【ROUND1】
小菅秀弥(こすげ しゅうや)は、県立甲稜高校二年の、いたって成績優秀、品行方正、勤勉で真面目な生徒会長である。二ヶ月前の五月の総選挙で得票数の半分を掻っ攫う形で現在の地位に至る。先生方の評価も高い、当代きっての優等生であった。
その彼であるが、目下、大変な事態になったと心中穏やかではない。
目の前では、クラスメイトでクラス委員長を務める沖利昭(おき としあき)が両手を合わせて拝む体勢で先ほどから動じない。このままでは、土下座までされそうな勢いである。
「そんな事言っても………困るよ、沖」
「そー言わず、一生のお願いだ。小菅だから頼んでるんだ。小菅しか頼れる奴はいないんだ」
心なしか目元が潤んでいる沖に、秀弥の気持ちがぐらついてくる。
元々―――その性格が故に、クラスで一人候補者を立てなければいけないという生徒会選出選挙に推薦され断れず、そのままとんとん拍子で生徒会長にまでなってしまった秀弥である。
ごり押しには相当弱い。
頼むといわれて、すげなく断ることが出来ない性格のために、今までに何度となく痛い目にあってきているのだが―――
「………わかったよ。届けるだけでいいんだろう?」
今回も例にもれず、仕方なしに了承してしまう。こういう自分の性格は改善しなければならないとは思っているが、性分なのであろう。
沖はほっとしたのか、眼前の秀弥に難事を押しつけた分際で飛び上がって喜んだ。
「まじで!? 最高。お前、やっぱいい奴だよな!!」
勝手に秀弥の手を取って降りまわす始末である。
それもそうであろう。
(俺だって、やくざの家には行きたくねーぞ!)
内心、文句は多々ある秀弥である。クラス委員長である沖が担任に命じられるのは理解できるが、なぜそれを俺が肩代わりしないといけないんだ!
だが、悲しいかな。
どちらかと言うと優柔不断で、ごり押しに弱い生徒会長は、非常に真面目な性格の持ち主でもあったのである。一度自分が了承したものをほじくり返すのは主義に反していた。というよりも、そういうことのできない人間なのである。だからこそ、気づいたら生徒会長になってしまっていたという事態にも見まわられる。
じゃあこれだからよろしく、と一転さわやかに告げる沖に、「わかった」と返してしまう秀弥であった。
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問題は、クラスメイトの成瀬孝一郎(なるせ こういちろう)がこのところ………一週間ほど欠席が続いている事に端を発した。
彼の机には、一週間分の課題のプリントやら学校配布の保護者へのお知らせプリントがぎゅうぎゅうに詰めこまれていた。普通ならば、ここで、クラスメイトの誰かが、もしくは友人などがそのプリント類をまとめて、その生徒宅へ届けてあげるところである。
しかし、その男―――成瀬孝一郎は特別であった。
「………やばい、まじだったんだ」
時代劇のお屋敷の門を彷彿させるがっちりとした門構えに、秀弥はじりじりと後じさりした。中には黒いベンツやらが長い石畳みの先に見える。その先にも通用門みたいなのがあって………屋敷自体はうっそうと続く林に隠れて見えない。
(沖も沖だし、担任も担任だ!)
頭を抱えながら舌打ちする。
成瀬はやばいとか、成瀬には近づかないほうがいいとか、そんな警鐘はたくさん聞いている。その理由として、成瀬は喧嘩が強くてこの一帯をシめているボスだとか、親父がやくざだとか、やくざはやくざでも上のほうとかいろいろ噂されていたものの、話半分で聞き流していた。どうせ、欠席が多くて、友人があまりいなくて、目つきが悪くて、雰囲気が怖い成瀬を素材に出来た、都市伝説みたいなものだと解釈していたのだ。
沖の頼みを聞いてやったのも、最終的にはその判断による。
だが、どうやら、噂は真実であったようだ。
かやの外に置かれた形の秀弥は、世間慣れした担任の陰謀―――クラス委員長の沖に、「こういうのは生徒が持っていくのがあるべき青春ライフだ!友人が少ない成瀬も、お前がプリントを持って行ってやれば喜ぶだろう。がんばれ、委員長!!」と難事をなすり付けたらしい―――と、ごり押しに弱い秀弥の性格を把握している沖によって、こんな所へ追いやられたのだ。その上、手にしたプリントをまとめて入れた特大の封筒を成瀬に届けるという使命を帯びて。
(む、無理………)
半ば、電信柱に身を隠して窺う秀弥であるが、そのピンと張り詰めた空気はさすがに読めた。高校生が気軽にまたげる敷居ではなさそうな、入ったら最後、出てこれなくなりそうな気配すら感じる。
同じクラスになって半年以上経つ成瀬にも、時々感じられる気配。
だからこそ、無意識に避けていたし、関わってこなかったのかもしれない。
(自分の第六感を信じないからこんな事になるんだあああ!!)
膝ががくがく言っているのがわかる。無理なのだ。一歩が踏み出せない。
7月にしては涼しい風の吹く夕刻。だか、秀弥の額にはじっとりと汗が浮かんだ。これが冷や汗なのかと、秀弥は現実から逃避するような思考を働かせる。
しかし、である。
くどいようであるが、秀弥はいたって真面目で几帳面な、それが故、推薦されてとんとん拍子で生徒会長に就任した男の子である。ここまで来て、投げ出すような真似は出来ない。手にしたプリント入りの封筒の重みが、逃避したくなる思考を現実に残す役割をこなしていた。
(そ、そうだ。なんのために………)
わざわざ、成瀬の机から引きずり出したプリント類を日付ごとにまとめ、教科のプリントと学校配布のプリントとに仕分けしてクリップで留めた。さらに、その一つ一つに簡単な注釈を書いたメモをつけておいたのである。それもこれも、一週間も休んだ成瀬がなんのギャップも感じず再び学校生活になれるようにという気遣いである。つまり、煎じ詰めれば、成瀬にこの封筒を渡すためである。
(渡さなきゃ、だよな………)
ぐっと、腹に力を入れる。
やくざは怖いが、というか、怖くない奴なんていないと思うが、よく考えれば秀弥は敵対しているやくざの一味というわけでもなく、何かよからぬことを考えて侵入しようという輩でもない。単なる、成瀬の―――ここの家の息子のクラスメートなのである。クラスメートがプリントを届けに来たのを、脅したりどついたりナイフちらつかせたり、監禁されたりましてや殺されたりなんて、さすがにそんな事はないはずだ。ありえない。
玄関まで行って、チャイムを鳴らして―――あるのかどうかは定かじゃないけど、とりあえず誰か出てきたら、事情を話して成瀬にこの封筒を渡してもらうようすればいいだけじゃないか。まさか、家に上がれとかそんな事にはなりはしないだろうし………
(成瀬には悪いけど、見舞うとか………さすがに出来そうにないしな)
よし。………秀弥はもう一度、ぐっと腹に力を入れ込める。
やるぞ。
封筒を握る手に滲んだ汗が、その部分だけ封筒をしわくちゃにしていた。反対の手は、気づかぬ内にこぶしを握り締めていた。
秀弥は知らない、もう1つの彼の特性である。
彼自身が気づいている、弱気な彼の性格のもっと底にある、彼の基盤となっている性質。―――ただの、押しに弱いだけの男が生徒会長を過不足なくこなせるはずはないのである。
最初の一歩を踏み出す。
すると、次の歩みはすんなりと続いた。頑健な門をくぐりぬける――――と、そこで。
「君は甲稜の生徒じゃない?」
後方から声をかけられた。
やくざの敷地内とは思えないほど物腰やわらかな声。緊張しきった秀弥の耳にもソフトに入っていた。
振り返ると、そんな声の持ち主にふさわしい、落ち着いた雰囲気を纏う青年が立っていた。
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結論を言うと、正直、よく生きて帰ってこれたと思う。
JRにゆられて家に帰り、自分の部屋に戻ってきたときにはうずくまるようにベッドに沈んだ。過度の緊張のせいか、肉体的に疲れていた。家族そろっての夕食の頃には実感が湧いてきて、秀弥は自分の体験を家族に話して聞かせた。
すると、姉の莢佳(さやか)が青い顔になって告げたのである。
「あんたよく生きて帰ってきたわね………そこ、『真龍会』の屋敷じゃない」
駅名と屋敷の聞き伝いでわかったのだと言う。
『真龍会』―――関東やくざの大元締め。
「まじで!?」
あんまり世間に通じていない秀弥でも知っているその名。―――それもそのはずで、テレビなんかでそれこそ、「『真龍会』系の何がしが、どこそこ組の組長に向けて発砲した」だの、「『真龍会』ルートの銃器100丁・麻薬40キロ」だの、誰しも耳にしたことがあるはずだ。
今更ながら、よくあの屋敷に入ろうと思ったもんである。
あの人―――高原怜二(たかはら れいじ)さんがいなければ、どうなっていたか………。
「まあ、でも、さ。高原さんっていう人に封筒預けて終わりだったから、全然危なくなかったわけだし」
そうなのだ。
門をくぐってすぐに、高原に声をかけられ、運がいいことに高原は成瀬の付き人だったらしく………そんなのがついているあたり、まじでやくざなんだなあとも思ってしまうのだが、成瀬を高校に送り迎えするため、甲稜の制服をよく知っていたのだ。
助かったとばかりに、彼に事情を説明し封筒を預けてとんずらした秀弥であった。高原は秀弥を引きとめようとしたのだが、あれこれと理由をつけてさっさとその場から退散したのである。
(やくざらしくなくて、すごく優しい感じの人だったなあ)
「でも、その人だってれっきとしたやくざなんだよね。しかも、息子任せてるぐらいだから、相当の切れ者と見たよ」
秀弥の考えを察したのか、小憎たらしく指摘したのは2歳年下の莉佳(りか)である。大学生の姉・莢佳と共闘して秀弥をこき使う生意気盛りの中学三年生。受験生なのだが、志望の甲稜高校は完全に射程内に収めているため気軽なものである。
その後は、姉と妹に囲まれてやくざ談義の集中砲火の的となり、うんざりとして自室に戻った秀弥であった。このような家庭環境が押しに弱い彼の性格を形成したのだという事を、本人を除いた家族すべては知っていたのだった。
「………ない」
翌日の事である。
沖に昨日の貸しは学食でチャラにしてやると言い、それを昼食で実行させ、その後の英語と国語の授業、そしてLHRも終わり、秀弥は軽く生徒会室に顔を出した。副会長にして中学来の友人である相葉貴久(あいば たかひさ)が生徒会室にちょうど居て、二、三話しをする内に、ようやくにして気づいた。
先日行われた模擬テストの成績票がないのである。
昨日返されたはずである。
中身も見た。いつもどおり、古文が多少足を引っ張るものの、かろうじて学年TOP10を守ったという結果。同じく古文を苦手とする貴久とは、いつも結果を公表しあうのである。
が、………一体いつからなくなっていたのか。
昨日のドタバタを思い返してみると、すでに家に帰ったときには成績表のことなどすっかり失念していて、つまり自宅で鞄から取り出したとかは考えられない。
秀弥はその場でざっと鞄をチェックした。いつもは何も入れない小さな仕切りの部分まで調べたが、鞄には成績表はなかった。
となると………教室の机だろうか。
秀弥は何事かとこちらを見つめる貴久に軽く事情を話して、教室に駆け戻った。貴久は手伝うと言ってきたが、まあ、机にあるはずだからとやんわりと断った。
そして、教室にて、机に手を入れて中をあさくり、そこに何も引っかからなくて、今度は直接机の中を見てみた。
「………ない」
チリ1つ、秀弥の机には入っていなかった。
だんだんと焦ってくる。成績自体は誰かに見られても恥ずかしくなるような結果ではない。だが、成績票をなくしたということ自体が真面目で几帳面な秀弥には認めがたいことだった。
もう一度、じっくりと考えてみる。
昨日、帰りのショートホームルームで成績票を担任から返されて、で、中身を確かめて鞄に入れた―――そこまでは記憶にある。
家で成績票を見ただとか、鞄から出した覚えは一切ない。
(ってことは………)
思い当たることは1つしかなかった。
その間で、1回だけ鞄に手をつけた。整理して仕分けたプリントに、簡単な注釈をつけるために筆入れを取り出した―――その一回だけ。
秀弥の視線は、クラスの一番後ろ、窓際の席に釘づけになっていた。
そこは、今日も引き続き休んでいる男、これで休みが一週間と一日になった成瀬孝一郎の席。
「あの時、鞄から滑り落ちたとか………」
かなり可能性薄であることは承知しながら、秀弥は成瀬の席を探った。
当然そこには、―――昨日自身が全部取り出してまとめたのである、一切何も入っていなかった。
秀弥は成瀬の席にがくっと崩れ落ちた。
もう、考えられる可能性はただ1つだけである。
本当に考えたくない上、かなり間抜けな所作である。その上、なんと切り出せばいいのか、それよりも、奴は一体いつになったら登校するのか、学校にこなかったら、あの家に電話をしないといけないのか………
頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
(俺って………俺って………)
鞄から滑り落ちた成績票は、机の上いっぱいに広げられたプリントの山にまぎれて、いまや成瀬の家にあるのではないか………本当に間抜け過ぎて、笑えてくる。
秀弥は成瀬の机に崩れこんだまま、盛大にため息をついた。
そのとき、教室の扉がぎしぎし音を立てて開いた。
心配した貴久かもしれない。
秀弥は顔を上げぬまま、くぐもった声で言いやった。
「貴久〜〜、俺って相当間抜け?」
だが返って来たのは、貴久のおちゃらけた一言ではなくて、もっと重低音を効かせたずとんと胸にクる声で。
「………俺の机で何をしている?」
秀弥の鼓動を撥ねさせた。
高校生にしては、すごく大人びている。
それが、二年で初めて同じクラスになった成瀬に対する秀弥のファーストインプレッションだった。あまり、というか、ほとんどクラスメートとの馴れ合いや掛け合いもせず、孤高という言葉がしっくりくる態度で、いつもみんなから一歩も二歩も距離を取っていて………こんな風に、二人きりになるのなんか、初めてで………
(ど、どうしよう!)
なんら、後ろ暗いことなどないはずなのに、心臓がきりきり痛んだ。
こんなときには、何故か悪いことばかりが意識に浮上してきて、成瀬の家はやくざだとか、やくざの息子の成瀬の席をあさくってしまったこととか、そのやくざの成瀬に成績票を握られてしまっているかもしれないこととか、やくざな成瀬が教室に入ってきたのに、自分はその成瀬の席を占領してしまっていることとかがぐるぐる頭の中をダンスし始める。
(と、とりあえず席を立たないと)
寝たふりをするには声をあげてしまっている。
秀弥はおそるおそる上体を起きあがらせた。何か一言、成瀬に事情を説明しておかないと―――
そう思って口を開いた秀弥は、そのままの表情で固まってしまった。
なんとなれば、先ほどまで教室の扉のあたりに居たはずの成瀬が、成瀬の机のすぐ前の席に―――つまり、秀弥の目の前の席に、椅子の背もたれにもたれかかるようにしてこちら向きに座っていたのだ。その距離、30センチ。男でも見ほれてしまうレベルの、やたらとカッコイイ成瀬の顔が間近にありすぎて、秀弥は言葉を失った。
(こ、この男前っぷりがさらに噂に尾ひれをつけてるんだよなあ)
なんていう、どこか現実離れしたことを考えてしまう。
成瀬は形のイイ目をすっと細めて、秀弥を見つめた。
わずかの沈黙。息苦しく感じてしまうのは、秀弥だけなのだろうか。うまく息継ぎが出来ずに、空気が足りなくなった頬はうっすら赤く染まった。先に切り出してきたのは成瀬だった。
「お前が探しているのはこれだろう?」
いつの間にそんなのを持っていたのだろう。成瀬の右手には、クラフト封筒サイズの薄い水色の用紙―――模擬テストの成績票があった。
(………やっぱり)
昨日、プリントを仕分ける過程で、やはりその中に紛れ込んでいたのだ。読みはあっていた。しかも、成瀬の家にもう一度行ったり、電話したりせずにこうして目の前に戻ってきた。ラッキーなことであるはずだが、成瀬の顔を見て秀弥は震えながら差し出した手を止めてしまった。
秀麗な成瀬の顔立ちに艶美さを醸し出す紅い唇が、つっと釣りあがっていたのだ。
なんというか、大変、邪悪な微笑という感じである。
それを敏感に感じた秀弥は、いたたまれず、差し出した手はそのままに成瀬を上目遣いで見やった。どことなく、押しに弱い彼の性格そのままの仕草である。
釣り上がった唇の端からくすりと笑いを漏らしたのは成瀬であった
「………気分が変わった」
小さく呟いた声は、秀弥をぞっとさせるのに十分な効果があった。
「な、成瀬?」
「―――わざわざ、これを渡すためだけに来たんだぜ」
「えっ………」
意図が飲みこめず、秀弥は成瀬を見つめるだけだ。
確かに、今日成瀬は出欠段階では欠席扱いになっている―――授業にも、その後のLHRにもなにもかも出ずに、放課後だけ来たのではそれは出席ととられないのは当然であろう。だからこそ、秀弥も成瀬の席をあさくったりできたのであるが。
「小菅、頭良いんだな」
もう、一度はじっくり中身を見られているんだろう。成瀬は軽くそれを開いて、秀弥に言いやる。そこそこの成績で―――秀弥にとっては、であるが―――そんな風に言われて、秀弥は薄く色づいた頬を真っ赤に染めた。
成瀬は流すような視線でそれを鑑賞する。そして、斜めから斬りこむ様に視線を合わせてきた。
「キスしたら返してやる」
(ええっ!?)
よく、聞き取れなかったようだ。
いま、キスとかなんとか言ってたような気がするが、この会話のどこにそんな単語が必要とされるだろう?
秀弥はまじまじと成瀬を、その色素が薄めの瞳を見詰めた。こんなに相手を食い入るように見詰めることはそうそうないであろう。
(キスしたら返す?)
「ええええええっ!?」
頭ん中で反問したら、反射的に今度は素っ頓狂な声が飛び出てきた。
「なっ、なに言ってんだよ成瀬っ!!」
泡食ったように、目の前の成瀬に言い寄る。反して成瀬は涼しい顔だ。先ほどと、一文一句、調子すら違えず重ねて言う。
「キスしたら返してやる、そう言ったんだ」
「キ、キスっ!」
があああああんと、秀弥の頭の中で除夜の鐘以上に辺りに響く音のようなものが反響する。自分の人生でこれだけのコペルニクス的発想の転換………もとい、発想の結合が余儀なくされるとは思わなかった。
たとえば、訳はわからないが「土下座したら返してやる」だとか、「一発殴らせたら返してやる」なら、発想の範囲内。かなり嫌だが、強引に納得できる。が、が!
(キスと成績票を返すのの関係がわからん!)
キッと睨み付けるように成瀬を窺う。
(うううう、本気だあああああぁぁぁぁぁ!!!!!)
からかい混じりの本気と言えば良いのか。秀弥にその気がなければ、絶対に返してくれそうにない、張りついたような微笑。こちらの出方次第、そういった余裕も感じさせる。
「俺、男だぞ………」
微笑。
「返せよ」
微笑。
「………嫌がらせなら止めとけよな」
鉄壁の微笑。さすがはやくざのムスコといった貫禄である。
「………」
秀弥のほうがうろたえてくる。
こうなると、ごり押しに弱い性格がぐっと前面に出てくる秀弥である。こうすれば良いっていうのであれば、そうしてしまう。たとえ、心のそこから嫌であっても。
(嫌だ、けど)
だが、逆らうのはもっと怖そうだし、何より、成績票は返してほしいのだ。たとえ家族であっても、無くしただとかを言い訳にしたくはない。
(ヘルもんじゃないって言うし………)
女みたいに、ファーストだとか拘る感覚もない。
目を閉じて、ぎゅっと意志を固める。その一連の秀弥の葛藤やら仕草やらを成瀬に鑑賞されていると思うと、ムカツキも情けなくもあるのだが。
薄目を開けて、成瀬の唇の位置を確認する。それを黙視しながら行為を続けるにはさすがに羞恥が勝った。軽く瞳を閉ざす。そのまま、確認した位置まで顔をスライドさせた。
(あ………)
当たった。そんな感触が唇から体内に駆け巡る。
なんか、よく言われるようにファーストは味がするということもなく、意外に柔らかな触れ心地のよい―――成瀬の唇!の感触だけが生々しくて。
軽い、二つの唇の一瞬の逢瀬だった。
秀弥は、真っ白になりそうな意識をかき集めてあごを引いた。
(約束は果たしたぞ!)
なんだが、達成したあとの清清しさまでこみ上げてくる。
(!)
「んんん!」
しかし、引こうとしたあごは強い力で押し戻された。触れただけに過ぎなかった唇に、生暖かい感触が走る。
(あ!え、えええっ!!)
経験の浅い―――というよりも、今だ未経験であった秀弥はその動作にあっさりと翻弄されてしまう。ついさっきまで詰めていた息が、逃げ場を失い、その生暖かな感触に陥落する。
「う………んんっ!」
慌てて目をばっちり開いてみたら、成瀬の睫毛が視界を覆っていて。
口の中は、何かが絡み動いていて。
息が、出来ない。
心臓が、飛び出てきそうだ。
(うわああああ、これって、ディープキスって奴かぁ!)
絡みつかれて、舌が自分のものじゃないみたいだ。成瀬のが熱くて、されるままになってしまう。その舌の先端が、なんだか味覚神経をくすぐられていて。
なんとも知れない、甘い感覚。これが、キスの味なのか??
受け止めきれない成瀬の唾液が口の端から零れ落ち、秀弥の首に軌跡を描く。
それを視界の端で捕らえた成瀬が、ようやく深く重ねられた唇を引いた。離れる寸前の、ちゅっという小さな音が、やけに秀弥の鼓膜の内に響いた。
「お返し」
成瀬は、呆然と彼を見上げたままの秀弥の顎から首に伝う名残を片手で掬い上げながら、もう片方の手に合った成績表を机に置いた。
キスのご褒美に、約束どおり成績票は返すというところだろう。
だが、秀弥にはそれを認識する余裕はなくて。
その手が秀弥の頬を包みこみ、親指でその頬をつたうものを撫で取るまで、秀弥は自身が涙を流していることに気づきすらできなくて。
成瀬は笑気を孕んだため息をついて、それを舌で舐め取った。「苦いな」という呟きを残して、その場を去った。
一人教室に取り残された秀弥は、キスをした上にその上のランクのキスをされてしまったことに、そして抵抗すら出来なかった―――まさしく成瀬のキスに翻弄されてしまったことに、ショックやら情けないやら悔しいやらで、パンクしそうだった。
もっとむかつくのは、この心臓だ。
(すごい、どきどきしてる)
初めてで、あんなにされたから?―――女みたいな思考だ!
(俺ってどうなっちゃうんだろう?)
明日も明後日も、明々後日も一ヶ月後も、二年の間はとりあえず成瀬とはクラスメートで、避けようにも同じクラスなのだ。
「はああああああ〜〜〜〜〜〜」
なんだかもう、ため息をつくしかなかった。
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「楽しそうですね」
帰りの車中、成瀬に対する高原の問いである。
「そうか?」
後部座席から、運転している高原に問い質す。
この少年が自身に声をかけるのが稀なことをよく認識している高原は、軽く驚きの表情を浮かべた。それは口に出さず、もう一度少年に言いやった。
「とても、楽しそうですよ」
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