4.三男的定石にハマる今日この頃
信じられるか?
………いや、信じられないのは俺の頭だ。多分、イカレてる。ねじがゆるみっぱなしだ。
脳内シナプスがまともに働いていないんだ。
だってそうだろう?普通、自分の兄を、カワイイとか華奢で守ってあげたいとか、………キスしたいとか、もっと……えげつない事には………抱きしめたい………い、いや、正直に表現するなら、ヤりたいとか思ってしまうのって、普通っていうのか!?
違うよな。やっぱ、まともじゃないよな。
はあ。日本に帰ってくるんじゃなかったな、やっぱり。
なんて思いながらも、寝る前にちょくちょく眼裏に甦るのは、空港での一哉。
黒いセーターがなんだか大きめに見えて、子供が大人サイズを着ているのかと思った。すんなりとした首筋。手首が細くて、全体的に華奢で、ちっこくて、あのときの思いはまさしく、「これが、俺の兄なのか、本当に、まじでよ!」って感じ。己の母を疑ったね。その側にいた一番下の弟、加奈を見てその疑いは解けたけど。
「随分ちっちゃくなったんだな」っていうあの台詞も本音だった。ただちょっと、カワイイ=ちっちゃいという言葉の婉曲化を使用しただけ。さすがに、初っ端弟からカワイイなんて言われたら、臍を曲げられてしまうかもしれないと思ったから。
キスをするのぐらい、許して欲しい。
一哉が考えているような、家族愛のキスじゃないけれど。ま、「家族」の部分を除外すれば成り立つからいいってことにしてほしい。柔らかな一哉の唇は、それだけで味わい深い。
頬にキスするのは、けっこう容易かった。目許も額も、スキンシップだと勘違いしてくれている分、ありがちな所へのキスは回数を重ねたら慣れるようになってきた。
その分、俺も気づかれないように―――欲望を何重にも理性でガードしておかなきゃいけなかったんだけど、そのぐらいの価値があるキス。
でも、すぐ物足りなくなった。
一番欲しいところに、出来ないもどかしさ。
家族っていう近い距離がある分、最初の一歩は乗じて容易い。でも、その分、次の一歩はかなり難しい。なにせ、相手にとっては、俺は家族で弟だ。
考えあぐねて、夜を寝過ごす事もあった。
そうすると、翌日の授業が面倒くさくなる。サボるのは一哉を慮って控えるが、退屈な分、授業中に眠くなっていくのは仕方ない。なにせ、俺にとってはすべて常識のことをせいぜい長ったらしく説明調で講釈垂れられたら、辛いもんだろう。誰だって、「あ」の次は「い」と発音しなさいと言われたらうんざりする。三×三を、赤い玉を持った女の子が三人いますとか説明されたらもういいって言いたくなる、そんな感じだ。
しかしそんな俺の態度は、教師たちの癇を大きく逆なでしたらしい。一哉が職員会議で矢面に立たされた。その上、俺に対しても一哉の前で反省を促される事数度。
他の教師たちなんてどうでもよかった。俺自身がいろいろ言われるのも関係ない。ただ、一哉が俺のせいで悪く言われているのが頭にきた。
ある夜、一哉の書斎に呼び出されたとき、俺は叱責を覚悟していた。その日も、俺は地理の先生の前で、彼の主張する環境問題へのアンチテーゼを嫌味にも英語で発言していたのだ。英語が不得手な彼は真っ赤になって止めろと怒鳴った。
しかし一哉は、俺にコーヒーを勧めるとこう言ったのだ。
「お前、今の学校じゃレベルが合ってないんだな。気づかなくって、本当に申し訳ない」
怒るどころか、逆に謝られてしまい、俺は心臓が痛くなった。その上、晟南学院なら、俺に合っているかもと告げた。そんな風にきちんと考えてもらっていると思うと、中途半端な自分が嫌になってくる。
「まあ、さ。お互い大変だけど―――瑞貴だって日本の高校は初めてだけど、俺だって教師として高校に行くのは今年が初めてなんだぞ。俺も頑張るから、お前も頑張れ。お互い、努力しよう」
なんか、すげーイイと思わない?
ここで、キスしないでどうするの?
しかし、兄弟という枷が―――理性の訴えが俺を縛り、どうにか俺は頬にキスをかすめさせるだけで自分を抑えこんだのだった。
いつまでもつかな、と理性のタイムリミットを間近に―――本能の時限爆弾を抱えこんだ俺であったが、刻限はある日突然訪れた。
夜、寝る前。ふと気づいたら、居間にいたのは俺と一哉だけで、その他のヤツらは部屋に引きこもってしまっていた。
いかん。こういうシチュエーションは相当まずい。
暴走しそうな欲望を理性でぎちぎちに閉めこんで、俺は焦りの滲んだ声で一哉に告げた。
「寝る」
単純な一言だが、この一言にどれだけの俺の気持ちが詰まっているか察して欲しい。………いや、察してもらったら困る。
一哉はそんな響きなど感じ取れるわけもなく、俺のほうを見もしないでひらひらと手を振った。「おやすみ」なんて、気軽に言ってくれる。俺は、くっそーと歯軋りしたくなる気持ちを堪えて、二階に足を向けた。その背に、
「なあ、瑞貴………」
少しだけトーンが小さな一哉の声がかかった。俺が気づかなければそれでいい、そのぐらいの声音。でも、この俺が、一哉のたとえどんなに小さな声でも、俺に与えられる言葉に気づかないはずがない。
「何?」
「いや、まあ、どうでもいい話しなんだけどさ」
俺はそそくさとさっきまで座っていたソファーに戻って、一哉を正面から見つめ返した。
うーん、やっぱ、めちゃくちゃにカワイイよなあ。加奈みたいに幼いイメージではなく、大人のカワイらしさ。生来生まれ持った人しか持てそうにない気質的なもの。そのうえで、顔も親父似で、目が大きくて全体的に小柄なカワイイ感じ。母親似の俺とは正反対だ。ぎゅ〜としてやりたい。何が言いにくいのか、頬を少しだけ赤らめさせて―――冗談じゃなく、俺を誘う気かと問い詰めたい。
一哉は、ようやく決心がついたように、俺に視線を合わせてきた。
「明日、俺の授業があるだろう。三限目。………でさ、やっぱり、俺の授業も、その………つまらないのかなぁ、と。………いや、今後の参考として、ぜひ、聞いてみたいなと―――」
そのときの俺は、今でも思うけど天晴れだと思う。最後まで突っ走らなかった分、偉すぎる。ただちょっとだけ、理性が霞んだだけだ。あんまりイジラシイ一哉に、俺の中心がずきんと刺激されただけだ。
机を越えて、一哉の少し体温の高めの頬を掬い取った。一直線に、その唇を捕らえた。
「ぅんっ!」
びっくりしたような一哉の吐息をも飲みこんで、その唇にキスを降らせた。
ただそれだけ。技巧も何もあったもんじゃない、触れ合うだけのキス。
でもそれでも、俺は十分に一哉を味わえていて、最高に満足していた。これ以上したら一哉がパンクするかもしれないから、そっと唇を離してやる。
一哉は口をパクパクさせていて、とても名残惜しかったのだけど。
「やっぱ、俺寝るし。―――あ、あと、一哉の授業はあの下らない教師の中では唯一俺を楽しませてくれる代物だよ。ま、俺の意見がすべてじゃないけどね」
素っ気無い口調がうまく出来ていたのか、それだけは心配だった。
どうか、一哉が今までどおり、家族愛だのスキンシップだので今のキスを解釈してくれますように。
都合のよいときだけお願いする神様にそう頼んだ。
で。そのまま眠れたら、俺はその日、最高の夢を見られたかもしれなかったのだが。
「瑞貴」
二階のろうかで、思わぬ足止めを食らった。
「っんだよ、柴紀」
俺は、相当苛立った声を上げていた。実はこのすぐ上の兄は苦手である。
「君はいつから、そんなに深い愛を兄弟に振りまくようになったのですか」
「はあ?」
意味がわからなくて、問い返す。いや、薄々感づいていたのだけど。
「少なくとも僕は、君からそんな深い愛をもらっていないのですが………まあ、そんなものなど絶対にご免なんですが、ね」
うえぇぇぇっと、俺はうめいた。俺だって、絶対にご免だ。顔はお綺麗でも、こいつの頬は触れただけで切れそうだし。唇なんか、怖くて降らせたくなんかない。
そうなのだ。一哉は都合よく勘違いしてくれているが、俺だって相当生まれ持っての日本人である。いくら海外生活が長いからといって、お袋とキスしたことも、葵と抱擁したりなどした事もない。まあ、それなりに友人連中とは機会があればこなすが、何も家族の前でさえお仕着せの国際人を気取る必要もないだろう。
一哉だけなのだ。
キスしたいと思うのは。抱きしめたいと思うのは。
あとは、ただの家族。家族としての関係しかない。こいつだって、家族だ。キスなんて考えた事もない。
「まったく………ウチには未成年の子供が二人もいるんですよ。時間と場所を弁えなさい」
「………俺も十分未成年だぞ、おい」
「君は別。そんなでかい図体で子供ぶっても無駄です。ほどほどになさい」
「はあ」
敵わねー。
俺に一方的に止めろっていうんじゃなく―――そんなこと言ったら、俺がますますその気になるって言うのを見越した上で、「弁えなさい」か。一哉は一哉で大人だから自分の身の振り方は自分で決めるとわかっている態度。
ああ、くそう。
イイ夢見れそうな予感は露と消え、俺は苦虫を千匹まとめてかみ締めたようなツラ下げてすごすごと自室に戻った。
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