――――ココから出たらダメ、覗いてもダメ。
そう、言われたのに――くどいくらい念を押されたのに。
隙間から覗いた目に、飛び込んできた光景。
じっとりと真っ赤に染まった目。黒々と覆われた髪の間に。
ガラス玉みたいに虚ろなのに、なぜだか睨まれているように体が竦んだ。
怖い。
後じさるのに、すぐ後ろに壁があって、そこからは逃げることは永遠に出来ないような……そんな気がした。
怖い。怖い。怖い。怖い。渦巻く恐怖。
助けて………誰か……お母さん、ここから――――
扉に鍵なんてかかっていないのに、もう、そこから逃れることは出来なくて。
その扉に手をかけることすらもう出来なくて。
………薄く扉を開くと、あの目がこちらを睨みつける。恨みがましく、非難がましく。
覗いたらダメって言われたのに、約束を破ったからきっと怒っている。
体ががくがく震えた。おこりのように、内側から来る抑えきれない震え。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい………」
うわ言のように、呪文のように呟く。震える体を両手で抑えて。
ごめんなさい。怒らないで。
約束はちゃんと守るから。
ちゃんと、守るから。
ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさい、お母さん。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「―――――っう!!!!!!!!!」
飛び起きた瞬間、確かに息が止まっていたと思う。
次の瞬間には、肺が直接酸素を要求するかのように激しい咳き込みがきた。自分の意志ではどうにもならない欲求に、聡(さとし)は肩を揺らした。上体が深くしなる。目の端には耐え切れず涙が粒になって溜まる。
(駄目だっ……止まれ、止まれ!!)
両手で必死になって口を塞ぐ。後から後から、発作のように迸る咳き込みを出来るだけかき消そうと、布団に顔を押し付けた。それでも、激しい咳が鼓膜にひどく響いた。
(こ、れじゃ、またアイツに………!)
からかわれるという段階はとうに過ぎている。その次にきたのは体調に関する探り。喘息持ってるんじゃないのかっていう視線。しかしそれは、対処用の吸引器等も持っていないことからすぐに違うと判断された。そして今は、不審げな眼差しをしばしば送られるものの―――とりあえずは不干渉を貫かれている。それは、実のところありがたかったのだけど……けれど………。
高等部に進級して、寮も高等部寮に移った。その時以来、ルームメイトととして同室で生活を共にしている男が、2〜3日おきに真夜中に異常ともいえる激しい咳き込みで飛び起きつづければ、それは誰だっておかしいと思うだろう。ましてや喘息ってわけでもない。その上それは、ある日を境にして起こり始めたのだ。鋭いアイツなら―――小早川(こばやかわ)なら、そのことにもう気づいたかもしれない。
次第に呼吸が落ち着いてくるのを感じた。肺の気泡の一つ一つに、酸素が充満したのだ。
聡はゆるゆると体を起き上がらせた。喉の奥がひりひりとする。痛い。
(………イヤな夢だ)
現実はこんなにももう、すべてが変わったというのに、もう自分はあのころの子供のままじゃないのに、こうやって夢として現実に侵食してくる。それは、思い出として記憶にこびりついているものより数倍もリアルな感情を伴っていて、現実すら巻き込むのだ。
聡はそっと部屋の反対側に設置された小早川のベッドをうかがった。顔の半分以上を布団の中に突っ込んだ寝相を数秒間凝視する。身じろぎすらしないその様に、聡は安堵の吐息を漏らした。
(慣れたのかもな………コイツも)
こうもしょっちゅう真夜中に騒がれたら、雑音に対する免疫力もつくのだろう。毎度毎度反応していたら、小早川の方だって体が持たないだろうし。
いや、だからこそ………
いっそ、ウルサイだとか迷惑がってほしい。神経過敏なヤツだと蔑んでくれて構わない。
一番怖いのは、そんなことじゃない。
聡は布団を1枚、できる限り音を立てないよう細心の注意を払って持ち上げた。それだけでは外気をしのぐことはできないかもしれないが、仕方ない。気付かれて、さらに不審がられる方をより避けたい。
布団を抱えて、抜き足差し足ベランダに出た。差し込むような冷気に、聡はぶるんと震えた。
あまりにバカらしくて、衝動的に笑いたくなった。
寒い。5月の深夜だ。寒いなんて決まっている。なのに布団1枚で震えながら、何を好き好んでこんなところで寝ないといけないんだろう。暖かいベッドから飛び起きてまで。
(現実はこんなに変わったっていうのに………)
今もこうやって、自分の意志で扉を開いて外に出れたのに。
それでも見てしまう夢は、あの時のまま。がくがく震える子供のまま。
そして何度も何度も、追体験を繰り返す。暗示のように、言葉がのしかかる。
扉は開いたら駄目だったのだ。
聡は力なく顔を左右に振った。巻きつけるように布団にくるまった。
「6時過ぎには起きないとな………」
呟く声は白く上空にたなびいた。
頭の芯まで凍える。眠れるかどうかなんてわからない。ただ、明日、小早川が起きる頃までにはベッドに戻らないといけない、それだけは確かなことだった。
「おい、聡!」
学食前で友人に呼びとめられて、聡は振り返った。
「なんだよ、利樹(としき)」
億劫そうに呟いた聡の肩を、利樹が掴む。
「なんだよじゃねーよ。お前自分の顔見たか、今日?」
「……え」
「すっげぇ、青い。形容じゃなく、青くなってる」
眉を顰める利樹に、聡は己の頬を触ってみた。その指先自体も血色なくかじかんでいて、それと同じほどの体温しか感じ取れなかった頬も、本当に酷く青ざめているのかもしれない。
「少し――頭痛がしてるから」
言い訳がましく告げた言葉は、しかし長年の付き合いの友人を騙すことなど到底出来ない。肩を揺すられて問い詰められる。
「お前、小早川にまだなにも言ってないのかよ……」
心底心配しているがゆえの強い口調。中学の3年間、同室で過ごしてきた仲だ。利樹に隠すことなんて今更何もない。
けれど。
「……わかってる、から」
聡は両手で利樹の腕を押し退けると、逃げるようにその場から走った。
「―――おいっ、聡!」
後方から利樹の声が追いすがる。その声から出来る限り遠のくようにと、聡は必死になって走った。
―――お前、病気か何かか? それともあれって願掛けなのか?
入寮して一週間、ぶっきらぼうな口調で小早川が訊ねてきた。
とっさに聡が答えたのは、思いもしなかった言葉。でも、声にした時に、それは強く気持ちへと繋がった。
―――違うっ、そんなんじゃないから!
違う。俺は病気なんかじゃない。
もうとっくに立ち直っている。あれは過去の出来事に過ぎなくて。
だから。
だから……ッ!!
聡は、学食から気付いたら寮の自室へと逃げ帰っていた。午後の授業を告げる鐘が鳴ったけれど、構わずにそのままベッドに身を投げる。どうせ教室に戻ったところで、この顔色の悪さだ。教師に気付かれたら保健室にでも行くように言われただろう。保健室行きも自主休講も、同じようなものだ。
それに、と聡はベッドに仰向けに転がると吐息を吐き出した。
なんだか、本当に熱っぽい気もする。
(昨日の夜は、ホント寒さが身に染みたからな……)
苦笑。我ながら、バカらしくなってくるな。
それでも、それでも自分一人の時は、思わず扉を開けっ放しにしてしまう。
締めとかないと、また小早川に不審に思われる。
……けれど、そう考えながらも、いつしか聡は意識を奥深くへと沈めていた。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「……あ」
目を開けると、すでに窓の外は黄昏を越えた時刻。あとしばらくで、完全な闇が空を侵食するのだろう。
「え……」
暗がりの中に気配を感じて、聡は小さく声を震わせた。
誰か、とは思わなかった。この2ヶ月ほど、同室で昼夜を過ごした気配。そろそろ慣れてはきている。とはいえ、見知った男は、こういう暗がりの中で立ち尽くすような性格ではないと思っていたのだけれど……違和感に、聡は小首を傾げた。
「小早川?」
返事は返ってこない。焦れたように聡が肩肘立てて、上体を起きあがらせた時だった。
ぐいっと、その肩を押し倒される。
「なっ!」
抗議の声を上げるが、暗がりにかすんで見えた小早川の真剣な表情に、続く言葉を飲みこんだ。
「……そろそろ俺もキれそうなんだけど?」
逆に問われる形になった聡は、事態を把握しきれず細かく喘いだ。
「小早川、何がなんだか……さっぱりわからない」
しかし小早川は意にも介さない。肩に食い込むその力は、痛いほどだった。
「ドアが開いていた。3センチぐらい。それに今日の午後の授業サボったでしょ。原口から俺が文句を言われた」
「利樹が……」
「体調悪いって? ……そりゃあの寒空の中、露天で一夜を過ごしたら風邪も引くでしょ」
ひどく乾いた声音。息継ぎの間合いが、鋭く胸を刺す。
「―――なんで? どうして夜中に外に出ないといけない?」
強張った低い声は、一瞬聡の眉根を跳ねさせた。
「…………っ」
知っていたのか。
聡は小早川の視線を避けようと、枕に顔を押し付けた。
言えない。小早川には言えない。
あれはもう過去のことで、俺は病気なんかじゃないから。
しかし、その反応は小早川の怒りに油を注ぐ行為だった。肩に食い込む力がいっそう増す。
「俺には教えられないって? まぁ、中学以来の大親友な原口クンがイロイロいつでも助けてくれるもんね。俺なんかおせっかいなだけか。……でもねー、お前のルームメイトは俺なんだよ今は!」
言うや、小早川は聡の肩をぐいっと引いた。のこる片腕で乱暴に腕を引き寄せられ、聡はベッドから引き摺るように起き上がらせられた。
(―――っぅ!)
僅かな抗議めいたうめきも一切聞き入れてくれない。そのまま部屋に造り付けのクローゼットの前まで連行される。
「いいよ、自分で暴いてやるからさ―――」
掴まれた腕がじんとしびれるほどに痛む。小早川の意図に気付いて、聡は全身を粟立てた。
「……やめっ、……小早川!!」
必死に抵抗したいのに、出てくるのはか細い拒絶の声ばかり。身体中が自分のものでないように自由がきかない。舌も麻痺したように空転する。
あの時も―――
あの時もこんな感じだった。
テレビを見ていたら、訪問客を告げるチャイムが鳴った。確認した母さんが俺を捕まえて、こんな風にクローゼットに閉じこめた。
―――ここから出たらダメ、覗いてもダメよって。そう厳しく告げられて。
いっつも土曜の夜だけは、どのおじさんも遊びに来なくて、俺も誰かに預けられたりしない、お母さんとの二人だけの時間だったのに。
不服げに見上げたら、少しだけ、ほんの少しだけ視線を逸らせた母さんが再度言い募る。
―――私がいいというまで、ここにいるのよ、判ったわね。
その時、聡はこくんと頷いた。
困らせたくなんかなかったから。母さんのため息の数を数えるのは嫌だったから。
約束を破る気は、これっぽっちもなかった。
約束を破る気は本当になかったんだ、母さん。
「……ごめ、なさ……っ」
現実と記憶がない交ぜになり、聡を混乱させる。吐き出す言葉に意味などない。ただひたすらに怖かった。
けれど、激情にあてられた小早川の力が緩まることはない。
「…ッ、今更。俺には話せないんでしょ? なら、自分で確かめてみるだけ。それに―――それに、ショック療法ってのも世の中にはあるんだし」
「ちがッ……小早川、そんなんじゃ」
「じゃ、何なんだよ!! 『そんなんじゃない、全然大丈夫、心配ない』―――そんなんじゃ、わかんないんだよ!!」
最後の言葉はほとんど扉越しだった。目の前で扉が閉められる。その感覚。背中にあたる壁も、両側に迫ってくるクローゼットの狭い空間も、全てが、全てがリアルに記憶に直結する。
「くっ……!!」
閉じ込められる。
聡はとっさに扉に手をかけた。まだ全部閉まりきっていない。今ならまだ間に合う。自分からその扉を、内側から押し開けば。
けれど。
(……っ、あ、)
隙間から差し込んだ、淡い、淡いすぎる光の一条に聡は言葉を失った。その手がぶるぶる震え出す。
「……や、…だ―――」
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
知っているのだ。……この既視感!!
どんと鈍い音がした。その後、立て付けの悪い扉は誘惑するように、ほんの少しだけ開いた。
―――覗いたらダメって、そう言われたのに。
その前に、母さんの叫ぶような声、男の人の怒った声、何かものが飛び散るような音、砕ける音が続いていたから、実際、ひどく怯えていたのだ。
だから、だから―――聡はほんの少しだけ開いた扉から外を覗き見てしまった。いいとは言われなかったけれど、大丈夫何でもないのよと言ってくれる母の姿を求めて。
「あ、あ、あ……」
揺さぶられる記憶。
立ち直ったと思いたかった。
大丈夫だって。
それでも時々は密閉された空間に息が詰まるように感じる。部屋の窓を開けてすませることも出来たけど、同室の小早川に迷惑を掛けたくなくて、自分だけベランダで夜を過ごしたりもした。
それでも、それでも。
「ぐうっ……」
篭った音が自身の喉から漏れた。何かがせり上がってくる感覚に、口元を両手で押さえる。その苦しさに、目尻に涙の粒が溜まる。
「―――おい、名塚」
扉越しに聞こえてくる小早川の声。クローゼットに押しこめた途端様子がおかしくなった聡に、不審げに言葉をくゆらせて。
「悪い、悪かったって。変に気が立ってた―――謝るから出て来いよ」
言う言葉には、本心からの後悔が篭められている。
それは聡にも通じた。けれど、もう、聡にはどうすることも出来ない。
「……ダメ、だ」
助けて。
何度も呟いた言葉。
ごめんなさい。
助けて。
誰か助けて。お母さん、助けて。
ずっと呟いても、誰も、母さんも、助けてなんかくれなかった。
目が覚めた時は病院のベッドの上で。
「たすけ、て……」
どんなに呟いても、結局誰も助けてなんかくれなかった。単に運良く警察の人に発見されただけで。助けを求めたその時には、誰も、聡のために扉を開けてはくれなかったのだ。
誰も、誰も――――
最後の気力を振り絞って叫んだのは、だから意識した台詞なんかではなかった。
ぷつりと途切れる間際の鼓膜に響く、自身の叫び。
「ダメだ―――ダメだ小早川、自分じゃ開けられない。助けて!!!!」
そして直後、開け放たれた扉から崩れ落ちる自身を支えてくれた腕。その暖かさ。
記憶にあるのはそこまでで、聡は気がついた時には白い天井を見つめていた。
(……あの時とよく似ている)
そう感じた時には、聡は再び意識を奥底深くまで沈めていた。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
次に目が覚めた時も、視界に広がるのは白い天井で……意識がクリアになった今は、そこが寮の医務室なのだと気付いていた。
「……俺?」
誰ともなく呟いた。それに返答があるとは思わなかったから、応じる言葉が届いた時、聡はビクッと震えた。
「あー、気が付いた? ……って、んな驚くなよ、なんかすげー罪悪感で、俺死にそう……」
「…あ……と、……小早川?」
困ったように顔をしかめて、額を指先で覆う小早川に不審な視線を送る。
だのに小早川は、まあ自業自得だよなだとかとつとつと自虐に満ちた声音で一人ごちている。
何か言わないと―――そう、言葉を捜す聡に再度声を掛けたのは小早川だった。一つ一つの言葉を気持ちを込めて言う。そんな真剣な様子で。
「全部、全部、原口に聞いたから……」
あいつにすげー勢いで怒鳴られたよ、ホント、俺最悪だよな……
前置きにまずそんな風に陳謝され、挙句に深々と頭まで下げられてしまい、聡は面食らった。
面食らいつつも、心の中に広がるのは苦い気持ち。
(……そうか)
諦めに似たような感情がずんと心に重く圧し掛かる。
今でこそバレないようにうまく注意できるようになったけれども、もっと子供の頃は密閉された空間に入るたびに発作のように拒否反応を起こした。そのたびに、口から口へ伝播していった自身の過去。人それぞれ、程度の差こそあれ、その後の反応は基本的に大きく二つ。同情されるか、気味悪がられるか。そのどちらにしろ、決まってみんな聡から離れていった。ただ一人、これまでに利樹だけが過去を知っても聡のそばにいてくれた。
(小早川は……)
自分勝手な失望に、聡は軽く頭を振った。
仕方ないことなのだ、と。聞いて気持ちのいい話ではないのだ、自分の過去は―――と、聡は自嘲めいて口端を歪めた。
事件としては、いわゆる痴情のもつれによる殺人という奴で、それだけなら地方紙が社会面に小さく扱う程度のものだったろう。けれど、殺人以後の出来事がゆえで、その事件は巷を結構騒がせた。
事件発生三日後のことである。母さんの友人の訪問で―――開いたままのドアに不審を覚えた彼女が室内を覗いたことで、事件が発覚した。そして通報を受けた警察の現場検証中、ふと気配を感じた警官の一人がクローゼットを開き、気を失い衰弱しきった聡を発見した。母親の死体のそばで、その子が三日も過ごしていたのである。しかも、まるで閉じ込められたかのようにクローゼットの中から発見されたのだ。世間は騒いだし、様々憶測を広げた。そして、意識を取り戻した聡に最初に待っていたのは警察官の尋問だった。なぜ、君はあそこに入っていたのかな?
そう柔和を装った年かさの警察の人に聡はただこう答えるだけだった。
―――だって、お母さんが見張っていたから。出ちゃダメって。僕、約束を破って覗いちゃったから、お母さんが赤い目をして怒ってるんだ。
警察の人々はひどく動揺したという。母親の死体は確かにクローゼットの側を向いて転がっていたから。ではこの子は己の母親の死体に見つめられながら、三日を過ごしたというのか。
その同情は、聡が病室の窓と扉を閉められた時に発作のように暴れ出したことを境にさらに広がった。嫌だ、助けて、出してと叫ぶ子供に向けられるこの上ない哀れみ。可哀想に可哀想にと、誰も彼もが同情のオンパレード。母さんの叔父さんという人に引き取られてからも、周囲は同情に満ちていた。ただ、同い年の子供たちは、死体と過ごしたという事実に、薄気味悪そうに遠巻きにする。そしてそれを諌める大人たち。
何かから逃げるように勉強に打ちこんで、聡は寮の完備された遠方のこの学校の中等部に滑りこんだのだった。
「俺、お前の古傷をめちゃくちゃに抉ったんだよな。忘れようって、お前が頑張ってるのに、なのに……」
ため息が断続的に混じりながらも、小早川のその口調はとても真摯だった。
「俺さ、なんか原口に妙に対抗意識燃やしてたっていうか……なんで俺には何にも言ってくれないんだってムカついてたりもして……」
自嘲気味に、軽く舌打ちを入れる。
「あー、バカみたいだな、マジ」
そんなことないという声が喉もとまで到達して、霧散した。それを言うには、過分に勇気が必要とされた。そんな勇気など、逆さにしても聡の中にはない。今までもいつでも、聡の過去を知った人間は聡に一歩も二歩も距離を置くようになった。同情や憐憫、薄気味悪げに顰めてみたり、興味本位に目端を弛める、そんな目で聡を見つめるようになる。―――だから。
聡はますますその顔を伏せた。もう視界には真白いシーツしか見えない。
けれど、伏せたその横顔に届いた小早川の宣告に、聡はとっさに顔を上げていた。
「そんなこと……ないッ!!」
唇を噛み締めて小早川を見据える。
(小早川の顔もみたくないなんて、そんなこと……!)
中等部3年の時に同じクラスになった。なぜか目で追ってしまう同級生。
すごく不安だったけれど―――とても嬉しかったのだ。同じ部屋になれて、きっと話す機会も増えるだろうから。
小早川みたいになれたらいいと思う。
明るくて、結構強引で、でも嫌味がない。周囲をあっさりと楽しませるのが得意で。
(小早川にだけは、そんな小早川にだけは、知られたくなくて……)
見つめる小早川の輪郭が、じわりとぼける。
喉の奥がひどく熱かった。
「俺のほうが……俺のほうこそ、小早川……気持ち悪いだろう?」
同室になって最初の頃は、利樹の時のくせでドアや窓を少し開けて密室を作らないようにしていた。「寒いだろ、閉めろよ」と当たり前のことを告げる小早川に合わせて、「そうだな」って普通を装ってみせても、今度は夜中に発作のように激しくせきこんだり、意味不明なことを叫んだり―――それでもひたすら隠しつづけて、逃げるようにベランダで一夜を過ごしたりもしてみたけれど……全部、いつだってこんな風に小早川に迷惑ばっかり掛けつづけてて。
「俺、お前に嫌われても仕方なくて……」
それなのに。
熱いものが、喉の奥に張り裂けそうに詰まっていた。苦しくて、苦しくて、聡は襟もとの服地を掻き絞った。
言いたいことは決まっていた。
言わないといけないことは、始めからわかっていた。
それなのに、胸の中にわだかまり、今にも喉を突き破りそうな言葉は全く制御を失っていて―――
瞑った真っ黒な視界が連想するのは、あのひどく狭い空間。
薄く目を見開く感覚は、まるで扉が押し開かれる様に似ている。
(……誰ももう、助けてくれないって思ってた)
薄く開いた扉の先で、母さんの真っ赤な目が見張っているから。言い付けを破ったって、咎めるように睨んでいるから。
(出られないって、自分じゃ出ることは出来ないって……)
怖かったのだ。
またあの目が見ていると思うと、怖くて怖くて―――けれど留まっているのも、この暗い空間の中に留まりつづける忍耐もなくて―――
助けてって、必死になって思った。
誰か、誰でもいいから、思いつく限りの人名を叫んだのに、誰も助けてなんかくれなかった。
うっすらと、視界が開け広がる。
(お前以外、今まで誰も……誰も、)
まだとぼけた視界の中に小早川の顔を捉えた時、喉の奥の何かが弾けていた。
「ありがとうって……俺、小早川にそう言いたくて―――でも、そんな権利なんか俺にはなくて。でも、俺本当にお前に感謝してるから、俺みたいのに感謝されても嫌だろうけど、でもっ!!」
息が詰まった。
それは、衝動に駆られて叫んだ言葉で気持ちが詰まった―――そんなことではなくて。
もっと、とても物理的な原因。
「―――小早川!!!」
ぎゅむっとその胸の中に押し潰された聡は、とっさにそう叫んでいた。その声すら、小早川の服の中に吸いこまれていく。
(……どうしてっ)
わけもわからず、困惑が全身を行き交う。頭をすっぽり包みこまれて、聡は慌てた。
その耳に、そっと舞い落ちる小早川の吐息。
「名塚な……お前……」
それは聞き間違いかと思うほど、聡の耳に心地良く伝わる言葉。
「お前、ありがとうって……全然わかってないから。俺なんか、めちゃくちゃ魂胆あるんだぞ。それに嫉妬で逆切れしてただけだし、はっきり言って単なる暴走でしょーが、俺の。―――それをそんな風に言われると、まだ嫌われてないのかなぁといささか期待してしまう」
こちらの方が、期待を膨らませそうな台詞。
完全に膨らませる前に、それ以上の言葉が降ってくる。
「あのね、言っておきますが俺は名塚が好きなのですよ」
好きと言っても、クラスメイトだとかルームメイトの間における親愛の情いわゆる友情とでもいうヤツなんかじゃなくて、もっと好きレベルの高い、濃厚な交わりのしたい方の好きだから。
「同じ部屋になって、俺がどれだけ嬉しかったかわかる?」
問われて、まだ得心のいかなかった聡はちいさく小首を傾げるだけ。すると、小早川の腕の中に包まった聡に、くすくすと微動が伝わってきた。
「オーケーオーケー。これからは嫌でもわかるようになるし。―――だからって、ここら辺が魂胆バリバリなんだけど、どうにか、そのトラウマを乗り越えてかないか?
二人で、お前が助けてって言ったら、絶対に俺が助けるから。だから」
はじめてもらった言葉に、聡は絶句した。
乗り越えていこう。
助けるから。
押し付けでもなく、強制でもなくて。
二人で。
同情でもない言葉に、聡はぎゅっと小早川の服裾を握り締めた。
扉を開いたら、ダメだった。
あの赤い目が見張っているから、ダメだった。
でもそこは暗くて怖くて堪らなくて、逃げ出したかったのだ。
確かにそこから逃げ出したかったのだ。
(出来るだろうか?)
出来ないかもしれない。一人ではきっと出来ないかもしれない。
でも。
聡はきつく、きつく拳に力をこめていた。
(一人では出来ないかもしれない、でも、小早川がいてくれるなら……!)
開いた扉の先に、小早川がいてくれるなら。
その拳をベッドの白いシーツに押し付けた。皺が寄るシーツ。そのうねりが聡の葛藤で、そしてそれはふんわりと重ねられた小早川の手の下で、ゆっくりと、元の滑らかなラインを取り戻していた。
口の端だけで苦笑を形どるのは小早川。
ああ、マジ俺って魂胆だらけ―――と、小さくため息を吐き出した。
(だって、いざって時に声が漏れても困るし、なぁ……)
いざという時が訪れるのかはしれないが。
それでもこの手の中の少年を守るという気持ちに嘘はないから。
小早川はほんの少しだけ抱き締める腕の力を増した。
わずかな後に、頼りない仕草で―――それでもゆっくりと回された聡の腕に、小早川は気持ちを新たにする。
絶対に、俺が助けるから。
誓いのように、そっとその項に唇を寄せた。
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