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地球最後の日、隣にいるのは
いつも話し残したことばかり気にしていた。紗耶香に伝えたいことは未だ山ほどあった。 出会ってからこれまでどれだけ話したろうか。今となっては何を話したのかも覚えていないぐらい紗耶香と語り合ったと思う。しかし語り尽くしたという感触はなく、紗耶香に対する想いも薄れてゆくどころか、時間と共にますます大きく育っている。 そんな塊となった胸の内を少しでも切り崩して小さくすべく、この期に及んでおれはどうでもいいことを延々と紗耶香に語り続けた。 しかしいくら語ろうとも、本当に言いたい事はほんの少しも伝えられていなかった。――本当に言いたい事? おれは自分の言葉に自分で苛立ち、なおいっそう語らずにはいられなかった。だが語るほどにいよいよ虚しく空々しく、言葉を紗耶香に投げかけるほど、おれと紗耶香の距離は遠ざかるようだった。 「もう時間がない」という焦りが募り、同時に何を語っても語り尽くせないという絶望感が大きく膨れ上がっていった。 2週間後の7月25日に地球は消滅する。何をするにしても時間が足りず、悔いが残るのが恐くて何もする気にならなかった。おれはただ無気力になっていった。 せめていい思い出を作りたいという焦燥感に駆られておれは余裕を失い、些細なことで紗耶香と喧嘩するようになった。取り乱したくないという思いが強いほどに取り乱し、おれと紗耶香はひたすらすれ違った。 何をしても裏目に出た。慰めの言葉にお互いが傷つき、なじりあって少しは分かり合えた気もする。しかしながら地球消滅を前にして冷静でいられるはずもなく、ただ自分を主張するばかりで二人の間にある溝をどんどん深めていった。 相手が目の前にいるというのに、所詮は他人、一人と一人なのだというどうしようもない孤独感に覆われた。手を差し伸べても二度と再び紗耶香には届かないような気がした。 いよいよ今日が「その日」だというのに、おれは息苦しさから紗耶香のもとを離れた。 かといっていく所もなく、おれは静まり返った近所をフラフラさ迷った。児童公園の砂場に腰を降ろし、忘れ去られた黄色い子供のスコップをぼんやりと眺めた。 ふと、一人になることでようやく楽になった自分に気がついた。悲しいと思った。 その瞬間は音もなく突然きた。数瞬の間をおいておれは自分が死んでいることに気がついた。 既に肉体は消滅しているようで、何も見えず聞こえず感じられず、ただ考えることができるのみであった。 どこまでも続く無限の闇の中に上も下もなく、ただ意識だけが頼りなくふわふわ浮かんでおり、考えることを止めるとそこで完全な”無”になった。 不安や恐怖は感じなかった。ただ闇の中で孤独だった。 肉体が消えたことにより、「自分」という「枠」も消えたようだ。意識を広げるとどこもまでも広がった。意識というのは本来は無限に広がるものであり、おそらくは宇宙と同じサイズにまで広がるのだろう。 そうして意識を広げていると、突然他の意識に触れた。なにも存在しない闇の空間だと思っていたが、どうやらここには自分以外にもたくさんの意識が在るようだ。もしかして地球にあった生命は全てここに集まっているのかも知れない。 それはどこか外国の老婆の意識だった。おれは彼女の意識のどの部分も同じ瞬間に感じることができた。彼女の記憶のすべてが、今自分の記憶となっていた。彼女の経験したすべてをおれも同じように経験した。 彼女の喜び、彼女の悲しみ、産まれてから消えるまで、すべておれのこととして感じられた。 おれは自分がその老婆なのか、それともその老婆がおれなのかわからなくなった。 身体がないのだから、「二人」というのも既に意味がないのだろう。 自分というのは肉体があればこそ成り立つものなのであろう。 次におれはある犯罪者の意識に出会った。彼の犯した罪の数々をこれもまた自分のこととして経験した。しかしそこに憎しみや悪意はなかった。 彼の産まれてからのすべてを経験してしまうと、彼の犯した罪は必然だった。彼の怒りや悲しさ、寂しさ、やりきれない思いは罪を生まずにはおれなかった。しかし罪を犯したところで彼が満足するわけもなく、もちろん安心して落ち着くこともなかった。 おれは彼の人生のすべてと、彼に殺された人の人生とを同時に経験した。それはまったくやり切れない出会いだった。何一つ良いところはなく、彼と被害者の出会いは新た悲しみを生み出すだけで、その不幸の円環は閉じることなく巨大になるばかりだった。おれは彼に関わったすべての人達の叫びをすべて聞いてしまった。 おれは悲しさのあまり、また意識を収縮させ、自分の枠に戻った。 いま、おれはおれだけだった。 また少し孤独になった。自分という枠を持つことは、他人という枠を生み出すことでもあるらしい。それはまた孤独の源でもでもあると気づいた。 こう思った時おれはふと紗耶香のことを思い出した。 と同時に、おれは紗耶香の思い出のすべてを一瞬間に思い起こした。あの日のあの場所での紗耶香…笑っている紗耶香…泣きながら怒っている紗耶香…とっくに忘れていた記憶までも、紗耶香についての何もかもを、その当時とまったく同じ体験として繰り返し繰り返し、何度もおれは経験した。 そしておれは、それら紗耶香の記憶が永遠にとり返しのつかないことなのだと感じ、既に存在しない体をよじり、既に存在しない眼から涙を流して、紗耶香がここにいないことを嘆き悲しんだ。 おれはこんなところで紗耶香から切り離されて一人いるのだ。あの場所も時間ももう在りはしないのだ。再び出会うべき紗耶香はもういないのだ…… 随分長いあいだ――それが数秒なのか数百年なのか計る術もないが、おれは嘆き続けた。 散々嘆き悲しんでから、おれは再び意識を広げてみた。この何も無い闇の中、どこかに紗耶香の意識がいるかもしれない。 おれは紗耶香を探し求めて、再び自分という枠を取り払った。 それからおれは数限りない多くの命の意識と出会った。何億何兆というかつて地球に生きた生命の初めから最後までを生きた。 それは永遠に続くようでもあったし、一瞬でもあった。 その最後におれは紗耶香と再会した。 今おれと紗耶香は一人、いや”ひとつ”だった。彼女の意識はおれの中に隅々まで広がり、おれの意識は彼女のすべてを満たしていた。二人の記憶は混じりあい、合わさって一つになり、意識はモザイク状に結晶した。 二人を隔てていた肉体が消え去ることにより、ようやく二人は本当の意味で一つとなった。 |