶える為に、”生きる”。他の誰かから薄情だと言われても。
(私は青島に何も残せない。)


 ―――それは自分たちが同性だから。


 自分が男である事を悲観したりする事はしなかった。それをすれば、青島が愛してくれた、自分自身を否定することになる。卑下する事は簡単だが、それは相手の意志すら無視した一種のエゴだ。愚かな真似はしたくない。
 そう、男だから。
 どんなに彼と交わっても、どちらかの体に命が宿る事がない。
 ふるっと軽く頭を振った。このまま考えれば泥沼に填る。やめよう。
 今は仕事に集中する事。
 そう…これが、体じゅうを満たすような爽快感をもたらす。
 青島に会ってから、自分は喜びを感じる事が多くなった。何かが何かの形でいつも充実している。
 世知辛い現実も、いつか彼と共に迎える未来の為のステップなのだと思えば、苦しくもなんともなかった。これは絶対に間違っていると思えば、必死に抵抗した。時には一倉に揶揄されて警告を受けた事もあるが、自分に嘘偽りをしない…率直に生きていくという事は、こんなにも自分に自信と誇りをもたらしてくれるのだと知った。
(…お前が好きだと言ってくれた私を貫く…)
 ふっとふいに口元が緩む。
 すぐに手で隠した。いけない、集中力が落ちている。

 ふっと両の瞼を落とす。精神統一をてっとり早くするには、まず視界を閉じる事だ。
 ざわざわ…と話し声がドアの向こうから聞こえてくる。
 こちらの(室井のいる)連なっている控えの部屋に待機する警備員と、研究員の動く物音も微かだが分かった。静かに、肩の力を抜いて深呼吸を数回。

(………?)

 そうして初めて、ざわりっとした不快な感覚が背中を撫で上げた。
「――――…?」
 瞼を上げる…すさっと首筋に触れられたような…視線―――?
 ささっと素早く室内に視線を走らせた。不審な行動をしている者は誰もいない。
 ドアに体を寄せたまま、室井は近くのボディガードに視線を投げた。男は外を監視していたが、すぐに気づきこちらを振り向いた。研究員に気取られぬように静かに室井の側に来る。
「いかがなさいました」
「……気の所為かもしれないが…視線を感じないか」
「視線…?どこからですか」
 プロである自分に感じられないのに、というニュアンスが露わだった。けれど室井はすまないと一言断ってもう一度悪いが…と促す。
 すると、はっと男も体を強張らせた。そしてキツイ眼差しで室井を見る。
「…失礼しました…。確かに、視線を感じますね…―――よく気づいたものだ。これは殺気ではありません。探っているだけですよ」
「殺気ではない…?そうか、済まないな、わざわざ呼んで」
「いいえ。気づいてよかった……まさか、人数までは分かりませんよね?」
 試されている、と瞬間的に分かった。しかしこれで間違いを叩き出しても、恥ではない。
「―――三人」
「……ご名答です。キャリアにしておくのがもったいないですな」
「世辞はいい。………廊下に一人。外に二人」
 こくん、と頷く。その瞳には、もう信頼という名の光が宿っていた。
「……今部下に知らせます」
「待て」
 小さく言うと、男が少し困った顔をした。
 眉間に皺を寄せて、室井が言い放った。そのまま、静かに後ろ手で扉を閉める。

「もう、間に合わない…―――!」

 言葉はもうなかった。室井と男は打ち合わせすらしなかったが、渡された資料でこの研究所内の見取図を思い出し、同時にその場を駆けだした。
 男は外に。
 室井は廊下に。
 廊下の相手が気づいたのは、室井が駆けだしてからだった。先に行動を起こしたのは外の二人だ。
 閉ざされた廊下への扉を開いたのは、相手が先立った。
 ばぁん!!
 大きな音がして、室内の研究員達が驚きこちらを向いているのが分かった。
 扉が開いた瞬間、あらゆる計算が頭を掠めていく。
 ここの検査は十分だった。おそらく銃は保持していない。外は分からないが。
 開け放たれた扉から一人の男が飛び出してきた。その手に銃もなく、着ている(清掃の従業員服)衣類に隠せそうな場所はない。
 室井はそのまま足を緩める事なく男の懐に踏み込んだ。
 びゅっと男の手が閃いて、何かが突き出される。それはモップの柄だった。
 先端についている錆びたリングがチンと鳴る。
 一瞬見失いそうになったが、室井はそのまま重心移動し体を素早くかがめた。

 次はぱしっと小さく乾いた音がした。男が深く被っていた帽子が宙を舞う。
 室井の蹴り上げをかわした時に、つまさきにひっかかり跳ね上がったのだ。
 高く上げられた室井の右足を、男が掴み動けぬようにしてこぶしを握る。
 それが繰り出された時にはもう、室井は体を(足をつかまれたままで)落としていた。
こぶしは標的を失って空を切る。
 はっと男が半ばつり下げられているような室井に視線を走らせた。しっかりと目を合わせてから、室井が言った。

「そのまま離すな。…命令だ」

 その瞳に躊躇いが走ったのを見逃さずに、室井は両手を床につき、倒立する要領で左足を垂直に蹴り上げた。かかとが顎にヒットし、がしゃん!!男は無様に後ろに倒れ込む。
 室井はそれを横目で見ながらさっと立ち上がり、駆け寄る為に走り出しながら右手でネクタイを外す。
「………う…」
 呻く男の両手を背に回して手錠を掛け、ネクタイで猿ぐつわする。自殺防止の為だ。
 その頃には研究員も何が起こったかに気づき、慌てて動き始めていた。
 後ろから先程まで話していた男が寄ってきた。
「お見事です」
「こっちに来たと言うことは、もう確保したんだな」
「本職ですからね。部下にひっぱらせます。頭に重労働をさせてすみませんでした」
「いや…久しぶりに動いていい気分だ」
 男は室井の軽口にふっと笑った。そうすると、今まで感情というものがあまり感じられなかった男に、親しみを覚える。てきぱきと指示をする彼を見ていると、気づき不思議そうな顔をされた。
「なんです、」
「いや…君も笑うんだなと」
「……貴方こそ。始終眉間に皺がよっていたのに、ついさっき笑ったじゃないですか。びっくりしましたよ。何を思い出してたんです?」
「恋人」
 抑揚をつけずに切り返すと、男が肩を振るわせて笑った。
「…そうですか。しかしいけませんよ、今は仕事中ですから」
「そうだな、たるんでいた。すまない」
「いえ。」
 博士の元へ、と促されて慌てて室井はノックして研究室内に入った。
 中に被害は無かった。あの男はどうやら浸入される前にカタをつけたらしい。博士の無事を確認し、室井と警備の人間は再び持ち場に戻った。そしてその後は何事もなく室井の仕事は終わりを迎えるかのように思えたのだが。
「……何事も問題無くとは言えないが……無事に終わって良かった」
 そう博士が呟くと、確保された男が、ぼそりと呟いた。

「―――もう、遅い」

 猿ぐつわを噛んでいる所為でくぐもって聞き取り難く、耳慣れない外国語ではあったが、それがどうやらロシア辺りの言語であろう事は明確だった。
「………何………?」
 そう室井が聞き返すと男の目がくるりと白目を向いた。
「しまった……ッ!!」
 ボディガードが猿轡を解き、即効性の解毒剤を含ました時にはもう、男は絶命していた。――――おそらく、時間を綿密に計算して、毒性のモノを事前に溜飲していたのだろうとしか考えられない。

「は―――博士!!大変です!!何者かによってデータが………研究所内でのパソコンからデータ送信されています!」

 その言葉に。
 再び緊迫感が張り詰める。
 ここには侵入者が一人いる事は確かだ。しかし―――

「―――研究所内から関係者は出ないで下さい」

 室井が静かに研究室所長に出口を封鎖し、この場の人間を一時身柄拘束する旨を伝える。
 侵入者の身体付きといい、身なりといい―――そう長い時間この研究所内に居たとはとてもじゃないが言い難い。飛びぬけて長身であったし、何より纏っている雰囲気が研究所内の者では決して無いと素人でも判り得る。


 では、誰が。


「内部に手引きした者がいるのでは………」
 そう、博士が問うた瞬間。
 目が眩む程の閃光と、爆音が辺りに鳴り響いた。



『………青島…………!!』



「………どうしたの?」
 急に振りかえった青島を、すみれは怪訝な顔で問いかけた。
 今朝早くに湾岸署所轄内で確保された犯人の取り調べが一息ついて、取り損なった遅い昼食の代わりに、せめてものコーヒーをぼんやりと啜っていたのだが。
「いや………なんか今誰か呼ばなかった?俺の事」
「気のせいじゃない?誰も呼んでなんかいないわよ」
 ――――そして、数分後。
 聊か早口のニュースキャスターの無機質な声で告げられた内容と、飛び込んで来た映像に、青島は愕然とせざるを得なかった。



―――後悔なんて、いらない―――







2000/11/17 真皓拝

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