世界はキミのもの





【ROUND7】

 そして、日時は水曜日を示していた。
 
 JRの駅へ向かう秀弥の足取りはひどく重かった。無意識のうちに、ため息がこぼれる。
(………………成瀬)
 合間に唇から飛び出てきそうなのは、彼の名。けれど声にはならずに、そっと唇だけでそう形取る。
 月曜日の放課後、あんなことがあって以来、貴久とも顔を合わせられずにいた。どんな顔をして、どんな言葉を掛ければいいかわかんないから。なにより、秀弥が声を掛けた時―――貴久がどんな顔をするのか、それを知るのが怖かったから。
 秀弥は首筋のばんそう膏を撫でた。もうその下に隠れた淡い緋色はだいぶくすんでしまっていた。
 なのに。
(………………)
 二日も経ってしまっていた。
 昨日、そして今日。
 ―――知ってるはずだ。アイツが、もともとそんな風に休みがちだってコトぐらい。逆にこの一週間、ずっと出席してたってほうが珍しいんだってコトぐらい。
 なのに。

(………成瀬)

 体内の奥深いところから震えがきた。寒いわけではなかった。7月の夕焼けの日差しを受けた身が、寒いわけなかった。
 たった二日が、これだけ長く感じたことはなかった。なにより、教室の扉が開くたびに、これだけ心臓がキツク締め付けられるような気持ちになったことも。………もしかしたら、なんていう切迫した気持ちがあっけないぐらい打ち砕かれる感覚も。顔を出したクラスメートや知人に「おはよう」や「お〜」なんて声を掛けるのが、これほど気力が必要になるなんて思いもしなかった。………かといって、次こそはって思うその当人が現れた時、どんな反応を見せればいいのかなんてわからなかったのだけれど。
(………ぁぁぁあああああ、くそっ)
 道端で秀弥はいきなり頭をかきむしった。さすがに叫ぶことは自制したのだが、それでも前後の通りすがりの人たち……JRの駅への道のりということもあり、帰宅中の甲稜生が多かったのだが、皆、遠巻きに生徒会長を見やった。中には、声を掛けてみようかどうか悩んでいる様子の男子生もいたりする。
 しかし、その誰しも顔を強張らせる存在が後方からするすると滑り込んで来て、皆、遠巻きの輪をさらに大きくさせた。秀弥も、その気配に車道側を驚いて振り向いていた。横付けにされた見知った黒塗りの巨大外車に立ちつくす。
 するすると歩道側の遮光ガラスが降りて、運転手の穏やかな顔が覗いた時、秀弥はなぜだか安堵の吐息を漏らしていた。
(……………………ああ)
 何のための、何がゆえの「安堵」なのかそんなことなんか知らない。
 でも、次の高原の台詞に泣き笑いの衝動に駆られたのは事実で、秀弥は必死になって首を縦に振っていた。
 知りたかったから。
 お前が!って問い詰めたくて。
 ……いや違う、そんなことはただの、もう、建前に過ぎない。
(成瀬………)
 もう二日も顔を見てない。
 声を聞いてない。
 これは衝動だから、理由なんて不明確でいい。
 秀弥は、「若がお呼びです」と告げた高原に何度も何度もうなづいていた。

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「すみません、こんな目立つ車で」
 しばし悩んだ挙句助手席に乗り込んだ秀弥に、高原怜二は申し訳なさそうに軽く首を傾げて見せた。
「あ……えっ、全然………平気ですっ!」
 秀弥は慌てて両手をばたばたと振った。確かに思い返してみると、遠巻きのギャラリーたちがものすごい目をして見ていたような気もする。とんでもない噂とか発生しているであろうことは疑いようがない。
(……だって、ホントすごいバリバリのベンツだもんなぁ)
 どこの誰が能天気に考えてみたところで、絶対に間違いようもなく”ソノ道”の人たち仕様ベンツにしか見えないってやつだ。てか、日本に対面式後部座席のペンツなんか必要とする人は限られまくりだ。一般庶民に過ぎない秀弥は、一人でその後部座席に乗るのはいたたまれず―――なにより、以前成瀬とそこで何をしたのかとか思い出されるので、必然的に助手席に身を預けていた。
 そっと、運転席の高原を見つめた。
(……聞いてもいいのかな)
 前方に視線を固定して、いつの間にか車を発進させていた高原にどう声をかけていいものかと、まず躊躇いが先に立つ。
 でも―――秀弥は小さく首を振った。
(聞く権利ぐらいはある筈だ)
 成瀬とただならぬ………か、関係になってしまった事情を丸々納得するのなんか絶対死んでも出来ないけど、こういう不意打ちも許しがたい。
 そうだ。
 なんで自分の方が、こんな………捨て犬みたいな気持ちになんないといけないんだ!?
 ヤルだけヤりたい放題で秀弥の日常をはちゃめちゃにして、で、いきなり何の連絡もなしで二日もの間、ぱったり姿を現さない成瀬。―――べ、別に連絡しろなんて思ってないけどさ!!!
 秀弥は慌てて否定を押しかぶせた。
 でもっ………と、むくりと他のところから感情が涌き出てくる。
(一言ぐらいあってしかるべきだろっ!!)
 なのに、成瀬はいきなりこうやって道端で人を呼びつけるのだ。
 それも、間に人を介して。秀弥が拒否するとか、抵抗するとか念頭にないのだろうか―――ないから、こんな風に呼びつけるのだろうけど。
(………くそっ)
 思い通りに―――成瀬の思った通りに行動しているんであろう自分に頭にきて、秀弥は口の中だけで舌打ちをした。その勢いで、高原をがばっと振り仰いだ。
「成瀬なんですけどっ!」
「――――――なるせ?」
 秀弥の勢いを見事に空転させるような高原の低い呟き。反芻されるようなその響きに、秀弥はぴきりと固まった。
(あああああああああああああ、しまっ………!!!!)
 「若」なんて呼ばれて、登校時も毎回送り迎えつきの―――それはもうきっと下にも置かない扱いな成瀬に向けて、一介の高校生に過ぎない秀弥が呼び捨てで「成瀬」はまずいのかもしれない。こちらから言わせてもらえばクラスメートのタメでも、成瀬は高原にとっての「若」なのだから。
 今更だが、高原の存在を圧迫的に感じられてしまう。さっきの呟きだけで、一瞬アラスカの寒気を秀弥に体感させたその本性たるや、押してしかるべしなのかも知れない。
「ああと、ええと………」
 秀弥はごもごもと言葉を積み重ねた。うまい形容が浮かばない。
(俺が「若」とか言うのも絶対変だし………)
 ふと秀弥は眉根を寄せた。それから大変ためらいを見せて、一回深呼吸まで入れてから――――口を開いた。
「……こ、孝一郎………―――君」
 一番無難かと思われる呼称。それでも、最後の「君」はなかなか口から出てこなかったのだけれど。……って、だって、あの成瀬が君付けなんて、なんかもう絶対それは変だ。それぐらいなら、国会討論なんかで政治家相手に君付けしてるほうがよっぽど様になってるし!
 高原も意表をつかれたのか、くくっと押し殺した笑いを漏らした。
「……いや、すまない………それで?」
 視線だけは前方へ向けたまま、高原は左手を軽く口先に押し当てた。よほどツボに入ったのかもしれない。声音が揺れている。
「いえ、あの………ええと」
 ほとんど会話を続ける気力なんか切れていたけれど、根が真面目な秀弥としては自分から話を切り出しておいてあやふやに済ませることなんて出来ない。特にこんな風に急かされたりなんかしたら、たとえ完徹三日した疲労困憊の身体状況だとしても話し始めるだろう。本当にあいかわらず、つくづく人生に苦労を強いられる性格である。
「その…孝一郎………くん、なんですけど」
「はい」
 高原は秀弥が見る限りではニコニコと愛想良い顔を張り付かせている。それに後押しされる形で秀弥は口を開いた。
「………あの、昨日今日って学校休んでて―――どうしたのかなって。なる…、っと、孝一郎……君って、けっこう学校休みがちですし」
(休みがちってよりか、アイツのはサボりに近いけど!!!!!)
 ていうか絶対、はっきりサボりなんだろうけど!
 じゃないと、成瀬は欠席理由から推測するに持病が肺炎に盲腸に胃腸炎に偏頭痛なんていう稀にみるレベルの病人ってことになってしまう。てか、いくらなんでも3ヶ月間で普通の人間は2回も盲腸を手術はしたりしない。今回は頭痛とかいう並大抵の欠席理由だとか担任は諦め混じりに言っていたけど、信じられるわけがあるか?―――いや、ない。こんなにぴったりくる反語表現もそうはないだろう。
 秀弥の不平満々な表情を横目で確認して、高原は初めて助手席の秀弥に視線を合わせてきた。2車線の右側を悠々と流れに沿って車を進めながら、生真面目な秀弥が冷や汗を感じてしまうぐらいの脇見運転でじっくりと見つめられる。
(成瀬もだけど、この人も怖え〜〜〜〜〜!!!!!!!!)
 前方どころか後ろも横も見もしないで車線変更とかするし。いや、まぁ、こんなヤバイ車なら絶対周りが避けるだろうけど。でも、そういうのを全部わかっててして見せ付けてそうなところが怖い。
 たっぷり1分間ぐらい見つめて、それから高原は思い出したように微笑を浮かべた。いや、微笑ってよりかくすっと吹き出したカンジの笑いは、まんじりとも動けなくなった秀弥が可笑しかったからなのかもしれない。
「………知りたい?」
 なんて、からかい混じりに言われたから。
 秀弥はなぜだか、ものすごく真っ赤になってしまっていた。
(………知りたい、とか)
 そういう風に言われたら、なんか………
 なんだか………
(べ、別に聞く権利があるだけであって、それが俺の権利だからであって、だから、その………知りたいとかそういうんじゃないし!!!)
 慌てて自分自身に言い聞かせる。なんだか、最近こんなことばっかりやっているような気になる秀弥である。その後も、だんまりに堪えられなくなった秀弥が、仕方なしに共通の話題になりうる成瀬のことを持ち出し、高原にはぐらかされた上でそれとなくからかわれているらしき状況が延々と続き、結局1つ足りとも具体的な情報を引き出させることすら出来ないうちに―――車は、するりと地下駐車場らしきところに滑り込んだ。
「………?」
 見た感じになんとなく違和感があったものの、たった1度きりの印象で、しかも駐車場とかに入ったわけじゃなかったし……と、秀弥は強引に納得しながら、「案内します」と先に立った高原に続いて車を降りた。数十歩ぐらい歩きながら疑惑はより増した。
(………って、正面玄関に横付けしてもらえばイイだけなのに)
 以前も、成瀬のマンションの正面玄関で降ろされたのだ。それならいちいち高原が車を降りて案内とかする必要なんかないわけで………秀弥は次第に心臓が制御を離れて早鐘を打ち始めるのがわかった。こういう時は、理性より前に動物の本能―――なまずが地震を察知して暴れまわるような、そんな感覚のほうが敏になるのだ。そしてその感覚は寸分違わず危険を察知していた。地下駐車場から表へ出た秀弥の視界に、とんでもない光景が広がっていたから。
(だ、誰か嘘だと言ってくれぇええええ!!!!!!!!)
 くらっときたのは立ちくらみだ。膝ががくがくなってる。
 秀弥の眼前には、信じたくもないし現実を認めたくもないのだが――――成瀬をして「本宅」と言わせた真龍会本邸宅がどどんとそびえていたのだった。
 
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 かつーんと、空気を震わす獅子威しの音が鳴るたび、秀弥は心臓を跳ねさせていた。
 獅子威しの音が和むとか、日本の伝統とか言われているけど、秀弥の人生の中で庭に獅子威しがあるような家に住んだことも招かれたことも、ましてや騙まし討ちのように連れられてきたコトだって今の今、今日の今日までなかった。だから、慣れない乾いた音の連続は逆に秀弥の緊張を高めるだけだった。
(………あうううううううううううう)
 広い……広すぎる和室のど真ん中にしつらえた席に案内され、どのくらいの時が過ぎたのだろうか……もはや秀弥の体内時計は電磁波の影響を受けたかのごとく狂いまくっていた。数分のような気もするし、1時間以上こうして正座しているような気もする。ただわかるのは、もう限界ってコトだ。
(頼むから、誰か来て)
 ここへ案内した高原は、秀弥を部屋へ通すなり「しばらくお待ち下さい」って言葉を告げてどこかへ消えてしまった。それ以来、この獅子威しの響く部屋に放置された秀弥である。居心地なんか最悪だ。部屋というか、屋敷というか、空気全体にわたって殺気がたち込めているような気がするのはもう仕方ない。秀弥が臆病うんぬんの話ではなく、ここは全日本に勢力をほこるやくざ・真龍会の根城の真っ只中なのだから。ごくごく一般人の高校生に耐えられる環境では決してないのだ。だから、秀弥が正座硬直状態で唇を紫に染めていたからって、誹ったりしてはかわいそうである。
(……誰か………)
 この事態に、ここに来てくれる”誰か”なんて対象はただの一人だ。わかっていても、そう心の中で呟くのは止められなかった。
(お前が呼びつけたくせにっ………)
 「なんで」とか「どうして」とかそういう疑問詞は使い果たした。
 獅子威しのかつーんという乾いた音がまた、響く。そしてその可聴音域を超えた無音の部分からくる刺激も続く。連続する音。音。音。心臓がどんどん締め付けられていく。
(早く………)
 この部屋にくるまでに、廊下を何度も曲がった。もう、どこが出口でどこが奥へ続くのかなんてわかんない。誰かがここから手を引いて助け出してくれないと、、ここから出ることなんか出来ない。出来っこない。
(早く来い………)
 脂汗がじっとりと浮き出た。秀弥は堪らず両手で太ももあたりの制服の布地をぎゅっと握り締めた。

「………………なる」

 怖くて―――あんまり怖くて呟いた時だった。
「待たせたね」
 期待していたのより、ずっとキーの高いテノール。硬直して動けない体は振り向くことは出来なかったけれど、声だけで違うとわかった。
(誰だっ………)
 頭の中ではそう誰何していたのに、声に出して発することが出来ない。秀弥は硬直した体をさらにぴきんと固まらせた。
 相手がやたらゆったりと歩く………畳の微かな摩擦音が耳につく。鼓動が痛いほど強く早くなる。”誰か”が来たのに、先ほどよりもずっと、ずっと怖い。知らないヤツは嫌だ。そうじゃなくて、来て欲しかったのはそういう誰かじゃなくて………
 秀弥は現実逃避をするようにその両瞼をぎゅっと閉じようとした。しかしその肩をぽんっと叩かれた刺激に大袈裟に驚いてしまう。のぞけるように背を反らした―――その開かれた視界に、一人の青年がいた。
(………あ、え………え?)
 ひとしきり、秀弥の常識と現状認識能力と視覚とがタッグを組んで、判断能力を大きく鈍らせた。ぽかんと口が開いた間の抜けた顔で、その――――青年と断言するにはいささか線の細すぎる人を見つめる。
(……って、この人)
 異様に、外見が現状にそぐっていないのだ。今時にまとめた軽装が、場にまったく適してない。どちらかっていうと、そこら辺の街中に歩いていそうな格好をしている………のに、その右手には幻覚ではなく――せめて見間違えであっでほしいけれど、何度瞬きしてみてもばっちりがっしり鞘に収められた日本刀が握られてて。
 秀弥は何度もその人を上から下まで眺め回した。特に目配せを念入りにしてしまうのが、当然右手から伸びた細長のディティ―ル。我知らず、ごくりとつばを飲み込む。
(マ……マズイ………とかいうレベル超えてるだろぉっ)
 何でなのかなんて、もうとっくに飽和して気化した愚問だ。この屋敷に入った時点で、そこはもう秀弥の常識が通用しない世界だったのだろう。そうに違いない。きっとやくざの家ではこんな物騒な……日本刀を携帯してる人も普通なんだ。ぴんとした静けさも獅子威しもやたらと広い和室も、そこに長ったらしく待たせるのだって、それもすべて当たり前なのだ。
 そうは断じてみたものの、体は本能で後じさった。すでに背中は冷や汗だけでぐっしょりなっている。
「………俺」
 そもそも車に乗ったのが間違いだったのかもしれない。
 だって、呼ばれたつもりだったのに、そう思ったのに、ふたを開けてみたらこんなところで刀を持った人が目の前にいるし………秀弥は涙声になりそうなのを必死でこらえた。視線が絡み合い、くすっと笑われたのが心臓にきた。やくざを生業にしてるイメージじゃないのに、その笑顔はやけに迫力があって………
(似てる、けど………)
 天然のあの綺麗な亜麻色の髪じゃない、薄茶けた少しくせのある頭髪。艶光りした光沢のある黒目。筋肉とか一筋も見当たらない細い体、肩、腰。どこそこに違いを見つけて、なぜか秀弥はため息をついていた。
「あの、俺………成瀬に呼び出さ………」
「なるせ?」
(………あっ、しまっ…!!!!)
 秀弥は慌てて呼称を変えた。
「…じゃなく、孝一郎……君に呼び出されて、それで」
 微妙に後じさりながらも、どうにか告げる。決して怪しいものじゃないんだってことをアピールする。じゃないと、あの刀がどんなタイミングで振り被られるのか、はっきりいって怖かった。
 秀弥がそんな瀬戸際の状態でいるのに、その脅威の元凶は、突然、体を捩じらせて笑い出した。握った刀の鞘がかしゃかしゃ鳴る。
「こういちろう………くん………………孝一郎、君ね。孝一郎君。こーいちろーくん」
 その都度吹き出しながら、何度も繰り返すのは、高原と同じでツボに入ったからなんだろうか?「あー立ってらんない」とか言いながら、刀の持ち主はその刀を杖のようにして支えにして、爆笑している。なのに―――秀弥が間合いを取ろうと大きく後退する動きを見せた途端、ぱったり笑いを収めて秀弥の肩を取った。どこにそんな力があるのかってぐらい、情け容赦ない握力で肩を捕まれる。
 ―――のに、その表情には満面の笑みを浮かべて言うのだ。
「あ〜、君、面白いねぇ。……こういちろうくん、か。いや、大変貴重なブツを入手した気分だよ。孝一郎君ねぇ………あ、ちなみに俺は恭平君ね」
 自分を指差しながら愉悦を混じらせて名乗る。そしてそのテンションのまま告げた。
「で、キミは完全完璧に怜二に騙くらかされた甲稜高校二年生で生徒会長の小菅秀弥君ってわけだ」
 鞘を目線まで上げて、恭平という名の青年はそれで秀弥を指し示した。
「騙くらか、された………??」
 うまく意味がつかめずに、ぼんやりと言葉を繰り返す。
(何を? どこで? どんな風に?)
 わかんない。でも、確かにこんなところへ連れてこられたのはめちゃくちゃ予定外っていうか………はっきり騙されたって感じてたけど…秀弥は無意識で唇をかみ締めていた。それを見下す青年の目は、可笑しそうに細められていたけれど………秀弥の目には嘘をついているようには見えなかった。
「どうせ、ひーっっとっコトも肝心な事とか聞けずに連れてこられたんだろ?」
 くくっと含み笑いが降る。
「想像つくねぇ、秀弥君。俺は優しいから教えてあげるけど、”若”なら、俺だよ。孝一郎”君”の事じゃない」
「なっ………」
「だから言っただろう、『待たせた』ってね」
 また一歩、近づかれる。後退しようにも、肩を捕まれて動くことが出来なかった。
 恭平の目は―――秀弥には、どんなに凝らして見ても嘘をついているようには見えなくて、いや、そうじゃなくて、何を考えてるのかとかそういった意図とかも全く読めなくて―――かしゃり、と捕まれたほうと反対の肩を鞘で軽く突付かれた、その些細な衝撃だけで全身から汗が吹き出てきた。唇がいっそう蒼く色冷める。
(………けて)
 呟きは口先だけで、声にならずに呼び掛けていた。
 恭平はにっと唇の端を吊り上げて、言った。

「俺が君を呼んだんだよ、真面目で几帳面な秀弥君」
 
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 ………助けて。

 誰か、助けて。

 誰か?
 ――――違うだろ。誰か、なんて曖昧な気持ちはただのオブラート。
 
 だから。
 ――――だから?

 秀弥はぶるぶる震え出す右手を左手でくるんで必死にこらえていた。
 その手のすぐ脇には、抜き身の刀身があって………ほんの少しでも秀弥が手先を動かしたなら、手の甲の皮膚がその刃先に触れそうであった。いや、秀弥が動かずとも、熱心に―――それとも熱心さを装ってなのか、その刀について語る恭平が何らかの意図を持ってその刀を横へずらしただけで………切れ味鋭いその刃は秀弥の皮膚をこそぎ落とすのだろう。
「―――村正の特徴は、このとがった互の目で表裏の刃紋をそろえてるところなんだ。あとは、ほら、切っ先にいくに従って極端なカーブで細くなってるだろう? こんなに独特だから、逆に贋作がめちゃくちゃ多いんだよね。ちなみにコレは模造品。ネットで2万ぐらいで買ったやつだよ………ああ、でもね」
 そこで恭平は軽く後ろを振り返った。そこには、先ほどお茶と茶菓子を持ってきた中年のおじさんが控えていた。スーツをきっちり着こなした様はサラリーマンのようでもあるが、その放つ雰囲気は決して一般人のよく持てるものではない。そんな、秀弥にとっては見るからに恐ろしげな人なのに、恭平の視線を受けた途端、身を縮ませた。すぐさま、頭を深々と垂れた。
「模造品っても、切れ味はけっこう鋭いんだよねー島崎?」
「………はっ」
 おじさんはいっそう深く頭を下げた。気のせいなのか、その肩が細かく震えている。恭平は全く気付かぬ―――気にも留めない様子で楽しげに秀弥に振り返った。
「村正って言ったら妖刀ってイメージあるけど、理由知ってる? イロイロ説があるんだけど、基本は家康にとって不吉ってところから来ててさ、たとえば嫡男・信康が織田信長の命令で切腹させられた時の介錯刀だったとか、合戦の相手方の勇将知将全員が村正持ってたとか………あと、家康本人が村正を取り落としたときに指を切り落としたとか、そういうところから妖刀ってイメージが出来たんだって―――――ね、島崎?」
 恭平は島崎のほうに軽く視線だけ寄せた。
「あの時は手を滑らせちゃって、ごめんねー」
 どこまでも同じ音程の、軽い口調。そのため、秀弥は気付くのに半瞬遅れた。
 でも――――
(………っ!!!!)
 それが目に入った途端、呼吸が……息を吸うのと吐くのがごっちゃになって、秀弥は激しく咽(むせ)た。げほげほ肩を揺らす秀弥のその手の真横には、白銀のきらめきを放つ、村正の互の目の波紋がぴたりとこちらを向いている。秀弥は必死に肩の揺れるのを抑えた。じゃないと、その刃は間違いなく秀弥に当たる―――当たる、どころか、すぅっと皮膚に滑るように飲み込まれていくんだろう。あの………秀弥の焦点は、島崎の正座の膝先にそろえられた両手の、左の指先にしぼられていた。その一番細い指が、あるはずの指先が無い手を。体の震えが伝わって、小刻みに揺れた島崎の、第二関節より先が無い指を。
 その光景は、秀弥の想像を掻き立てた。
「………あ、…あっ」
 悲鳴に成りきらないあぶくのような声が口からこぼれた。
 もう、ヤバイとかいう危機感だけではなくなってた。危機感なんてものじゃなかった。
(た……す、けて)
 無意識にふるふると首を振っていた。
 そうした瞬間――――――視界が、おおきく左右にぶれた。
「………!!!」
 その事実に認識がついてこれず、秀弥はぶれた視界を戻すように、こめかみに手を持っていこうとした。その動きに―――ぴたりとこちらに向いていた刃先が皮膚を撫でる。その痕を真っ赤な線が走る。と、線が盛り上がって粒になり………幾筋かの赤い線が甲を流れ落ちた。もし刃が連動するように引かれなかったら、そのぐらいの傷では済まなかっただろう。
「―――イっ…っぅ………」
 何か他人事のようなタイミングでそう呟いた秀弥は、その傷を確かめようと目線まで手を持っていこうとして………その手が、腕が、異様に重みを感じた。
(………?)
 自分のじゃないみたいな、違和感。そして下を向いた秀弥の視線は、そのまま重力に引かれたみたいに落ちて―――気が付いた時には秀弥は畳の上に倒れこんでいたのだった。

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「思ってたより回りが早いな」
 うまく視線を上げることが出来ない秀弥に、恭平の冷たい声が降ってきた。
「なんだ、あっけないな。これから面白くなってくる予定だったのに。地下の射撃場でライフル実弾講習とか、武道館で組手の相手とかフルコースを用意してたのに………君、やたらと薬の抵抗ないね、ホントつまんないな」
 島崎、君もしかして薬の分量間違えた? ―――そう言っているのからすると、島崎の持ってきたお茶に何かがしこまれてたってこと、で。緊張し過ぎた秀弥は、湯飲み一杯空けていた。
「……く、すり………って」
 呂律さえ怪しくなりながらも、秀弥はどうにかそう聞いていた。頭ん中ではやくざとくすりってことは………なんていう末恐ろしくなるような連想が繰り広げられている。
 恭平は間を持たすみたいに、島崎相手に「全部片付けて、出て行け」なんて命令していて―――それから島崎がすべて終えてこの広い部屋を出て行くまで、恭平はゆったりと待っていた。
 そして。
 障子の閉まる音が届いて、次の瞬間秀弥に降り注いだ声音は――――誰のものかと戸惑うぐらい、鋭く厳しい響きを備えていた。
「さて、そろそろ本題に入ろうか、秀弥君」
 その声音の鋭さに秀弥の心臓がどくんと波打った。
 先ほどまでの軽い話振りがすべて演技で、こっちのほうが本性だっていうのが、本能的にわかる。
 わかるけど、本題なんて―――本題なんか、こっちが聞きたいぐらいだ!
 体が自由になるなら、たとえ秀弥だってやる時はやる。立ちあがって、「ふざけんな!」って怒鳴って、「俺が何したんだ!?」って糾弾してやる。相手がやくざだって構うもんか。もう、構うもんか! けれど気合だけは十分でも、現実は倒れこんだ姿勢のまま、まんじりとも動けない秀弥だった。肩を取られて、恭平の為すがままに表に返されるまで、視界のほとんどは畳しか入らなかった。
 その視界が肩の反転とともにゆっくりと開けて恭平の顔を捕らえる。睨みつけてやろうとして………秀弥のその気合はしゅうしゅうと霧散していった。
(……って、コイツ――――)
 上方から貫く、キツめの視線。その含有された、圧倒的な力。魂が引き千切られそうになるぐらい、強い目。
 あんまり似ていて、だから心臓がこんなに痛い。
 ”だから”がどこに掛かってるかなんかは知らない。
 けれど―――痛い。この痛いのだけは本当だから。
 だからお前が悪いんだ………
(俺、もう……もう、限界だぞ………限界なんだぞ)
 お前のせいでこんなとこまで連れてこられて、手の甲も切ったし、ワケわかんない薬飲まされるし………もう、どうなっても知らないし。
 意識がぐてんぐてんに混濁してるのはなんとなくわかった。最後の気力も、こんな目で見つめられたら、あっさりと降参してしまっていて。
 秀弥は囚われたみたいに恭平から視線を外せなくなっていた。恭平が薙ぐような視線を注いで、そしてブリザードのように冷たく尖った声で囁くのをじっと見つめていた。
「どこら辺りの魂胆で、君は俺の息子にちょっかいを出してるんだ? あの業突く親父か? それとも日高? ――辻・宮川なわけはないよな………。こんな手の込んだやり方なら興虎の連中が好む気もするが、それともまさか――――全然見えないけど、お前あっち関係なのか?」
 立て続けに意味不明の単語や言葉を重ねられる。
「……な、に……言って」
 声が震える。喉の奥のほうが熱い。
(お前の息子なんか知らない)
 それに、その他の事も全部。
 知らない。全然、知らない。
 知らない事ばっかりだ―――――
 恭平は突然固まった秀弥に何を思ったか……制服のシャツのボタンをひとつずつ外していった。
「孝一郎がヤられるわけなんか100%ありえないから………君のが誘惑したんだろ?」
 ボタンを全部外され、肌蹴た隙間から指をもぐりこまされる。つぅ、と指の腹でくすぐるように撫でられた。
「………や、めっ」
 制止の声も、掠れたものにしかならない。くすりと笑みの形に釣りあがった恭平の唇がダブって見えて―――見えてしまった自分がいて。
(………………せ)
 呟き未満の言葉は口から飛び出る前にはかき消えていた。
「そんな顔して近づいたんだ? けっこう気になるな。あの子が夢中になってるっていう君の身体。どんなテク使ったっての?」
「………テクって…」
「舐めたり銜えたりしたわけ? それともコッチが最高にイイわけ?」
 作って貼り付けたような笑顔で囁かれる。胸を弄るのと反対の手でズボンの上から奥の入り口を擦るように撫でつけられた。
「え……あ………んっ!」
 あんまりな展開に声を押さえることすら念頭になくて、秀弥の口からあえぎに似た声がこぼれた。恭平がせせら笑う。
「へぇ。演技うまいな。そうやって、孝一郎を騙してたわけ? いくら仕事だっても、やるねぇ秀弥君」
 言われてることの半分ほども理解できない。
(仕事? 演技? ――――俺が?)
 シャツを完全にめくられてあらわになった胸に恭平の舌が這う。そのしっとりとした感覚が、覚えのある疼きを体内にばら撒く。
 ワケもわからないままに、熱だけが高められていってた。どうにか逃れようと思っても、身体は薬の効果でだらりと弛緩していて………自分の意志では小指の先すら動かせそうにない。なにより、その根性が出てこない。体中から力なんかもうとっくに失われていた。
(………お前が悪いんだ。お前が、俺―――お前に……ただ)
 秀弥は胸でざわめく何かだけは堪えるように、守るみたいに、ぎゅっと瞼を閉じて稼動範囲ぎりぎりまで首を横へ反らした。畳に頬を擦らせる。
 その首筋に恭平の指先がすうっと走った。胸で遊んでいたときのランダムな動きじゃなくて、一直線にその指先が捉えたのは右の鎖骨より少し上の位置にぺったりと張られたばんそう膏で―――恭平は躊躇なくそれを引っぺがしていた。
「わー………、ありがちってか、なんていうか」
 ばんそう膏で隠された、だいぶ赤みの取れてしまったその痕を、ただひとつ残った証を恭平に無遠慮に晒される。面白がるように触れられて、嫌悪が背筋を駆け上がった。
「…っめろ………」
 切れ切れに声を押し出す。そこだけは、嫌だった。―――なのに。
「嫌がられると逆にどうしてもシたくなるタイプなんだよねぇ、俺って」
 これって、所有の印ってヤツなわけ? 恭平はその周辺を含めて押したりつねったりしてみながら………ふと、会心の笑顔をひらめかせた。
「……俺のを重ねて付けたりしたら、孝一郎なんて言うかなー?」
 弾むような口調で囁かれる。耳元で、息を吹きかけるようにして。
(………っ!!!!!!!!)
 反射的に身を引くための運動神経が筋肉を動かそうとして―――ぴくりとも反応がないのを確認しただけであった。薬のせいだ。全然、身体がまともじゃない。触れられてる感覚はすごくダイレクトに伝わってくるのに………自分の侭には出来ない。ぺろりとその部分を舐めつけられて、震えが来た。
「あ………やぁっ…」
 どうにか、どうにか逃れようとしても動くのは首だけだった。それもあごを取られて封じ込められる。ふんだんに舌で舐め取られて――――そして、いきなりぴりっとくる刺激が走った。
「っ―――――!!!!!!!!!」
 動かないのに、身体中の随意筋が秀弥の指令を受け付けない状況だったのに―――いや、だからこそなのか? 体内に巨大な嵐が到来していた。理性からとかじゃない、反応。嫌だ、.やめろっていう、気持ちが暴風雨みたいに暴れまわる。まるでナメクジが塩をかけられた時みたいにじたばたと足掻いた。それでも両手も両足も侭にならない身体はごくわずか左右に振れたり上下に揺さぶったり出来るぐらいで。畳にばさばさと秀弥の全身が擦れる音が周囲にこもる。一旦唇を離した恭平が、舌打ちを入れて秀弥に圧し掛かった。あごをつかむ指に力がさらなる加わる。「じっとしてろ」という囁きが、鼓膜に突き刺さる。そしてまったく同じトコロを、さっきよりももっとずっと強く吸われた。
「あっ―――っぅ」
 叫び未満の吐息。
(やだって!)
 せめて両手さえ動いたら、押しのけてやるのに! でも現実では、上に乗られて抵抗なんか全部封じ込められて、ただひとつの痕さえ消されようとしてる。
(………も、)
 じわっと、視界が曇った。
 脳みそのどこら辺かがすごく熱くなってた。
 それは気持ちとかがきっと生まれる場所で、感情とかが溢れる場所で。
 衝動が、せり上がる。
 もう何もかも全部ワケわかんなくて、こんな状況で嵐みたいに荒れ狂ったそこでただ一つ浮かんだ、名。溺れたものは、藁でも何でも掴む。嵐に吹き飛ばされそうな秀弥が掴んだのは、掴めたのは、彼の名で………
 認識した途端、秀弥は必死になって叫んでた。

「――っせ、なるせ、なるせっ……成瀬っっ!!!!!!!!!」

 何度も何度も名を呼ぶ。その名前だけが知ってる言葉っていうみたいに、連呼し続けて――――だから、恭平がそのキツイ吸引を止めて唇を離した時、あんまりウルサイからなのかなんて思ってた。
 けれど―――
「………へぇ、まーた真面目に怖い顔してるよお前」
 そんな恭平の呆れたような口調に続けて聞こえてきた低い声に、いつもよりずっと低く鋭い声だったのに、秀弥は目を見開いていた。
 その視界の端に、亜麻色のさらさらした頭髪が一瞬かいま見えて―――よく見ようと首を回らそうとした途端、強い力で引き寄せられていた。走ってきたのか、鼓動がめちゃくちゃ早いのが感じられる、そのぐらい胸元深くに抱き寄せられて。
 成瀬は、一言一句違えず、先ほどの台詞を繰り返した。秀弥の胸にぎゅんってクる、冷たく冴えた声音で。

「いくらアンタでも、こういうのは笑えない―――叔父さん」
 
|||||||||||||||||||||||||||||||||

 秀弥はあれよあれよって内に成瀬に担がれて地下駐車場に連れていかれ、車の助手席に乗せられていた。ちなみに運転してるのは成瀬だったりする。ほんの少し躊躇って、しかし秀弥の大変生真面目な性格はこういう時に最大に発揮されてしまう。おどおどとなりながらも訊ねていた。
「……成瀬、お前17歳だろ。免許は………?」
 言いながら、当たり前というか当然というか今更というか、そんな気配を感じ取ってしまった秀弥に、成瀬の思った通りの返答が返ってきた。
「問題ない。運転はできる」
「いや、できるとかできないとかじゃなくて………」
 法律で禁じられてるだろーとか続けようと思って、なんだか気力が途切れてしまう。
(意味ないだろうし………)
 ため息が出てくる。以前の秀弥なら、無免許の運転する車になんか絶対乗れなかっただろうに、ばふっと体重を助手席のリクライニングに預けてた。それでも少しだけ自由に動かせるようになった両手で、どうにかシートベルトを装着したあたりがくさっても鯛、無免許運転車でも秀弥である。
 車がそもそもイイのか、成瀬の運転がうまいのか―――車はスムーズに一般道に合流した。振動とかも極小で、快適なのかもだし………。
 ため息が立て続けに出てくる。
(………成瀬)
 先ほどまでの現象とか、恭平のこととか、成瀬がもしかしたら多分助けに来てくれたのかもなところとか、聞きたいことは山ほどあるのにうまい切り出し方が浮かんでこなかった。
「成瀬………あの―――」
 とにかく何か話し出そうとして、やっぱり”あの”から先が出てこない。
 あの、高原さんが”若”って言ってたのは成瀬じゃなくて恭平って人で、じゃ、成瀬は何なのか、とか。あの恭平って人はそもそもなんなのか、とか。叔父さんとか成瀬は言ってたけど、恭平って人は息子って言ってたはずだし。でもあの人、日本刀とか平気でコッチに向ける人だし。あの薬ってどんなくすりだったのかとか、あの糾弾めいた問いかけ―――ちょっかい出すとか、魂胆とか、その後いろんな人の名前みたいのを言ってたのはなんだったのか、とか。
 聞きたいことならたくさんあるのに、そんな全部を押しのけてまず最初に舌に上ったのは―――口を飛び出そうな言葉は、なぜだか「ありがとう」で。
 それがどこら辺に掛かってるのか、自分ですら意味不明で………ってか、絶対完璧「ふざけんなよ何なんだよちくしょー」の方が正解の気がして。秀弥はもたついたように上下の唇を何度もかみ合わせた。そんな秀弥を横目で流し見て、先に口を開いたのは成瀬だった。
「―――成瀬恭平。俺の叔父………で、法律上の養父」
 いつものずんってクる低い声が、秀弥の心臓に直撃した。
(あ――え、ええ?)
 反射的に、秀弥の生真面目に過ぎる社会常識道徳観念が作動する。他人様の家庭の事情ってヤツを無理やり話させるのって………という気持ちが「法律上」とか「養父」なんて単語を基に湧き出してくる。しかもそれがすべて表情になって現れるものだから、騙されやすいし騙しやすいとの評価を実の姉妹から常々もらっているのだ。
 成瀬も容易に思考を読んだのだろう。くすりと笑った。
「ああ、別に血族関係であの人とは全然問題ない、逆に感謝してる」
 でも――――成瀬は笑いを収めて、言った。
「悪いな………あの人の疑惑も理解できるが、お前を一見しただけで気付くはずなのに……薬までヤらせて」
 成瀬は淡々と話すけど、秀弥は開幕の言葉だけで瞠目するほど愕いていて、その先が脳みそまで到達しなかった。
(わわわわ悪いな…って!!!!!!!!!!)
 あわを食うってこんなカンジなのかも知れない。あの成瀬が謝罪めいたのを口に出すなんて、聞いてしまった我が耳を疑うってもんだ! だって、「悪い」なら、それこそ今までに何度も何度も何度だってたくさんいっぱいあっただろ!?
 あんまりイロイロ1日のうちに有り過ぎたからなのかもしれない。思考回路がパンパンにはち切れそうで、途中のごたごたとかそういうのがすぱっと抜けて、最初のキッカケなところまで逆戻りする。
(だって、お前がホントに悪い)
 月曜日にあんな風に掻き回しておいて、その後二日間、全然姿を現さなくなって………どんなに、どんなに心臓を痛めつけてたかなんて思いもしないおまえが悪い。相当悪い。お前が、一番悪い。だから、高原の誘いにもあっさりのった。深く考えもしなかった。衝動で車に乗った。それもこれも、全部残らずお前が悪いんだ。
「―――成瀬っ!」
 勢いで叫んだ秀弥は、けれど横から伸びてきた手に、右手を攫われて………その傷ついた甲を、傷口を拭うように舐められて、声を失った。成瀬は丹念に舌を這わせて傷口に唾液をまぶす。確か唾液って、消毒殺菌作用とかあるなんてことを回る方の頭で思っておかないと、変な声とか漏れそうだった。薄い切り口はさほど痛みを感じなかった。
 最後に軽く唇を押し当てた成瀬が、一瞬だけ秀弥を向いた。真っ赤に頬を高潮させているのが自分でもわかった秀弥は慌てて俯いたのだが、その頭をさわっと撫でられる。
 でも、次に耳に入ったのは秀弥の感情の起爆装置発動のキーワードで………秀弥は備えるように身を縮めた。成瀬の囁くような低音が届く。
「―――お前も悪い。本当に嫌なら、それなりの抵抗ぐらいしろ」
 独特の切れ味を持つ冷えた声音。
 秀弥は真っ赤に染まった頬が、頭のてっぺん辺りからすぅッとさめていく感じを覚えた。
(俺も悪いって………)
 一般人で高校生な秀弥が、突然やくざの本拠に連れていかれて、怖くて怯えて震えてしまってたのが―――それが悪いっていうのか?
(………ちがう、そういうんじゃなくて――――)
 何かが、心の琴線を強くつま弾いていた。
「ああいう人だし、ああいう家だから、自己主張しないとまず相手の思うツボになる」
 成瀬は片手運転で、もう片方の手は秀弥の頭をさわさわ撫でつけていた。その指使いが、すごく優しく思えて………なのに、口調はほんの少し厳しさを含ませていて。
 思い出していた。
 でもそんな事を本当は言いたいんじゃなくて、もっとちゃんとまともだったらその指の先から伝わる熱とか、何で少しだけ厳しく言われたのかとか―――そういうことを、可笑しいぐらい曲解できてしまえたかもしれない。都合よく、こじつけたりとかして、もっと違う方向に話は進んだのかもしれない。
 なのに、秀弥の口は言葉を紡ぎ出していた。
「………抵抗しろって」
 違うのに。全然、そんな事なんか考えてなかったのに。

「だって、相手はやくざの家の人で、俺は全然普通のサラリーマンの息子で………にらまれたりとか、腕とか肩とかつかまられたら、腕力とか有る方じゃないし………」

 たとえば、あのままただぎゅぅって抱きしめられてたら、それだけで納得いかない全部、まるまま強引に受け入れられてたのかもしれない。たとえば、嘘でもいいからうわべだけでもいいから恭平って人のことを扱き下ろしてくれたら、俺のが無警戒でほいほい付いていって怖くて抵抗もできなかったんだって、きちんと反省ぐらいできたのかもしれない。いや、何より、たとえば――たとえば、成瀬があの言葉を囁いてくれたら、耳元で囁いてくれたなら、何もかもが変わったのかもしれないのだけれど。
 秀弥はとつとつと言葉を吐き出した。その言葉自体に、何の感情すら込められていない。ただの言葉の破片に過ぎなくて。
 でも、破片ってのは、先は鋭く尖っていて。
「俺、あの時だって、すごい抵抗したつもりで………でも、腕とか取られて、どうしようもなくて………成瀬、めちゃくちゃ力強くて―――」
 頭ががんがん痛んでいた。
 頭の中に脳みそとかなくなって、ごうごう炎が音を立てて燃え爆ぜてるような、逆に零下の雪原の雪嵐が吹き荒んでいるような―――めちゃくちゃな状態。
「抵抗しろって………でも抵抗なんか、できなくて………」
 涙が、目の端ににじんで、そのまま頬を滑った。
(こんなの、言いたいんじゃない)
 あの時、本当に嫌なら抵抗しろって言われた。
 抵抗なんてほとんど効かなくて、というよりも実効的な抵抗なんて一つもできないうちに、その日成瀬に身体を開かれた。
 でも、それだけじゃなくて。
 確かにそれだけではなくて!
 秀弥はたまったのものが全て堰切れたみたいに泣き出した。泣いてしまうと嗚咽に防がれて、言葉を継ぎ足す事も―――言い換える事も、言い直す事もなにも出来なくなって………もう、ただただ泣きじゃくるばかりで。
(こ、怖かったんだ………)
 嘘みたいな展開で、真龍会なんていう一番有名なやくざの家に連れていかれて。日本刀を付き付けられて。意味不明で答えようもないことを立て続けに問われて。薬なんか飲まされたりして。
 ものすごく、怖くて。限界超えるほど怖くて。
 だから、すごく。本当にものすごく。
(嬉しかったんだ)
 お前が、成瀬が来てくれた時、心臓がめちゃめちゃに飛び跳ねた。そんな飛び跳ね方なんか、めったになくて………たぶん、甲稜高校に合格した時も生徒会長に選出された時だってこれほどどきどきした事はなかった。
 どきどきしたんだ。
 成瀬。お前に。とても―――――とても。
 車が一般道を抜けて、住宅街の私道に入っても、車内は無音だった。時々エンジンからくる重低音が腹に響くぐらいで、それも気が付いたら止んでいた。車が停車したからだ。
 秀弥ははっとなって、成瀬を振り仰いでいた。フロントガラスから見晴るかす景色は、確かに秀弥の近所の家々で。
「―――なる、せ………………」
 嗚咽が喉仏に絡まったような、こもった声。頭の上にはずっと成瀬の暖かな手の平を感じていた。その手がふっと降りてきて、秀弥の目じりを軽く掬った。睫毛に散りばめられた涙の粒が弾ける。
 じっと、視線が絡まっていた。
 成瀬の日本人にしては色素の薄い、深い深い色みの瞳に、吸い込まれそうな引力を感じる。
 ずっと、ずっと見ていたくて。 
 ずっと、ずっと見つめられていたくて。
 けれど成瀬は、その瞳を軽く閉ざした。指をあごの辺りまで滑らすと、秀弥の唇に振れるか触れないかの瀬戸際で、ふぅっと離した。

「悪いな」

 独り言のような呟き。


 それが、最後。
 簡潔過ぎる、最後の言葉だった。




|||||||||||||||||||||||||||||||||

「あー、ホント見物だったんだよ、とくに島崎とか………肩震わせてんだもん、あの子はうまく勘違いしてくれたみたいだけど、笑ってんのバレバレ。邪魔だからさっさと出ていってもらったんだけどさー………って、怜二聴いてる?」
 成瀬が秀弥を抱き抱えて連れ去った、その後すぐ現れた高原に、恭平は腹を抱えるように笑い転げながら話しかけていた。しかし、返答というより反応すらまったく返ってこない。
(げー、こういうのって、やな感じなんだよなぁ)
 経験上、よーく身に染みて体得しているのだ。
(すげ、機嫌悪そー)
 でもなぁ、と恭平にだって反論材料ならたくさん有るのだ。なにより、恭平の腹心であるべき高原が、恭平の計画を成瀬に漏らしたこととか、絶対はっきり許しがたい。………のに、こうやって大らかに何にも問い詰めたりしない自分って、大物ではなかろうか。
 そういう恭平の思考は、高原には全て筒抜けだ。表情を読むとかいうレベルではない。高原には筒抜けになる、それだけの日夜をともに過ごした二人だった。
 高原は軽く額に手を当てていった。
「若の言いたい事、やりたい事、企図した事はわかるつもりです。実際、さまざまな方々の蠢動はここの所目に余るものが有る。ですが、ああいうやり方を―――予測できて、この私が見逃すと思えるのがわからない」
 呆れ果てたようなため息。
「なにより若だって―――」
「二人きりだ、怜二」
 切り込むような恭平の上目遣いに、高原は大きく息を吐き出した。髪をかきあげると、ふと目つきを変えた。がしりと恭平の腕を取る。
「あの子の表情を見ただけで、堅気かどうかぐらいわかったはずでしょう、恭平」
「う………ん、まぁ」
 その腕を軽く振って逃れようとするが、逆に引き寄せられ………体制を崩した恭平は、一瞬で高原に組み敷かれてしまってた。
「私を怒らせたいんですか………いや、俺に叱られたいのか」
(あー、マジでヤバイし………)
 高原の一人称が「私」から「俺」に変わるのは、めちゃめちゃ怒ってる証拠。恭平はどうにか宥めようと言葉を尽くす。
「……や、だって、あの子………秀弥君って予想以上にカワイイし、怯えちゃっててさー。止まんなくなったって言うか、なんて言うか………キスマークとか隠してたり、俺が重ね付けようとしたら、すっごい抵抗しちゃったりとか……されて」
 しかしそんな台詞はまったく効果がなかったようで、高原は上からじっと恭平を見下げている。
「あー、でも、『成瀬ーっ!!』とか俺のでもある名前で助けを叫ぶから………冷静になったというか、もともと最後までやる気はなかったし………」
 うっすらと額に冷や汗が浮かぶ。目の前で銃口をチラつかされたとしても、こんなに焦ったりなんかしない恭平であるが、高原のその顔は怖いと思う。
(そういやアイツも)
 秀弥の首筋に口付けていた恭平を睨みつけてきた成瀬の顔を思い出す。
「孝一郎………怒ってるかな? 怒ってる、よね?」
「さあ………あまり話す事も出来ませんでしたので」
 高原は冷たく返す。しかし恭平は気付かないのか、気付かぬふりをしているのか、さらに言葉を重ねた。
「でもさ、孝一郎も悪いっていうか………アイツ、あの子のこととか俺にちっとも教えてくれないし、てか、気が付いたら俺のこと『叔父さん』なんて呼び始めるし、俺アイツのお父さんなんだから『パパ』って呼べって言ってたのに」
 ていうか孝一郎―――そう続けようとして、恭平はその口を高原によって塞がれていた。んむぅ………なんて、声にならない吐息だけが零れる。
 眩暈も覚えるぐらい、長いキス。舌とか、思いきり深いところまで探られて、舐め取られて、意識すら朦朧になる。ようやく離された時、恭平は肩で息を吸っていた。「なにするっ」と息せき切って喚こうとした恭平に、高原の背筋がぞくぞくなるような微笑が降ってきた。

「一番怒ってるのが誰かわからないんですか?」

 優しすぎるほどの口調なのに、笑ってんのに………危機一髪な雰囲気漂ってる。
 なんていうか………恭平は全身から力を抜いていた。今更逃れようとか、そういう考えでバカをみたくない。そんな恭平に、高原はほんの少しだけ声を出して笑いかけた。ふわっとくせの入った恭平の髪を手ぐしで撫でつけた。
 夜が始まろうとしている時間帯であった。







別名、「ウサギさん、めまぐるしく翻弄される」編です。
長くて長くて長くて、年末年始、ひたすらコレを書きつづけてました。
いつものセカキミの2倍近い文量…(><)
ああ、でも今回、ROUND7にしてようやく恭平を出す事が出来ましたv
この人と高原が、今年連載予定の「バントライン」というお話の主人公だったりします。
そのお話も早く書き始めたいなー★
いや、しかしその前に、なんだかナゾが一杯になってきた(?)
セカキミをどうにかしないとですね。
いやはや、何はともあれここまで読んで頂いてありがとうございますvv
(03 01.05)



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