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「アンニュイ・エレクトリーク」更新停止のお知らせ(2003.02.22 up)
このところ、更新が3ヶ月ほど滞っていましたので、その間の近況などを。
もう一つのサイトのほうでもさんざん書いているのでご存知の方もいると思いますが、「サイボーグ009」にハマリました。ここ2週間のことです。
ハマったそもそものきっかけと云うのがあまりにアレなんですが……、去年の11月23日、東京に行ったついでに東京ビックサイトで開催されていた「コミックシティ in 東京99」に行きました。
当時の私の目当ては「芸能・音楽」及び「(ジャンプ系以外の)マンガFC」だったのですが、まあ、時間余りまして(苦笑)、一緒に行った友人の用事が済むまでうろついておりました。
で、「(ジャンプ系以外の)マンガFC」の界隈をうろちょろしておりましたら、赤い防護服のお兄さんたち(のイラスト)が視界に入ってきまして(苦笑)。アニメ化したのは知っていましたが、私の住む地域では放映されませんでしたし、かなり昔に原作を読んではいたんですが、あまりに昔過ぎてだいぶ記憶が曖昧で(004のことと、003と009との間に子どもができることと、「天使編」が途中で途切れてることしか覚えてなかった)、そのため、何でこんなにサークル数が多いんだと、そっち方面から気になり始め(人によって「多い」の基準は違うと思いますが、まあ私の基準ということで)、それで、今年に入ってから原作読んでみたらハマったと、こういうわけです。
で、ハマってから気がついたのですが、私はどうやら、人造人間フェチというか、改造人間フェチというか、「人の手によって身体をヘンな具合にいじられた人」が好きらしいです。それも、バッタ男やクモ男みたいになるんじゃなくて、外見はあくまで人間に近いほうがいいらしい。
そういえば、KATAN DOLLは衝撃だったし、「ファイブスター物語」も大好きだし、「バージェスの乙女たち」も……と考えると、「三つ子の魂百までも」ということなんでしょうかね。現実に還元できない「萌え」(と云えば聞こえはいいが、要は性癖)を抱えてるってのは、とても「おたく的」な気がしますが(思いつきで書いてるので、ここら辺あまり突っ込まないで下さい)。
そういえば、奥瀬早紀(現PN・奥瀬サキ)の「支配者の黄昏」ってのも、そういう視点から見たらかなりアレなマンガでございました。
そういうわけで、32巻(メディアファクトリー版)のサイボーグ手術回想シーンで、ハインリヒの半端じゃない機械化っぷりにのけぞったりしつつ(苦笑)、作品内でほとんど語られない彼らの内部図解見たさに、コンプリートブックに手を出しかねない今日この頃です。それと、全く見たことのない(平成版、昭和版ともに)009アニメも見ておきたいです。
追伸:
009映画版「超銀河伝説」のオチが「それでは私をそのようにしてください。できるのでしょう?」(←大意)だと聞いて、とても見たくなりました(苦笑・内容的にはツッコミどころ満載らしいですが)。たぶん、しばらくはこんな調子でしょうね、私(溜息)。
いったい何だろう? なぜわたしはそれほど興奮したのだろう?……それは、なびくようなトルコ女の黒い衣装をとおして、通りすがりに自分にだけ投げかけられる微笑を、自分だけが感知しうるように選ばれているという、そうした半透明の謎のなかに、つねによろこびがあるためだろうか?
二次創作もの(いわゆる「パロディ」)のやおいの作られかた。
やおいとは、男社会の隠された擬似恋愛的要素を暴く批評行為だとか何とか持ち上げる方もいらっしゃいますが、やってる当の本人たちには自覚症状はありません。当事者としては、何故やおいを書いているかと尋ねられても、「だって○○くんが可愛いから♥」としか答えようのないものだったりします。それが楽しいんですが。
まあ、仮に定義付けておくと、「ある種の(恋愛要素ないし性愛要素のないはずの)人間関係のなかに、ついうっかりとそういうもの(恋愛要素ないし性愛要素、あるいはそれ以上のもの)を見てしまう」のがやおいである、ということになるでしょうか(あえて「男同士のもの」に限定しませんでした)。
もうひとつ、以外に重要と思われるのが、「作者(やおい萌えをしている張本人)には、その人間関係のなかに加わる意思がない」ことでしょうか。たまに、作者本人がインタビュアーや良き相談相手として作品内に登場するやおいを見かけますが、その関わりはあくまでも「傍観者」としてであって、作者本人が「恋の当事者」になることはありません。それは、作品以前の、萌えの段階からしてそうです。
萌えから自身が微妙に距離を置いている状態で、その距離があるからこそ楽しめるのが「やおい」であると云えます。
さて。そんな腐女子がどのようにやおい萌えをしているか、どのように妄想をかたちにしていくかについて考察したいと思います。
これは人それぞれだと思いますが、心のどこかにやおいの「ツボ」があって、そこを不意に押されると「やおい視点モード」に切り替わるようです……ここの「不意に」というのがポイントです。
一般的に、あまりにもあからさまにやおい萌えを狙ったような作品は、肝心の腐女子たちに敬遠される傾向があるようです。単に、不意打ちのほうがインパクトが強い、というだけのような気もしますが。例えば、マガジンの「Get Backers」は、「ああ雷帝受けなのね」とか思いつつもスルーしてますが、「はじめの一歩」でそういうネタがあったら驚きつつも大喜びですからね(苦笑・「Get Backers」雷帝受けの方、すいません他意はないです)。
そんな「やおいモード」に切り替わった腐女子ですが、基本的に「攻め」の視点で、受けを観察しつつ、そんな(かなり主観的な意味で)可愛い受けをいかにどうこうするか、という方向で妄想します。攻め役がいればなお良いですが、基本的には受け単体でも結構萌えます。
やおいのカップリングで、受け攻めが逆だということは、要するに視点が真逆だということです。例えば、鈴木x佐藤というカップリングの書き手がいるとして、その書き手は多くの場合「受け」役の佐藤くんのファンで、同人誌のフリートークには、いかに佐藤くんが可愛いか延々と書き連ねてあったりします。「攻め」役の鈴木くんの扱いは書き手によって千差万別で、良い場合は「佐藤くんの彼♥」「この二人の関係が好き♥」、最悪の場合、「鈴木って正直ちょっと苦手……」と同人誌でヘイトトークをかまされていることもあります。
これが、佐藤x鈴木のカップリングでは全てが逆になります(リバーシブルというのもありますが……)。カップリングの受け攻めは、大袈裟に云えばその人の価値観に基づくものなので、真逆のカップリング同士が相容れないのも無理はないと思います。
キリがいいところで一旦切ります。次回(いつになるのか……)はもう少し突っ込んだ話を。
小説のなかで、ヒロインが「赤ちゃんができたらしいの」とこれ見よがしに宣告するシーンを、そしてそのためにヒーローが青くなってあわてふためくシーンを、あなたも目撃したことがあるでしょう。それらはいつも、限りない「どこかで見たぞ」感とともに、わたしたち読者をなんだか鼻がムズムズしてくるような恍惚の世界へいざなってくれるものでした。「妊娠小説」とは、いわば、かかる「受胎告知」によって涙と感動の物語空間を出現せしめるような小説のこと、であります。
斎藤美奈子「妊娠小説」より引用
その1:
うちの母が、最近、ハーレクインロマンスを読み漁っています。
私もちょっとだけ読んでみましたが、一旦よい方向に状況がひらけるとなった途端、すべての障害物がご都合主義的に取り除かれ、素敵な恋人と真実の愛をつかんでいくそのさまは、なかなか凄まじいものがありました。
さて。そんなハーレクインロマンスにおける素敵な恋人ですが、やたらコンドーム装着率が高いのです。
なかには、ヒロインの前で下着を脱いだら、コンドーム装着済みのナニがこんにちはしていた方もいます。なんて用意周到なナイスガイなんでしょう。
当然、事が終わったあとのヒロインの台詞は、
「どうもありがとう……つけてくれて……」
でしょう。これで決まり。
ハーレクインの描く「女性の要望に沿ったセックス描写」というのも、まあ、たしかにゴムは付けていて欲しいとは思いますが(苦笑)、ここまで徹底されるとかなり間抜けなシロモノになるなあと思いました。
その2:
番組改編期のスペシャル番組の定番ネタで、「子だくさん一家」というのがあります。
少子化の進んだ現代では珍しく、軽く10人はいる子どもたちが狭い我が家をてんわやんわの大騒ぎ、とTV的には「ほのぼの」や「いい話」のつもりで放映されている、あれです。
そんな一家のなかに、かつて「三好さん一家」という10男7女の大家族がいました(本が出てるんですね)。この一家、結局両親が離婚するんですね。
当時、私もこの番組見てましたけど、スペシャル番組を放映するたびに、「三好さん家のお母さんがまたおめでた。家族が増えます」ってやってたような覚えがあります(苦笑)。そりゃ、17人も生ませておいて、避妊等の学習能力皆無じゃ女性は疲れますわね。
しかし、当時のTV局スタッフはさぞや困っただろうと思います。何でよりによってそんな一家に取材を。
その3:
ユリイカ増刊の矢川澄子追悼特集に斎藤美奈子さんが寄稿していますが(リンク先に掲載されている目次では齋藤愼爾さんとごっちゃになっています)、それに拠ると、矢川さんは斎藤さんの仕事をかなり高く評価していたようです。
……そりゃあ、「妊娠小説」で「紅一点論」で「モダンガール論」だしなあ。そんなことを思いながら読んでしまった「ユリイカ増刊」でした。
東浩紀さんが、また怒っています。
詳しくは公式サイトのほうの「経歴と近況」の9月28日分を参照していただきたいのですが、どうも、「新現実」の共同編集者の大塚英志さんに対して腹を立てているようです。
この「怒っている」ということそれじたいには、メインのサイトのほうで取り上げた際につけたコメントで言い尽くした感があるので、一応こちらにも引用しておきます。
似たような状況を対・上野千鶴子で見たなあ>>大塚英志。大塚英志がもの凄くいい加減に読んでいるという状況も一緒なら、誤読された側の言い分に組する気にもなれない(苦笑)というところまで一緒。
※ ちなみに、対・上野千鶴子のときは、上野さんが、「宮崎勤が幼女連続殺人に走ったのは、日本の家長制度がもたらしたプレッシャー(あんたも早く結婚したら? といったような)に耐えかねたため」という内容の発言に絡んでいたと記憶しています(うろ覚えなので、全然違っていたらごめんなさい)。
さて。
大塚さんがちゃんと文章を読んでいるのかどうか、そこらへんの是非は正直、どうでもいいので脇に避けておいて。
「経歴と近況」での東さんのこの発言を見てみましょう。
第3世代オタクのデータベース消費(動物性)は第1世代の物語消費(シニシズム)と区別されるという主張に支えられている。データベース消費では「引用」という感覚がなくなることは、『動物化するポストモダン』のp.73以下で、子どもでも誤解のしようのない文章ではっきりと記されている。
というらしいので、テキストのp.73を開いてみました。
開いてみましたが……。「この部分は『動物化』の中核にある主張」などと云われると、かなり首を捻らざるを得ない内容でした。
どういう内容だったかというと、要するに「萌え要素のデータベースに関して」引用の感覚がなくなるという話なんですね。
果たして、「萌え要素」はデータベース化できるものなのか、「萌え要素」に「引用」という表現が適切なのかどうか、ここまで大きく見得を切られると、そちらのほうが気になってきます。
私が思うに、「萌え要素」というものはセクシュアリティの要素を多分に含むものであります。
そういうものなので、「引用」されていくものと云うよりは、寧ろ、誰かによって「発見」され(eureka! --我、発見セリの感覚ですね)、「認識」されていくものだと云えます。
例えば、「電波女」とか、「女装の美少年」とか、本来ならば「引く」ようなキャラクターでも、その物語のなかで魅力的に見えれば、「これもアリだなー」みたいな(苦笑)。
「郵便的不安たち#」の解説のなかで、斎藤環氏が、「(東氏が)セクシュアリティをあえて語らない」と書いていて、「動物化するポストモダン」は萌え要素について語っている本なのに何故? と疑問だったのですが、東氏本人が、「萌え要素」からセクシュアリティの部分を完全無視で論じていたわけですね。
それとついでに。「データベース消費では『引用』という感覚がなくなる」というのは(萌え要素うんぬんを抜きにしても)、ちょっと違うんじゃないかと思います。
最近の「データベース消費」ものの大ネタは「氣志團」だと勝手に思っておりますが(その凄まじさと「引用」の自覚については「Quick Japan」44号の特集を参照)、よく考えたら東氏の語りたいことって、所謂「渋谷系」なミュージシャンあたりをダシにして語ったほうがラクな気が……。意地でもオタク論をやりたいんでしょうか。意固地な東たん……。
追記(2002年10月20日):
私が「東浩紀を嫌っていて、嫌味を云っている」ふうに捉えているサイトを発見してしまいました。そういうふうに見えるんですね。反省。
昨日、山形浩生「新教養としてのパソコン入門 コンピュータのきもち」を購入しました。
この本は、単なるコンピュータのHow toものではない、コンピュータの仕組みの大づかみな部分をかなり噛み砕いて書いていて、少々大袈裟かな、と思える描写はあるものの、コンピュータをある程度扱える層が実感として「わかっている」ことを、全く知らない層に伝えるものとしてはよく出来た本だと思います。
ただ、この本の基本事項である「コンピュータのきもちになって考える」という前提じたいが、裏返せば、今のコンピュータが、人間の側にたってつくられたものではないことの証明のような感じがして、そこらへんが「何だかなあ」と思いますが。まあ、事実ではありますし。
さて。この本のなかで、コンピュータが実際にどんな状況におかれているかを表すのに、なかなか興味深いモデルが出てきます。以下引用。
ちょっとやってみよう。暗い部屋に一人で閉じこめられて、目の前にわけのわからない指示が次々に出されてくるのを、なんの意味もわからずに次々にこなす女の子になったところを想像してみよう。
何でそこで女の子が。読み進めていくと、その女の子がどれだけ孤独なのか、どんなに虚しく日々を送っているかが理路整然と描写されていて、思わず感情移入してしまいます。後のほうになると、いきなり複数のソフトを起動されて(Excelとか、結構重めのものをご想像ください)、あたふたしてる女の子のこととか(苦笑)、「何故女の子がひとりなのか」という理由もちゃんと出てきます。
「コンピュータのきもちになって考える」ってネタで、出てくるのが「理不尽な環境にもめげず、ひとりで健気に働く女の子」なもので、妙に「萌え〜」な気分になる本です。
世のなかには「メカフェチ」という人種がいますが、やはりああいう方々は、日々こういう感情で萌えているんでしょうか。
そんなわけで。それ以外の部分もいろいろと興味深い本なので、気になる方は読んでみてはいかがでしょう(著者のサイトに雑誌連載分の原稿が置いてありました)。
今、谷川渥の「鏡と皮膚」を少しづつ読み進めているところなのですが、そのなかに、かなり興味深い記述があったので、ここに取り上げようと思います。
それは、ギリシア神話のメドゥーサに関する物語なのですが、とりあえず本文から引用します。
オウィディウスによれば、メドゥーサは、もともとたぐいないほどの美貌の持ち主であり、なかでもその髪の美しさは際立っていた。あるとき彼女は、ミネルヴァ(アテナ)の神殿でネプトゥヌス(ポセイドン)に手ごめにされた。それを目撃したミネルヴァは、顔をそむけ、その清浄な眼を楯でおおった。そして女神は、神聖な場所を血で汚したメドゥーサのその美しい髪を蛇に変えた。
「神聖な場所を血で汚した」ということですから、メドゥーサは処女だったと解釈するのが妥当かと思われます。
手ごめにされて処女を失った、云うなれば「被害者」のメドゥーサが怪物に変えられてしまうのは不合理ですが、その当然の疑問については次のような説明がなされます。
アテナ(=ミネルヴァ)は、知性の神であると同時に戦いの神として、つねに男性のように武装した姿で登場する。この処女神は、みずからの女性性を拒否し、あるいは排除して、その恐るべき青い眼で真直ぐに対象を見る。(中略)その彼女が、最も見たくないものを見た。排除したはずの女性性、あのおぞましい「自然」を。はじめて彼女は眼差しをそらす。
要は、女性性を拒否した処女神の目の前で、「女性であること」のおぞましさを見せたために、メドゥーサは怪物にされたのです。
本文中には触れられておりませんが、女神アテナは、「ゼウスの娘で、すっかり成人して鎧かぶとをつけた姿で彼の頭からとび出してきた」(山室静「ギリシャ神話<付・北欧神話>」から引用)と云われておりますから、その誕生からしてすでに女性性を排除された存在であったと云えます。
さて。「メドゥーサの首」と云えば、ペルセウスとアンドロメダの物語でおなじみですが、その首が最終的にどうなったかはご存知でしょうか。
メドゥーサの首は、最終的に女神アテナが自分のものにしてしまって、楯の中央に嵌め込んだんです。
……これ、どう解釈したらいいんでしょうかね。
女性性を拒否した処女神が、「女性であること」のおぞましさの象徴のような怪物を、かなりまわりくどい方法で、最終的に自分のものにしてしまう。
自分の身は汚さないままで。
何故、こんなまわりくどい方法を取ってしまうのでしょう。
女性にとって、処女性とか、性交の有無とか、そういう問題はかなり大きな問題だと思います。
ゴスロリが気になり始め、某ゴスロリ系ファッション誌の精神的支柱と化していた嶽本野ばらの小説を立ち読みしてたら、「そういう部分」の扱いが絶妙で(女性性の拒絶が印象的な長野まゆみとは好対照)。その流れで、吉田秋生の「吉祥天女」や「BANANA FISH」も……と思っていた矢先に、「メドゥーサの首」で決定打。
人は(「乙女は」と言い換えたほうが正確でしょうか)、もしかしたらかなり昔から何も変わっていないんじゃないか、と思ってしまった今日でした。
この話(「やおい論」と云うよりは「乙女論」な気もしますが)、しばらく続きます。
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