3.長男的悩みの種
ここは日本だ。
その上、尚学館高校という、ここいらじゃ「いい」とお墨付きの私立の高校。どこぞのちゃらちゃらとした校風では決してない。
の、だが………。
「長谷川先生、本当に、どうにかならんのですが?」
今日もまた、俺は年配の先生方の嫌味の的になっていた。
「はあ」
「はあ、じゃありませんよ。私の授業中、ずっと、ですよ。誇張ではなく、ずっと、50分間!」
先ほどから泡を食ったように喚いているのは、現国の酒井先生。普段、物静かな中年紳士を気取っている彼がこれだけの怒りをあらわにしているのである、どちらが悪いかなど考えるまでもない。横では地理の諸宮先生が芝居がかって大仰に頷いている。後方では磯野先生と久保山先生のこそこそ話も耳に付く。
放課後の職員室。酒井先生の机の周りには、人垣が出来ていた。
「ちゃんと注意してくださいよ、あなたの弟でしょう」
そしてもう一人、彼ら先生方の対面には仏頂面の金髪男―――身長が俺より15センチ以上高い弟、瑞貴がいた。
新人教師で一学級の副担をやっている俺は、さすがに部活動の顧問までには手が回らない。だから、放課後はけっこうすんなり時間が空く。その日も小テスト―――昨日用意しておいて、今朝見つからなかったやつである。結局、授業の空き時間に焦って作りなおしたのだ―――の採点をして、頃合を見計らって帰ろうなどと画策していた。
化学準備室のドアが開かれたのは、小テストの採点をしようと赤ペンを握ったときだった。
酒井先生と、諸宮先生がそこには立っていて、俺はまたかと頭を抱えそうになった。
始まりは、俺と同じく新人教師で女性の長友先生が職員会議中に泣き出した事件であった。周りの適齢期の男性教師たちになだめられた彼女の語るのを聞きながら、俺は次第に顔が青ざめていくのを感じた。
曰く、三年六組の長谷川瑞貴君が、私の英語の授業をまったく受ける気がない。授業中ずっと寝ているか、外を見ているかのどちらかだ、ということ。
いずれ絶対に、ぜっっったいに、こういう事態があることを予測していた俺は、すでに考えていた抗弁を口に出した。
「いや、長友先生、あいつはこの春まで10年間海外で暮らしていたから、英語はもう母国語のような感じなんですよ。後できっちり言っておきますので、勘弁してやってください」
事実なので、俺は正々堂々告げた。無論、後半部分を口だけにするつもりもなく、家に帰ったら長男らしく瑞貴をこってり絞るつもりでいた。
山を越えたと思った俺は、ふと周囲の雰囲気がなにかおかしい事に気づいた。一件落着じゃないのか………?
最初に口火を切ったのは、古文の中川路先生だった。
「長谷川先生はそう言うが、彼は私の古文の授業でも同じ授業態度のようだが………」
一人が言い出すと、ああそういえばといった具合で芋づる式に各教科の先生方から瑞貴攻撃―――俺としては大変に心臓に悪い―――が始まった。
やれ、「目つきが悪い」だの、「髪が金髪なのが目につく」だの、「関係のない授業で英語で答える」だの、「口答えが甚だしい」だの、「挨拶がきっちり出来ない」だの苦情が雨あられのごとく降ってきて、最後の一言が極め付けに「家庭でのしつけが悪いのでは?」だ。
現在のところ、長谷川家の年長者は俺であり、成人して社会人なのも俺だけ。つまり、弟たちの保護者は俺で、しつけの責任者も俺なのだ。
俺はその場で―――普通の職員会議のはずが、いつのまにか瑞貴の糾弾場と化していた職員室にて、保護者としてヤツの更正を言明させられたのだった。
それが、四月の末で、三週間ちょっと前の話。そして現在、状況は改善どころか、俺は瑞貴とともに大多数の教師から白い目で見られる立場に陥ってしまっている。
「瑞貴、反省しているのか?」
どうにかこうにか、言葉を尽くして瑞貴を酒井先生たちから救出した俺は心底疲れた目を瑞貴に向けた。
車で連れて帰ってやるから少し待っとけと、化学準備室のソファーに座らせた瑞貴はふてぶてしく笑った。
「反省?反省ねぇ。………一哉を泣かせた事なら反省してるけど」
「はあ!? 俺がいつ泣いたんだよ?」
いくら注意しても言い直さないので、近頃は呼び捨てにも慣れてしまっている。せめて学内でだけでも「先生」と呼ばせたいのだが。
瑞貴は眉を下げてさらに笑った。
「あれ?じゃー、泣きそうの間違いか」
「だから、誰がいつどこで、泣きそうになったってんだよ!」
「一哉が、さっき、職員室で、バカな教師たちに囲まれて」
だああああああ。それは、お前のせいだろうと喚きたくなる。
「情けなくて、兄ちゃん涙が出そうだったんだよ」
俺はため息とともにそう言ってのけた。
「………へぇ、やっぱ泣きそうだったんだ。さっき、肩震えてたもんなぁ」
だから、なんで泣きそうになったのか、そっちが重要なんだろうがと言いたい。だけど、こいつの減らない口は、ますます加速度的に悪辣な事を言い出すんだろう。俺は経験的にもう何も言い返すことなく、家路に急ぐため、机の上の荷物をまとめ始めた。瑞貴はソファーに座って、おとなしくそれが終わるのを待っていた。
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最初の母さんからの電話で、俺は真実を知る事になった。
「あれ〜、言ってなかったかしら。瑞貴君って、もーのすごーっく、賢いのよん。通信教育で小学生ぐらいで高校生の習う所やってたし、中高時代にはあたしの名を騙って大学の通信講座も受講してたしねー。一応日本の教育過程も終わらせたはずだから、ついていけないってことはないと思うけど、駄目そうなの?確か、あの子、日本は大学レベルしかカバーしていないって言ってたけど………」
俺は、顎が外れそうなぐらい大口開けて驚いていた。
駄目どころか、あいつにとっては日本の教師の授業なんて、英語だけじゃなくどの教科も「高校生レベル」に過ぎなくて、退屈でつまらないものであったのだ。全部知っているのに、50分間それに耐えなければいけないのは、相当きつい。俺だって、小学生やら中学生に混じって授業を受けろと言われても、眠気をかみ殺すのでいっぱいになるだろう。
本人に問い詰めてみたら、オーストラリアでは単位制になっていた上、瑞貴の学力レベルを把握していた教諭の機転で、特別の一対一の質問形式の授業をつけていてくれていたという。こちらでは、そこまでの変則授業を適用する事は出来ない。俺は、その電話があった夜、瑞貴に提案した。
「はああぁ?晟南学院の高等部に転校させる?」
瑞貴は思いきり眉をそらせた。
「イヤだね。そこって、男子校だろう?何が悲しくて、男ばっかのとこにいかないと行けないんだよ」
確かに晟南学院は男子校だが、ここら一帯でナンバーワンの尚学館高校の上を行く―――日本のトップレベルの高校である。その生徒も、日本各地から選抜試験を乗り越えた猛者どもである。柴紀が中高と通い、彼の手によって加奈も通っている。そんじょそこらの学力では対応できないハイレベルの授業を提供しているという売り文句に間違いがないことはよく知っているつもりである。瑞貴も、今よりは骨のある授業を受けられるだろう。
だが、そう、切々と訴える俺に、瑞貴は一言くれたのだ。
「だからさ、一哉は俺―――と葵が日本に慣れてないから、なんかあった時に自分が対処できるようにって、尚学館高校を進めたんだろ?………一哉のいない晟南学院に行っても意味ないじゃん」
聞き様によっては、めちゃくちゃ利用されてます俺って感じなんだけど、長男的思考が甚だしい俺としては、「頼られている!」と自動変換されうる台詞であった。
それなら俺も努力するからお前も努力しろという、いかにも日本的な、わかったようなわからないような結びでその会話は終わり、締め括りのように瑞貴に頬を掠めるようなキスをされた。
その頃にはすでにそういう行為が―――海外のホームドラマだとか映画だとかで家族で普通にキスとかしてるだろう、そんなものだ。そんなものなんだ。そうにきまっている―――「普通」なんだと思いこむぐらい、俺は瑞貴からキスを受けていた。頬に。目許に。鼻っ柱に。身長を利用されて額に。慣れる慣れないは置いといて―――生粋の日本人の俺が慣れるわけないんだが、これは家族のスキンシップなんだと自分を納得させておやすみと返した。
―――そして最近では。
「よーっし。瑞貴、あらかた片したし、残りは家でまとめるから、帰るぞ!」
ソファーで寛ぐというよりも、半分眠りこんでいた瑞貴を揺り動かして俺は帰宅を宣言した。
その唇に。
ほとんど寝ていたはずなのに、その動きは滑らかで、隙がなくて。
隙だらけの俺の唇にストレートに届いた。
半目の、サマになる顔。その顔に落ちかかる金髪がなんとも決まっている。
「―――おはよ。んじゃ、帰ろっか」
これは、スキンシップなんだ。家族愛だ。グローバルスタンダードだ。
極東日本じゃあんまり浸透しなかった風習っていうだけ。
俺は、慣れない感触を残す唇を手で覆って、ついでにその手を少し大きく広げて表情を隠して、もう一度、今度はやたらと大きな声で「帰るぞ!」と瑞貴に言った。
※あらかたフィクション。そこのところよろしくです。
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