世界はキミのもの





【ROUND8】

 はあ、とため息が立て続けにこぼれる。
 流し目を送るのは、教室の一番後ろ、窓際の席。
 あの日からさらに5日経ち、月曜日となった。
 けれど未だ成瀬は学校に姿を見せていない。
(もう、さすがに5限まで終ったから……)
 はあ、とため息が立て続けに零れる。
 そのため息に呼応するかのように、6限の始まりを告げるチャイムが鳴り響き、それと同じくして現国の教師がやたらと元気よく現れる。教壇に着くや、熱血系のその若手現国教師が「よーし、今日はこれで最後だ、やるぞお前等!!」なんて発破をかけるのを上目遣いに見やって―――秀弥はもう一度、肩を揺らして息を吐き出した。
(一体何なんだよ、…くそ……)
 罵倒すらも、ひどく威勢が足りなくなっていた。

 ―――悪いな

 その言葉が、今でも鼓膜にありありと残っていた。
 低い声。けれどあまり掠れたりしない、響く声。
 独特の成瀬の声。
 忘れられない。いろんな声が、耳にこびりついている。空耳が聞こえてくるぐらい。空耳が聞こえてしまうぐらい。
 なのに。
 それなのに、ずっとその声が聞けていない。
 首筋の痕だってとっくの昔に消えてしまった。
(成瀬……)
 絶対に、本当に自分勝手なヤツだと思う。
(くそう……)
 秀弥はのたのたと授業開始の挨拶のために立ちあがった。若干その挙措が荒々しかったのに、後ろの席のクラスメイトが驚いたような視線を秀弥に送る。しかしそんな事に気付きもしない秀弥は、皆に合わせて「お願いします」と教師に礼をすると、椅子に勢いよく座った。がたんと威勢のいい音が鳴る。それがまた、後ろの生徒どころかクラス中の生徒たちをあ然とさせた。中には、「うわ……やっぱホントだよ」などと呟く生徒もいる。
 品行方正、生真面目で優秀な生徒会長が『近頃思春期真っ只中!?』疑惑とは、今や当の本人のみぞ知らぬ甲稜高校中の噂となっていた。


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 ―――悪いなだなんて。


 ただのその一言だけで、全部、こんな風におしまいにさせようなんて、そんなのは絶対に頭に来る。
 ホント、頭に来る。
 一方的で、自分勝手で傲慢で、こっちのコトなんか全然考えてない。
 あんなのはほとんど言い逃げだ。
 悪いな――――って、それで終りだなんて、そんなのは。

 そんなのは!



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 終礼が終るや、教室の後方で委員長の沖が一人あわを食いだした。
「見て見ぬふりをし続けて、早一週間、さすがにこれは進退極まってるなーオイ」
 誰かに聞かせるような不自然な声音で、嘆く沖。頭を抱えてうめいている様は、クラス中の奇異の眼差しを集めている。
 しかしそんな事など全く意識の外にある秀弥は、ただひたすら机に身体を突っ伏していた。6限のおわりのチャイムが鳴って以来ずっとそのまま微動だにしない。
(……本当に今日も終わってしまった)
 徒労感がどっしりと肩に乗っている気分だった。
 終礼が終る、その寸前までは、まさしく風前の灯のごとき期待を抱いていたりするのだけれど―――毎回、毎度、今日こそは来るかもしれないと思っても、期待の淡い灯は無情にも風に吹き消されてしまう。
 はあ、と数えるのも億劫なため息が零れ出る。
 頭に来るとか、言い逃げだ、ズルイとかイロイロ文句ばっかりが溢れているのに、あいつは―――それを言い募りたいやつは現れる気配すらみせないのだ。
(まさか、このまま本気で言い逃げる気か……?)
 とは、秀弥ならず考えてしまうだろう。
 成瀬が……あの成瀬が、高校にそう執着しているようにも見えないのだ。
 何より―――うん、そうだよ、そうだッ! 多少なりとも高校をまともに卒業したいっていう気持ちがあるんなら、こんなに休んでばっかりいないだろ、普通!! 人間、やっぱり日頃の行動がものを言うんだから!
 成瀬に関する文句なら、溢れるほどにこみ上げてくる秀弥である。苛立ちにこめかみをぴくぴく震わせる。
 でも―――だけれど。
 これを機に学校を辞めるということになったら……もう、成瀬と顔を合わす機会なんて、いや、口を交すことさえも出来なくなってしまうのではないだろうか。元からずっと遠い距離が、学校という場をなくしたら?―――……
 その問いは、ひどく秀弥の心をざわつかせ、焦燥感のようなものを生み出す。
(……くそう)
 もしかしたらそうやってフェードアウトしていくのが、自分にとっても一番いいんじゃないのか?
 理性がそんなことを言っている。
 じゃぁ、それを必死に拒んでいるこの焦りは、気持ちは、なんていう名前の感情だというのか。
(あーッ……もう、全然わかんないって!!)
 秀弥はガリガリと頭を掻き回した。
 ただわかるのは、この気持ちは、一回成瀬に合って、面と向かってイロイロ言ってやらないと収まらない類のものだっていうこと。それだけだ。
 それだけなのに、それだけすら出来ていないっていう現状が、イライラとため息を量産している。
 秀弥は頭を掻き回すその体勢のまま、再び机にへたり込んだ。
 その耳にだいぶ芝居がかった嘆きが届いたのは―――ムカツク事に、それでもやはりその名前のせいなのだろう。

「……あの成瀬だぜ〜!!!」

 大仰なため息と一緒に告げられた名前。それだけで、情けないぐらい率直に反応してしまう。
 秀弥はがばっと上体を起き上がらせた。声の発生源に顔を巡らせ、教室後方に陣取った沖に目が留まる。
(今なんて……?)
 秀弥が問い掛けるよりも先に、沖は誰ともなく演説するような口調で言葉を続けた。
「参ったよなァ。ホント、困ったなァ。こういう時に、誰か心優しい傑物が『俺が代わりに行ってやるよ』とでも言ってくれたら、盛大に感謝感激オンセールなんだけど」
 どうひいき目なく聞いていても独白というには大袈裟すぎる言い回しで、ついでに抱えた頭を振ってみせる沖。演技にしてもくさすぎる。大根役者もいいところだろう。
 しかし、そんなことなどこの際秀弥には関係なかった。
「何のことを言ってるんだ、沖?」
 問う声が、ひどく上擦ってしまう。

 キッカケが何にもなくて、自宅は割れているのに押し掛けるにはいささかならぬ躊躇があった。
 だって、あの成瀬になんて言えるんだ? 「来ちゃった」とか、そんな口叩ける訳ないじゃないか!
 だけど―――だから。

 沖が獲物を見つけた猟師のような眼差しを向けてきて、「おお〜、我が友小菅よ!! 聞いてくれるか」と声のトーンを弾ませるのに、秀弥は視線で先を促した。急くような感覚に、まず身体が動いている。
 人差し指で陣取った机を差し示すと、沖は器用に肩を竦めてみせた。
「ホラ、成瀬が欠席状態になってかれこれ一週間経ったろ? で、当然の帰結としてこの状態」
 その指の先には、机から溢れんばかりに詰め込まれたプリントの山。宿題や家庭への案内プリント、ちょっとした連絡事項の書かれたものなど、溜まりに溜まった1週間分の配布プリントである。
「……なんか、つい最近ってカンジなんだけど」
 苦笑まじりに沖が言い差したのが何の事であるのか、秀弥にも直ぐにわかった。
(ホント……つい、この間のことなんだよな)
 あの時も、こんな風に沖が話を持ち掛けたのだ。
 成瀬と関わる、たぶん一番最初のキッカケ。
 成瀬の家に―――今思えば、それは本宅の方だったのだけれど、ごり押しされた結果、秀弥がそこへプリントを届けることになったのが始まりで。
 あの時は、ちょうど居合わせた高原にプリントを預けておしまいだった。おしまいの筈だったのに、間抜けにも渡したプリント束の中に成績票が混ぎれこんでいて……翌日、慌てた秀弥の前に、成瀬がその成績票を携えて現れたのだった―――。
 時間的にはさして経っていないのに、あれ以来、とてもさまざまなことを経験したんだと思う。
 成瀬と関わらなきゃ、知らないことだらけだっただろう。知らなくて済んだ気持ちだったんだろう。
(……成瀬)
 意識したわけではなく、秀弥の口元になぜか笑みが浮かんだ。
「沖―――」
 イライラも、ため息もどこかへ消えていた。
 すっと立ち上がる。

「感謝感激しないのか?……『俺が代わりに行く』つもりだけど」

 自然に言葉が流れ出た。けれど口に出したら、一段と気持ちが固まる。
(待って―――待ってろよ、成瀬!!!!)
 こっちにだって言い分はあるんだってところを、思い知らせてやる。
 言われっぱなしでいられるか!!
 ヤられっぱなしでいてたまるか!!
 そうだ。いっつも受身でばかりいるだなんて、思うなよ!
 受け取ったプリントぎりぎりと握り締めて、秀弥は息巻いた。


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 やるぞ、やってやる!!
 その気合も、しかし目の前にそびえ立つ高級マンションの威容にしおしおと萎れてしまう秀弥である。
(で、でかいなぁ……)
 甲稜高校からJRで幾駅か、繁華街のすぐそばに立地する成瀬のマンション前で秀弥は立ち尽くしていた。
 庶民育ちの秀弥には、どうにも近寄り難さばかりが強調されてしまうその高級志向っぷりに、思わず下から上まで見上げる。茶色のレンガ張りのマンションは周囲のものと比べても、とても近代的でやたらと威圧的だ。反対側なので確認は出来ないけれど、ベランダに日除けのための簾を張っている家なんて絶対にないのだろう。
(この最上階の……14階なんだよな?)
 そんなところに一人で暮らしている成瀬。改めて――本当にどこまでも住む世界の違うヤツなのだ! それに、結局意味なんてわからずじまいだったけれど――――色々複雑な家族構成も抱えてるっぽくて……そのせいか、先日、叔父さんで法律上では父親にあたるって人に呼び出されて、イロイロ恐ろしい目に合わされたりもした。
「……うう」
 思い出して、秀弥は一回ぶるんと身体を震わせる。しかし、そこら辺については考えるのは止めだと気持ちを切り返した。
(ココにはあの怖い人もいないだろうし……)
 綺麗だけれど、ひどく怖い人。手に持って入た村正みたいな人だった。あの人とは、出来ればもう二度とお会いしたくない。
 ああでも、成瀬もホントにいるかどうかわかんないよな……と、早速弱気が窺える秀弥であるが、根性で一歩踏み出した。
 入り口の最初の自動ドアはあっさりと開き、秀弥を屋内に招き入れた。
 以前確認した通り、第1関門はその真正面、奥に二つあるエレベーターを望む壁面に設置されてあった。当然であるが、エレベーターへ続く自動ドアはうんともすんとも反応しない。
(う、……え、えっと)
 つまるところ、このエントランスインターホンとやらで確認をとってオートロックを解除してもらわない限り、ここから一歩も先へは進むことが出来ないということだ。高級マンションだけあって、セキュリティーは万全と、まぁそういうことだろう。秀弥はこわごわとその機械を見据えた。
 インターホンみたいなものなんだろう。そうだ。ドアからやたらと離れているけど、これはインターホンみたいなもんなんだ!!
 言い聞かせるようにぶつぶつ呟く。
(……うううう、でもそうすると……だよなぁ)
 確認をとるってことはつまり、このマンションで秀弥が知人といえるのはただ一人なのだからして――――
 秀弥は抱えこんだA4サイズの封筒の端をぎゅっと握り締めた。すでにその部分はよれよれになってしまっているが、秀弥自身は全く気付いていない。
「お、おおおお俺はちゃんと正当な理由があるんだから!!」
 そうだ。あくまでも自分には欠席分のプリントを届けに来たっていう明々白々な事情があるんだからして―――で、…そっ、そのついでにちょーっと話があるんだコラ、成瀬、わかってんのかなどと問い詰めたい気も無きにしもあらずなワケなんだけど。
(と、とにかく、後ろ暗いことなんか……ぜんっぜん、ないんだから!!!)
 むしろ、後ろ暗くて八方塞がりの暗闇なのは成瀬の方だ! 当てつけみたいに学校サボりやがって! 1週間以上も熱発ってお前は一体全体どんな大病奇病にかかったってんだ!!
 がるると唸るような声を気合混じりに押し出して、秀弥はその勢いに任せて成瀬の部屋番号を押した。以前一度だけ訪れた部屋。その番号は1401。妙に記憶にこびりついたその数字を押し終わった興奮も冷め切らぬ――――わずか2,3秒のラグで返答が返って来た!

「―――はい」

 機械越しのくせにひどくリアルな低音に、秀弥の鼓動がたちまち跳ね上がる。
(い、いるしっ!!)
 当たり前のことにめちゃくちゃに動揺してしまう。
 みるみる真っ赤に染めあがる秀弥の頬。指先が意味も無くわななく。
 インターホン越しの反応を待っている気配に、秀弥は慌てて叫んだ。
「……おおおおおおお俺なんだけど!!!!!!」
 どもった声は、エントランス内を反響するほどの大音声になる。
(デ、デカイし!)
 自分の声に自分が一番うろたえてしまう。すでに、ぜえはあと肩で息をしている秀弥である。
 インターホン先の返答にはわずかの間が生じた。
 
「―――俺?」

 困惑気味の問い返しに、秀弥の心臓は大きく波打った。
「あっ……あの、そのっ」
 我ながら、本気で騒立っている。
 こんな機械越しのくせに、ものすごく緊張し過ぎだから!
(そそそそうだよ……まっ、まずは名乗んないと……!!)
 思うのに、唇が上滑りしてうまく言葉が紡ぎ出せない。脳みその奥辺りがずんと重い。
 それでもどうにか名前を告げようと、呼吸を整えた時だった。
 
「―――秀弥?」

 あの、ずっと耳に残っていた低い声で名前を囁かれる。
 ただそれだけで。
 
 秀弥はパタンとその場に座りこんでいた。膝の力が完全に抜けた。
(なんか……もぉ、俺、ホントに……)
 再度、機械から「秀弥だろ?」と確認をとる声が流れるのに、「……ハイ、そうです」などと、ようようにして答える。
 頬が、熱をもったみたいに熱くなっていた。なんだか、お釈迦様の手の平の上で弄ばれていた孫悟空の気分だ。何もかもお見通しにされてる感じだ。
(……こんなんで、俺、大丈夫か?)
 成瀬相手に、こんなところまで来て。初っ端、しっかりはっきり翻弄されてるし。
 実は自ら進んで網に飛びこんだ魚ってヤツなのか。
 ……。
 …………うう。
(こ、虎穴に入らずんば虎子を得ずって言うしっ!!)
 自身を鞭打つにしては、だいぶ弱腰になっている秀弥であった。


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 成瀬によってオートロックが解除された自動ドアを抜け、エレベーターで一路14階へ向かう。
 心臓は依然ひっちゃかめっちゃかだった。
 ごく些少の振動で14階に辿り着いたエレベーターが”チン”と鳴ってそのドアを開くのを、ごくりと生つば飲んで見据える。
(落ちつけ〜、落ちつけ俺〜)
 あの成瀬とはいえ―――やくざのムスコの成瀬とはいえ、所詮は同じ高校生なのだ。確かに危険極まりない人物だけど、言わなきゃならないことがあるんだからしてッ!!!!
 ―――自身に言い聞かせるように、できれば暗示ぐらいかかってほしいほどに繰り返す。義務だと思えば、大抵のことは成し遂げてしまう生真面目人間・秀弥である。そのぐらいの勢いで、「言ってやるんだ、言わなきゃいけないんだ」と思い込む。もはや念じているといって過言ではない。
 登るエレベーターの中でも繰り返した深呼吸を、最後にもう一度深く行うと、秀弥は一歩足を踏み出した。
(……!!!!!)
 その足がわずか二歩目で空中に静止したのは、思わぬ不意打ちのためだった。
 さてこれから第二関門である成瀬の部屋のドアをどうやって開けさせようか―――などと悩んでいた秀弥の視線のその先に、当の本人が立っていたのだから。エレベーターを下りてすぐ左の、1401号室のドアに半身を軽く預けた姿勢で、成瀬がこちらを見ていたのだから!!
(―――成瀬!!)
 もろに心臓を射抜かれる。秀弥は蛇に睨まれたかえるさながらにその場に立ち竦んだ。
「……で?」
 落ちついた配色の廊下に響く、成瀬の低音。冷たくさえ響く声に、秀弥はまたもや膝小僧を直撃された。ぐらりと軸がぶれるが、体面ってものがある。成瀬の前でみっともなく膝をつけられるか!!と、ぐっと踏ん張って衝撃に耐えた。
「あの、成瀬……」
 ともかくも言葉を押し出すが、意味を成し得ない。あたふたと、視線が空をさまよう。
「どうした?」
 重なる声は、いっそ小憎たらしいくらい至極冷静極まりない。
 しかも、軽く双眼を伏せた横顔は、なんとも平静なご様子で。
 翻って、やたらと顔を火照らせている自分が情けないやら悔しいやらで、秀弥はギリっと奥歯を噛み締めた。
(……ああ、もう、くっそう!)
 ぎゅっと握り締めたのは、1週間分のプリントででっぷり膨らんだA4封筒。握り締めすぎたために、使い回しのボロボロの封筒のようになってしまっている。
 それに気付いた成瀬が、眼の端をつっと細めた。
「ああ、お前、またプリントの配達係にされたんだ?」
 あいかわらずだなってカンジの笑いを口元に刻む。
 それだけで、ごく普通に腕を差し伸べて封筒の受け渡しを求めてくる成瀬に――――秀弥はキッと眼差しを強めていた。
(―――っっ!!)
 成瀬があの時、「気分が変わった」って言ったのが、今ならなんとなくわかる気がした。きっと成瀬とは全然違うのだろうけど、それでも、瞬間的に、確実に「気分が変わって」いたのだから。一週間も学校に姿を見せないで―――しかも、別れ際にあんな意味深な言葉を残して!! それなのに、久しぶりに会ってみたらそんな普通の態度で!!
 一瞬で、自分でもビックリするほど気分を変えていたのだから!!
(こんな顔されて、こんなあっさりとした態度で相対されて―――やっぱり俺ばっかり、一人して心臓ギリギリ痛くて!!)
 どうにかしてその表情を崩してやりたい。ただその一心だった。

「……きっ、気分が変わったっ!!」
 吐き捨てるように宣言する。

(俺はッ――――)
 プリントの配達係なんか、そんなの自分から買って出たに決まってるだろ。
 お前に会いに来たんだ。
 わかれよ、このバカ。少しは驚いて見せたりしろ!!
(お前に会いに来たんだぞっ!)
 秀弥はプリントを貰うべく差し出された成瀬の手を拒むように、胸に封筒を抱えこんだ。視線だけはきつく成瀬を向いている。お腹に息をためて、そして言ってのけたのは激情のままのでっかい声。

「キスしたら返してやるっっ!!!!!」

 秀弥の中では逆巻く怒涛が背景の、力一杯の先制攻撃だった。握り締めた拳が気持ちを代弁している。
 効果はてき面で、成瀬はその淡い光彩を放つ瞳を見開いた。薄く開かれた唇が、不意をつかれた驚きを現している。
(ど、どうだっっ。俺だって―――っ!!!!!!!)
 けれど、秀弥が勝ち誇れたのは、時間にしてわずか2.5秒ほどのこと。
 不意打ちでも何でも、成瀬から一本取れた清々しさにゆるんだ唇に、衝撃が舞い降りた。
「……んぅっっ!!!」
 舞い降りた、なんて形容ではすぐに収まらなくなる。
 逃げる腰をぎゅっと抱き寄せられ、その上で巧みに角度を変えられる。一瞬で、深く交わってきた舌に、防衛本能なんか役にも立たない。上顎を掬われるように舐められて、熱い息が零れる。
「……ん、う……ぅ」
 溶ける。そんな舌先を奥深くまで差し込まれたら、なんかもう、全部溶けてしまう。
 そう思った秀弥が、全てを蕩かせる直前に、あっさりとその舌は逃げていってしまった。あまりにあっけない終らせ方に、思わず成瀬を見上げる。
「…なるせ……」
 我が耳を疑ってしまうぐらい、不服げにくゆる声。
 反対に成瀬は、少しだけ口端を吊り上げて、可笑しそうに呟いた。
「そういうのは威しって言わないんだよ。お前、やっぱり頭悪いのか?」
 まあ、いい―――語尾にはっきりと笑気を滲ませて、成瀬はすっと身体を離した。そのついでのように、秀弥の両腕に抱えこまれた封筒を抜き取る。
「……約束だからな」
 そう告げる声には、余韻はもうなくなっている。
 じゃあな、という台詞はほとんど成瀬の背中から発せられていて。
 とんでもなく深いキスをかましやがったその男は、片手でドアを開けると、あっさりと部屋の中へ消えようとしていて!
 背後で秀弥が呆然と口まで半開きになっているのに、見返りすらしない。
(嘘だろ……っっ!!)
 秀弥は何かにせっつかされたかのように、その両手を伸ばしていた。指先にかかった成瀬のTシャツの裾をがっしりと掴む。もう片方の手は、成瀬の肩を抱き寄せるように回していた。
「…ま、待てって!!」
 切羽詰った金切り声。衝動のままにぎゅっとその背中にしがみ付いた。
「……」
 ぴったりと引っ付いた成瀬の背中が伝えるのは、深いため息だけだった。
 自分自身が一番驚いている秀弥もそのままカチコチに固まってしまう。
(わ……ぁあああああ、何してんだよ、俺)
 内心、血液が沸騰しそうなぐらいぐてんぐてんになってるのに―――それなのに、逃してたまるかと抱きつく力は強まるばかりで……
 二人が押し黙ると、人気のない14階の廊下には静寂が満たされる。
 その数瞬の沈黙を破ったのは、成瀬の呆れたような声音だった。
「……コーヒーでも飲む?」
 まるで仕方ないとでも言うようなその提案に、秀弥はぶんぶんと首を縦に振っていた。


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 沖に自らプリント配達係を買って出て、とうとうココまで辿り着いた。
 けれど……
(俺、ホント何やってるんだろう……)
 秀弥は出されたコーヒーを大人しく飲んでいた。
 やたらと広いこの部屋はたぶんリビングなんだろう。ソファーとテレビがあるぐらいで、他にはほとんどといっていいぐらい、家具が見当たらない。綺麗に片付いているという訳でなく、本当に何もないっていう感じなのだ。前に訪れた時はゆっくり観察するヒマなんてないぐらい―――アレだったもんだから、と思わず赤面してしまう。
 そこに座れと言われたソファーにちょこんと鎮座したまま、秀弥は落ちつきなく視線をやや下向きにふらふらさせた。リビングテーブルもないので、手の中のマグカップを置くことすら出来ない。取っ手以外の部分が熱を伝導して熱くなっていたが、床に直接カップを置いてしまうには、生真面目すぎる性格上躊躇いが大きかった。
 ソファーの斜め正面ほど、フローリングに直に座りこんだ成瀬の……組んだ長い足のつま先で視線が留まる。
「あの……」
 お互いに先ほどから会話が全くといっていいほど成り立たずにいた。ゆえに室内を覆い尽くす沈黙は、秀弥にとって非常に居心地が悪いものだった。成瀬に見られているようで、なんとも落ちつかない。
 何か話題は……と、先ほどから気になっていた事物を問うた。
「あの辺に散らばった―――あっと、置いてあるのは、薬か何か……だったり?」
 ソファーとテレビの間に小さな山を作っている銀色のアルミ箔は、カプセルの入ったシートだろう。幾つか破れがあるから、服用もしているのかもしれない―――けど。
(薬って……)
 ぼんやりと疑問が生じた秀弥に、成瀬が素っ気無く答える。
「……解熱薬だとか痛み止めだが―――飲みたいのか?」
「えっ!? ……いや、そんなんじゃないけど――――」
 かなり普通の薬の名前に、妙にびっくりしてしまう。
「成瀬でも風邪とか引くんだな……」
 聞きようによっては随分と失礼な物言いであるが、どうやら言った本人は気がついていない様子で、言われた本人も気にしていないようであった。
 ふん、と成瀬は可笑しそうに鼻を鳴らした。
「俺は病欠の筈なんだけど……お前、それでわざわざプリント持って来たんじゃないのか?」
「え! あ……」
 さすがに当人を前にして「全然全く信じてなかった」なんて口が裂けても言えはしない。
(ってか、こういうのをオオカミ少年って言うんだよッ!!)
 憤慨が指先まで伝わり、手の中のコーヒーが揺れた。
 成瀬が毎回毎度、イロイロ無茶な御託を並べて学校休んでばっかりいるもんだから、本当の病気の時でも疑われるのだ。自業自得の典型だ。
(って――――ええっ!!)
 ものすごく、ものすごく何かが引っかかった。
 秀弥は戸惑いに首を小さくひねった。
「成瀬、本当に病気だったんだよな?」
「病気ってほどでも……少し熱が出ただけ」
「いつから?」
「さあ……――ああ、お前を送って次の日だな、その後色々あって熱が出た」
「……」
 素っ気無い成瀬の言いように、秀弥は心臓を打ち抜かれたみたいにぎゅんと痛めていた。
(嘘……)
 信じていないのは、オオカミ少年を一番信じていないのは、秀弥自身だったってことなのだろうか。でも、それじゃ、あんなに悩んだのは、あんなにずっと悩ませられたのは一体なんだったのだろう。―――けれど、証拠のように薬は床に散らばっていて。
(ホントに?)
 心臓が、どくどくと鼓動を高めていた。
 でも、だってそれじゃあ、罠に陥りそうに魅惑的すぎないか。
(あてつけ、とかじゃなくて……?)
 ただ、風邪で学校にこれなかっただけだったら?
「え……と。それで、どう、なのさ……?」
 どきまぎと呟く声には、気持ちが入っていない。
 心は違うことばかり考えていて、どうにか場をつなぐように言葉を出しただけ。
「おかげさまで」
 対する成瀬は、本当に憎らしいぐらい変わらない態度。足を組みかえる仕草もゆったりとしたものだった。
(成瀬、でも、俺……)
 一番問いたい言葉だけが、喉の奥に詰まって発音できなかった。
「じゃ、明日は登校できるのか?」
 辺り障りのない台詞で気持ちをごまかす。
「さぁ……特に問題がなければ、行くだろうな」
「特に問題って……明日、古文の平塚先生が小テスト出すって言ってた」
「へぇ、範囲は? 教えてくれないのか?」
「あ……と、教科書の26ページから37ページまでの『枕草子』…ものづくしとか、おりおりの随想のあたりだって―――」
 そこまで言って、気持ちを押しとどめられないとばかりに秀弥はぎゅっと瞼を閉じた。
(違う!!!!!)
 聞きたいのはこんなことじゃない。言いたいのはこんなことじゃない。
(俺がここに来たのは―――)
「……秀弥?」
 どうしたと、突然会話を切った秀弥に視線を送る成瀬。それを頬に感じて、秀弥ははっきりと瞳を見開いた。下げていた顎をしっかり前へ据える。

「悪いな―――って!」

 高ぶった気持ちに合わせて、言葉もひときわ大きくなる。
「あの時、成瀬が悪いなって言うから、俺ッ!!」
 高原に連れて行かれたのは、成瀬の本宅の方で。そこでめちゃくちゃ怖い目に会った。日本刀なんか、そんなの抜いたヤツを初めてみた。ワケのわからないことで脅されて、ほんの少しだけど皮膚をそぎ切られて。薬だとか、4本しかない指だとか、獅子威しの高い音だって―――全部、全部はじめてのことだらけで!!
(あんな言葉、本気じゃなかった……!)
 それは成瀬だって、最初はものすごく怖かった。
 今だって、まだ怖い。
 でも。
 でもきっとそれだけじゃなくなっていて……自分の中の気持ちが、それだけじゃなくなってしまっていて!
 秀弥は手の中のコーヒーカップを強く強く握り締めた。中のコーヒーの茶色い表面に波紋が広がる。
「あの時ちゃんと言えなくて……言い直したくても、お前学校に来ないから、ずっと、ずっと気になってて……」
 気になっている、なんてものではなかった。でも、それが秀弥の精一杯だった。
 なんだか、鬱積していた分が全て噴出していて、気持ちに整理がつかなくなっていた。だからこそ、告げたのは一番理解しやすい言葉。その奥にある、自分自身理解し難い思いはどうにか押しとどめて、
「ありがとうって、成瀬にあの時、本当はありがとうって感謝しなくちゃいけなくて!! ―――ちがッ、そうじゃない。俺が感謝したかったんだ、本当は! でも、パニクってて…」
 言いながら、やはりその違和感に心が戸惑う。
(違う―――やっぱりそれだけじゃなくて!!)
「嬉しかったんだ―――」
 口をついて出たのは、意図した言葉なんかじゃなかった。
 怖かった。日本刀の鋭い切っ先に怯えていた。
 助けてって、だから必死になって叫んだ。
 その相手は―――他の誰でもない、秀弥が必死になって助けを求めたのは成瀬だった。
(お前が来てくれたから―――だから)
 だから、ひどく嬉しかったのだ。他でもない、成瀬が助けてくれたから。
「成瀬―――――」
 秀弥は見つめる眼差しを強めた。
 成瀬の深い色の瞳に吸いこまれそうになる。名状し難い深い色合いに、秀弥の心が震える。
(成瀬、俺、お前のこと―――)
 お前のこと?
 続きがこみ上げる前に、すっと気持ちにセーブがかかる。何かが先を制するように、秀弥を留めた。
「らしくないな。どうした?」
 問い掛ける成瀬を縋るように見つめる。

(お前のこと……)

 なんだ。なんでなんだ。
(こいつは俺を犯したし、やくざの息子だし……イロイロあったのに)
 どうして。
 どうしてこんな気持ちがあるんだ?

(どうして俺の中に、こんな気持ちがあるって言うんだ!)

 秀弥は見つめる視界がぼんやりとくゆるのを感じた。
「―――どうした?」
 訊ねる成瀬の口調が少し変わる。差し伸べられた指先が、そっと頬を掬った。
 熱く染まった頬に感じる成瀬の指先。弾かれる涙の粒。
「何で泣くんだ?」
 吐き出す息と共に告げられる言葉。秀弥は必死にその首を振った。
「……なんでもないッ――――!!」
 切羽詰った言葉に、成瀬が再び吐息をつく。今度はため息混じりの吐息になる。
「……お前、よく訳がわからない」
「ごめッ……」
「別に……。―――もう、帰るか?」
 それには必死になって首を振る。
「……なら、コーヒーもっと飲むか?」
 それにもとっさに首を振った。まだ、手の中に納められたカップには半分以上のコーヒーが残っていたのだから。
「……」
 成瀬のため息が大きく伝わってきた。
 秀弥は返す言葉もなく俯いた。頬も目も喉の奥も、全部ひどく熱くなっていた。自分が、とんでもなく我侭なヤツになってしまったような気がしていた。
 だからその時、腕を強引に引き寄せられてソファーから引き摺り下ろされて、秀弥は一瞬慄いた。
 けれど―――
 コーヒーカップがカタンと音を立てて床に降ろされた。それは成瀬の幾分か性急な指の仕業で、秀弥の手の中からコーヒーカップを取り上げたのだ。そして反対の腕はそのままぎゅっと秀弥を抱き寄せて、その胸に納める。
 耳もとで囁いたのは、少しからかい混じりの低い声で。

「なら―――ヤりたい?」

 言葉尻が、濡れた感触をもたらす。入り口に近い部分を舌で刺激されて、秀弥はびくんと身体を揺すった。
 身体中が、熱で上気せそうになる。
(お前のこと……)
 きっとその先に続くのは、口にすればひどく楽になってしまう言葉。
 けれど、自分ではうまく説明も整理もつかないから。言葉に出して伝えるには、まだ全然足りてなくて。
(お前が言ってくれたら……)
 記憶に深く深く刻まれた、あの言葉。
 ただの一度きりしか聞けなくて、ひどく心もたない。本当だったんだろうかって、自分が一番不審に思っている。
 もう一度はっきり言ってくれたのなら――――!!
 秀弥は、決意を示すように抱き寄せられた成瀬の背に手を回し、抱き締め返した。
 その腕の中でこくんと、小さく頷き返す。
 頬に、成瀬の心音が一瞬伝わった。


(03 05.22)

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