近親相関




1.長男的怒涛の長谷川家事情。


 長谷川家の朝は戦場だ。
 次男・柴紀(しき)が大学二年生という優雅な身分のためゆっくりと眠っている以外は、高校生の三男・瑞貴(みずき)に四男・葵(あおい)、中学生の五男・加奈(かな)、そしてこの春から晴れて高校教師となった長男の俺、四人の男がどたばたやっているのである。平均的日本家屋に比して、広いと形容できる我が家ではあるが、それでもかしましさは払拭できない。
「オレのパン焦げてるじゃん〜」
「んなの、表面剥がしたら食べられるでしょ。我慢しなよ」
「オレはぱりっとしたのが好きなの!食えるかよ、そんなの」
「じゃあ、焦げたの食べてガンにでもなってれば」
 瑞貴と葵が食堂でぎゃあぎゃあ言い合っていると思えば、少しくせの入った髪が収まらないと洗面所で加奈が悪戦苦闘している。どうせ、昨夜髪が濡れたままで眠ってしまったのだろう。
 俺はといえば、前の日にちゃんと準備していたはずの今日の授業で使うためのプリントの原紙が消え、必死こいて部屋と隣接した書斎とを探しまくっていた。
 そうこうする内に時間だけが過ぎていき、晟南学院中等部―――JRで三駅先の加奈をとりあえず送り出して、すでにJRでは遅刻が決定している弟二人を車に詰め込んで、俺は勤務先の私立尚学館高校へ車を発進させた。無論、弟二人も尚学館高校のそれぞれ三年・一年に所属しているのである。

 
+ + + + + + + + +

 ほんの数ヶ月前からしたら、想像もつかない生活ぶりだと思う。
 まず、三ヶ月前にはただの大学生だったのだ、俺は。その頃には尚学館高校の教職に就くと決まっていたのでそれなりの社会人生活を送ろうという覚悟は決まっていたのだが。
 だが、である。
 こんなことになるとは思いも寄らなかった――――バックミラーで、寸時を惜しむように眠っている弟たちを見遣って、思わず笑んでしまう。
 その三ヶ月とちょっと前まで、俺は”三人兄弟”だったのだ。
 三つ年下の、弟というにはなかなか雰囲気上無理のある―――あいつのほうが年上のようだと知人にはよく指摘されるのだ。まあ、あいつが外面がいいせいだと思うんだが―――柴紀と、八つ年下のカワイイ盛りの―――そう言ったら顔を真っ赤にして怒るところがまたカワイイと思うのだが―――加奈との、三人兄弟。
 近所の人たちも、俺の友人知人含めて、誰しも俺の兄弟はその二人だけだと思っていただろう。かく言う俺だって―――そう錯覚しそうになりつつあったのも事実だ。今でも、軽い違和感はある。
 が、当然、それを上回る―――これは、たぶん幸せなんだろうな。
 十年の歳月を経て、再び家族が元に戻ったのだから。
 父と、母と、四人の弟たち。そして、俺。
 これが長谷川家の本当の家族構成だったのだから。

 三月の初旬に起こった激動が思い起こされる。六日間のオーストラリア出張を終えて帰って来た父の口からもたらされた言葉。その信じられない内容に、俺も柴紀もかなり半信半疑だった。加奈に至っては舞い上がって何がなんだかよくわかっていないようだった。―――それもそうだろう。加奈はまだ幼すぎて、覚えていない事が多すぎた。
 だが、そんな俺たちを尻目に真実はきっちり時間どおりに成田空港に降り立った。迎えに行った長谷川家の失われたピース。違和感はあったけれど、それはちょっとした時差のようなもので、慣れたらこれほどしっくりと嵌るものなんて他にあるはずがない。
「お久しぶり!私の子供たち」
 十年ぶりに会った母は、記憶と全然違うことなく溌剌とした生気溢れる笑顔を向けてきた。その後方には、こちらは記憶とは完全に異なった―――どこかしらかに面影だけは残したものの、すっかり成長した姿の、弟たちが二人立ち並んでいた。
 
 そう珍しい事ではないだろう。
 十年前の事である。俺が中学一年のとき。加奈などまだ五歳になるかならないか、甘えたい盛り。
 父・長谷川巽(はせがわ たつみ)と、母・多香子(たかこ)は離婚を決めた。
 理由の本当の所は、よくわからない。ただ、父も母も忙しい人たちで、すれ違いがいつの間にか修復不可能な溝を作ったのかもしれない。それに、その頃は母は仕事の関係上、海外への赴任を迫られていた。出世がかかったでかいプロジェクトの主任に抜擢されていたのである。夫婦としてなら、夫を残しての単独渡航は決意しがたかったのかもしれない。彼女は離婚する事でその仕事を取ったのだ。
 そして、両親の間で協議された結果、俺たち五人兄弟は父の側に俺と柴紀と加奈が―――母の側に瑞貴と葵が引き取られる事になった。
 当初、母は、父の負担等を慮り、下の三人を引き取るつもりだったのだが、当時体の弱かった加奈が出発間近にも発熱して寝込んでしまった事もあり、加奈は日本に残す事になったのだ。
 こうして、長谷川家は二つに分離した。
 一方は父とともに日本に。もう一方は母とともに海外に。
 数年の間は一月に一回ペースで手紙のやり取りがあったし、電話もしょっちゅうしていたのだが、いつの間にやらそれもご無沙汰になっていき、ここ数年は全く音信不通になっていた。
 それが、どうしてこんな事になったのか………。
 父がオーストラリアに出発する際は、そんな兆候など微塵も感じなかった。むしろ、そのほかの件で多忙を極めていた父はオーストラリア出張を断りたかった節もある。が、帰って来たときには、近年まれに見るほどの上機嫌ぶりでほくほくの笑顔だったのである。
 そのときも同じように成田空港に迎えに行った俺に、「父さんはオーストラリアで最愛の人を見つけたんだよ」と、まあ、年甲斐もない事を言ってくれる始末。母さんと別れて十年、色恋沙汰とは縁を切って仕事に没頭していた父である。とうとう春が来たかと、父の恋愛を歓迎するつもりであった。しかし、父の口をついて出たのはそんな予想を遥かに凌駕する出来事で、曰く、
「母さんに会ったんだよ。偶然、仕事先で。もうね、お互いに目が合った瞬間、周りが見えなくなっていたよ。母さんなんか、億規模の商談の真っ最中だったのにね。私も、人のことは言えないがね。なにせ、十年前と全く変わっていない………いや、もっと綺麗になった母さんに見とれてしまって、仕事なんかどうでも良くなってしまっていたんだよ。同僚をそっちのけで母さんを食事に誘っていたし………」
 と、語る事、自宅までの間ずっとであった。
 そんなことを言われても、信じがたいと言うか………母さんってカナダにいたんじゃないのかよとどうでもいい疑問ばかり口をつく始末。
「それで、ね」
 自宅の車庫に車を収めたところで、父が改まって告げた。
「私と母さんは再婚する事に決めたんだ。こんなに愛し合っていて、別れたままなんて出来ないだろう。………母さんは、私のプロポーズを受けてくれたよ。今度こそ、真実の愛を誓うと、仕事を辞める決意までしてくれた。私のそばにいたいからと言ってくれたんだ」
 はあ、そうですか。という気分である。
 自分の父と母の大恋愛話―――それも過去の話ではない、現在進行形で展開中の話など、面映いだけだ。体が痒くなりそうだ。
 父は、俺のそんな様など眼中にないのだろう。青春真っ盛りの少年のように顔を赤らめて言った。
「あさってに、母さんが日本に帰ってくるんだ。お前の弟たち―――私の息子………瑞貴も葵も帰ってくるんだ。懐かしいだろう」
 そうですかと生返事を返そうとして、俺は自分の舌が固まるのを感じた。
 母さんとの話はあまりに非現実的過ぎて実感なんて沸いてこなかったが、記憶のそこにある名前―――瑞貴と葵、俺の弟たちの名を聞いて、ようやく、実感のようなものがこみ上げて来たのだ。あさって。そんな、目と鼻の先の邂逅には未だ半信半疑であったものの。
 そして、やってきたその日。
 別れたときはまだ八つで、年の割に小さいほうだった瑞貴がやたらとデカくなって―――俺を越しているのだ!まったく!―――、真っ黒なサラサラの髪が茶髪をすっ飛ばして金髪になっているけど、それでも照れたときの仕草が昔そのままのことや、葵のくりくりした目や笑顔のときにえくぼが浮き出るところが昔と全然変わらないだとかが、俺の徹底的に沁みこんだお兄ちゃん根性を強く揺さぶるのを感じた。
 大学時代からの友人の江坂純平(えさか じゅんぺい)に典型的長男と呼び表されてきた俺である。さっそく二人の世界を作ってじゃれ合っている父母を置いて今、この場をしきるのは俺しかいない。なんとなく気まずい雰囲気を払拭するように明るい話題を繰り広げようと口を開いた途端、ぬぅっと眼前に壁が出現していたのである。その壁のてっぺん付近から、声が降ってきた。
「随分とちっちゃくなったんだなあ、一哉(いちや)」
 その失礼きわまる台詞を吐いたのが、この弟―――髪を金髪に染め、口が悪くて、態度がデカイ、ただいま俺の教師生活を大変困難な立場に追いやっている張本人・瑞貴であった。

                                        
(02 09.02)
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