あなたの名は・・・ 第四章
「讃えよ〜夜明けを〜美しい魂を〜大地のダンスを〜」
どこまでも続いているかのような花の絨毯・・・
空一面に青空が広がり、小鳥たちがその空を求めて飛びまわり、一年ぶりの春の訪れを感じさせていた。
ここはアルスター城郊外の小高い丘に広がる花畑・・・
今、ここで美しい歌声が響いていた。
「感じよ〜勇気を震わす大風を〜」
一人の少女が歌を歌っていた。
手を広げ、透きとおった美しい声で歌っていた。
大空に・・・花たちに・・・鳥たちに・・・そして自分の目の前で座りながら自分を眺める少女に聞こえるように・・・
目の前の少女は、ただ彼女の歌声に耳を傾けていた・・・
鳥の鳴き声や風の囁きと、うまく調和するような歌声は・・・まさに童話にでてくる妖精の歌姫のものを連想させる。
「溢れよ〜大地の父〜天の口づけ〜喜びの雨〜」
(・・・とっても綺麗で・・・優しい・・・歌声・・・)
観客である少女は、ただ花畑に現れた歌姫に心奪われていた・・・
「小さな〜ひと粒の種〜それは〜大きな〜大きな願い・・・」
花畑の音楽界は続いていた・・・
「すごい・・・すごいよ! こんなに上手なんて・・・まるで妖精の歌声みたいだった!」
歌が終わった後・・・歌声に聞惚れていた少女は、顔に興奮の色を浮かべていた。
「大げさよ・・・そんな・・・」
妖精といわれ、歌手は照れているようだった。
「そんなことないよ! こんな綺麗な歌声・・・聞いたことないよ! それに・・・とても良い歌・・・なんだか・・・心と体に染み渡るような・・・」
「ふふっ・・・ありがとう・・・この歌はね、この地方に古くから伝わる民謡でね。全ての人々に希望と幸せを与える歌って言われているの・・・」
「そうなんだ・・・でも、本当に優しい感じの歌だった・・・歌声も・・・」
それが・・・少女の素直な感想であった。
「ありがとう・・・ティニー・・・」
歌を歌っていた少女は、礼を言った。
「ううん! 綺麗な歌をありがとう。 イシュタルお姉様!」
「今度・・・この歌を教えてあげるね・・・」
・・・・・・あの頃は・・・本当に・・・・・・
「・・・う・・・ううん・・・」
手入れがされておらず、枠に埃の溜まっている窓から光が挿し込み、夜が明けたことを示していた。
ベットで寝ていたティニーは、その光で目を覚ましたのだった。
所々腐っている天井が目に映る・・・
(夢・・・か・・・)
自分が、たった今まで見ていた光景を思い出す。
あれは、自分の思い出の中の一つであった。
(あの頃は・・・本当に・・・)
少し、昔を思い出すティニーだった。
(そういえば・・・イシュタルお姉さまは?)
周りを見たが、自分を救ってくれた女性の姿は見えなかった。
身を起こしたティニーは、そのままベットから降り、立ち上がった。
「・・・うっ!?」
体を動かした途端、痛みが走った。
まだ、体の痛みは完全になくなってはいなかった。
痛みを気にしながら、ゆっくりと体を動かしていくティニー・・・
立ち上がり、ゆっくりとドアに向かって歩き出した。
イシュタルは、朝日の中で、ベランダの手摺に身を預けていた。
そして・・・物思いにふけっていた・・・
(・・・これから・・・どうすれば・・・)
彼女の考えていたことはこれからのことだった。
(ティニーのことは決まっている・・・彼女は反乱軍・・・いや、解放軍に合流させたほうがいい。そこが彼女の帰る場所なのだから・・・でも・・・)
ティニーが帝国に追われている以上、彼女にとって安全な場所は解放軍しかなかった。
もちろん・・・これからの戦いで、どうなるかは予想もつかないが・・・
(でも・・・私はどうするの?・・・)
そう・・・ティニーのこともそうだが、自分のことも考えねばならなかった。
(私は、今まで彼らと戦ってきた・・・多くの彼らの仲間を葬ってきた・・・そんな私が彼らに助けを求めるというの?)
自分の今までの所業・・・経過・・・それらを考えると、彼らに助けを求められる立場ではなかった。
(多くの家庭から子供を奪い、たくさん人を殺し・・・そして・・・ユリウス様に忠誠を誓った私が・・・)
そう・・・彼女は、ユリウスに忠誠を誓ったのだ・・・
彼に従い・・・人を殺し、彼に言うがままに子供狩りを行ったのだ。
そんな自分が、いまさら助けを求めることなど、できるはずはなかった。
(ユリウス様の人形の私が・・・私が・・・)
ユリウスの名を頭の中に思い浮かべた途端、彼女はなぜか心が締め付けられるような感覚に襲われた。
(私は・・・とうとうユリウス様を・・・裏切ってしまったのね・・・)
自分の行為を再確認するイシュタル・・・
(覚悟の上だった・・・そして、後悔もしていない・・・私はティニーを助けたいと決意し、それを実行したことには・・・でも・・・)
ティニーを助け、彼のもとから離れたイシュタル・・・
彼を裏切った自分・・・
それが、いざ、一時の安息を得た今、なぜかその事実が彼女の中で大きくなっていた。
(後悔はしていない・・・だってこれしか、あの子を・・・ティニーを助ける術はなかったのだから・・・)
そう、これしかなかった・・・
自分の過ちで、囚われたティニーを・・・
傷ついたティニーを助けるには・・・これしか・・・
(そう・・・これしかったなかった・・・そう・・・ユリウス様を裏切るしか・・・)
ユリウスの名が、何度も頭の中に浮かんでしまう・・・
(なんで・・・私は・・・ここまで、ユリウス様を・・・気にして・・・)
なぜ・・・今になって・・・
(私は・・・やっぱり・・・)
「イシュタル・・・お姉様?」
突然、イシュタルに声を掛けるものがあった。
内なる声を聞いていたイシュタルは、引き戻された。
ティニーが、よろよろしながら、同じくベランダに出てきた。
少し朝日が眩しいのか、目を細めている。
その姿を見たイシュタルは安堵した。
この少女を救ったことを実感できたから・・・
「おはよう、ティニー」
先ほどまでに悩みを抑え、ことさら明るい声でティニーに朝の挨拶をする。
「あっ・・・はい! おはようございます。」
ティニーもそれに答える。
朝日に照らされたイシュタルの美しい姿を見ながら・・・
「どう? 体の調子は?」
「まだ、少し体は痛みます。でも・・・もう大丈夫です。」
「良かった・・・でも、無理はしないでね・・・」
イシュタルは、とても安心した表情を浮かべた。
ティニーはイシュタルの顔を見つめていた・・・
(お姉様・・・やっぱりとても綺麗・・・)
今更ながら、イシュタルの美しい姿を見つめるティニー。
昨日はあまり、ゆっくりと眺めることができなかったから・・・
(・・・昨日?)
・・・途端にティニーの顔が赤くなった。
(そうだった・・・私はイシュタルお姉さまと・・・)
昨日のイシュタルとの行為を思い出すティニー。
カァ−、と顔が燃え上がるように赤くなっていく。
頬に手を当て、恥ずかしさに苛まれるティニー。
「どうしたの? ティニー・・・」
顔を赤らめるティニーを覗き込み、尋ねるイシュタル。
「えっ! あ、いえ! あっ・・・その・・・」
昨夜、自分を助け、愛し合った顔が自分の前に出され、とてもうろたえてしまうティニー。
(恥ずかしい・・・イシュタルお姉さまの顔が見れないよ・・・)
いざ、冷静になってみると、あの手の行為はやはりとても恥ずかしかった。
ティニーの仕草を見ていたイシュタルは、ふと笑みを浮かべた。
(ふふっ・・・ティニーったら・・・)
イシュタルには、ティニーが恥ずかしがっている理由は分かった。
そして、そのことで顔を赤らめるティニーの無垢さと純真さが嬉しかった。
それが、ティニーの魅力なのだから・・・
「ティニー・・・お腹すかない?」
何を喋っていいのか分からず、ただうろたえるばかりのティニーにイシュタルは助け舟を出した。
「え・・・お腹・・・ですか?」
ティニーは、自分のお腹に聞いてみた。・・・とてもお腹がすいていた。
ティニーはこの数日間、何も食べていなかったのだ。
お腹がすいて当然だろう。
「・・・・・・はい・・・」
俯きながら、自分が空腹なことを伝えるティニー。
「うん、じゃ何か食べましょう・・・」
そうやって、イシュタルはベランダから出て行こうとした。
「あっ、待ってください! イシュタルお姉様!」
ティニーも良く分からないまま、イシュタルのあとについていった。
(たとえ・・・私がどうであれ・・・あなたは絶対守ってあげるから・・・)
「父上は死んだか・・・」
一方その頃・・・
ユリウスは、ヴェルトマー城を訪れ、ロプト教団の大司祭マンフロイと執務室で話をしていた。
「皇帝などもはや無用の人間・・・殺す手間が省けたというものです。」
「ふっ、父上も哀れなものよ・・・貴様に利用されるだけ利用されて・・・用がなくなれば無残に捨てられるか・・・」
ユリウスは実の父が死んだことに対して、さして感慨はないようだった。
「全ては、殿下の御為です・・・アルヴィス卿は、ロプトの血を受け継ぎながら、帝国の再興には反対されておりました。卿は炎の聖戦士ファラの気質を強くお持ちでしたから、いずれは殿下に敵対されていたでしょう。」
「分かっているさ、ところで反乱軍はシアルフィまで来たそうだな・・・帝都の守りは大丈夫なのか?」
ユリウスは、シアルフィまで達した解放軍のことに会話を移した。
現在、解放軍はシアルフィを橋頭堡として、その主戦力を集中させていた。
また、いまだ帝国の統治下にある各地でも解放戦線が勃発していた。
既に、シレジアは現地の解放軍の手で解放されており、アグストリアでも解放戦線が有利に戦いを進めているという・・・
しかし、帝国首脳はさして危機感を覚えていなかった。
各地の反乱などいつも鎮圧できる・・・
彼らの最大にして、最強の戦力は・・・現在、帝国本国に進入したセリス率いる解放軍本隊だった。
これを、全力を以って撃破した後、各地に軍を再派遣し、再び制圧すればよい・・・
その様に首脳部は考えていた。
楽観論の極みではあるが・・・
「ご安心ください、シアルフィの奪回はエッダのロダン司祭とドズルのブリアン公子命じてあります。ご心配には及びません。」
マンフロイはそう言い放ち、戦いの勝利を確信していた。
「そうか・・・ところでユリアはどうしている?」
ユリウスは自分の実の妹のことについて尋ねた。
彼女は、マンフロイの手によりミレトスで拉致されたのだ。
「この城の牢に捕らえております。だれか、ユリア皇女を連れて来い!」
部下の兵に命令するマンフロイ・・・
そして、程なくしてユリアが連れて来られた。
「・・・・・・」
連れて来られたユリアは自分の実兄の姿を見つけたが、無表情のままその姿を見つめた。
「ユリア、久しぶりだな。私を覚えているか?」
「ユリウス兄様・・・」
ユリウスの顔に笑みが走る。
「ほおー、覚えているのか・・・お前が消えてから、もう7年になるというのに・・・」
「全てを思い出しました。まるで、昨日のように・・・」
ユリウスとユリアは、二人の共通する記憶を共に思い浮かべていた。
片方は悲しみを浮かべて・・・片方はさも愉しそうに・・・
「ふふふっ・・・それは良かったな。優しかった母上のことも思い出したか?」
その言葉をユリウスが発したとき、ユリアの中に何かが走った。
「・・・あなたは誰なの?・・・あのとき・・・マンフロイ大司教が不気味な黒い聖書を持ってきたとき・・・何もかもが変わってしまったわ・・・優しかった私の兄は・・・その日を限りにいなくなって・・・あとの残ったのは恐ろしい力を持った悪魔の子だけだった。あなたは母上だけではなく、兄様まで私から奪った・・・」
あの幸せな時・・・
あの頃の兄の優しさを知っているユリアにとって、今の兄の姿など認めたくなかった。
「あなたは一体誰!?なぜ、私たちを苦しめるの!!」
(ユリア・・・お前は・・・本当に何も知らないのだな・・・)
ユリウスはこの時・・・ユリアの主張と、自分の見解が食い違っていることを知っていた。
彼は求められて暗黒神の化身になったのではない・・・
そう・・・彼は・・・
(ふっ・・・しかし、今ごろ・・・その事実をユリアに告げてどうすると言うのだ?もう、殺しあうしかない私とユリアが・・・)
彼は、自分のことをユリアに告げることをやめた。
せん無きことだからだ・・・
そのため、彼は、ユリアに自分の意思を簡潔に伝えた。
「私はロプト一族の力を受け継ぐ者・・・この世界の支配者なのだ。ユリアよ!我が宿敵ナーガの力を受け継ぐ者として、お前にはここで死んでもらわねばならぬ。」
(そう・・・これしかないのだ・・・我ら二人には・・・)
しかし、そのことに異論を唱えるものがいた。
「お待ちください、ユリウス殿下。この娘にはまだ使いようがあります。あとのことは私めにお任せください。」
マンフロイだった。
彼は、ユリアを使って・・・何かをしようとしているらしかった。
(珍しいな・・・・)
それが、ユリウスの感じたことだった。
この暗黒神の復活とかつてのロプト帝国の再興しか頭にない、この狡猾な男が・・・
ユリアを使って、何をしようとしているのか・・・興味があった。
「何か・・・面白いことを考えたようだな・・・分かった。好きにするがいい。ただし油断はするなよ!」
「はい、分かっております。おい!皇女を連れて行け!」
そして、ユリアは、再び牢に連れて行かれた。
「・・・ところで、ユリウス殿下・・・」
マンフロイは思い出したように、ユリウスに口を開いた。
「イシュタル殿の行方は分かったのですか?」
「・・・なんだ・・・知っていたのか」
マンフロイはティニーを連れて行方を暗ましたイシュタルのことを尋ねた。
このことは・・・マンフロイには伝えてはいなかったのだが・・・
(ふん・・・相変わらず、耳が早い男だ・・・)
ユリウスにとって、この男のこういうところは不快なものではなかったが、なぜか今は、不快な感じを受けたのだった。
「イシュタル殿はフリージ家の裏切り者で反乱軍に同心するティニーを連れて姿をくらましたとか・・・これは帝国に対する造反なのでは?」
「・・・・・・」
ユリウスは何も答えない。
しかし、解さずマンフロイは続けた。
「いくらイシュタル殿とは言え、今回のことは許されるものではありません。処罰が必要でしょうな。」
「・・・今、ヒルダがイシュタル達の行方を捜している。見つからないことにはなにもできないだろう。」
先ほどとは違い、なぜか歯切れの悪い言葉を並べてしまうユリウスだった。
自分でも不思議なぐらい・・・
「殿下、もし彼女らが反乱軍と合流したら一大事。特にイシュタル殿はトールハンマーを引き継ぐ者です・・・それは防がねばなりません。彼女らの探索に我らベルクローゼンも動員いたしましょう。さすれば、すぐに行方も分かりましょう・・・」
「・・・・・・」
(なぜ・・・何も、このことについて言えないのだ・・・迷っているのか・・・この私が・・・)
「よろしいでしょうか? ユリウス殿下・・・」
迷うユリウスを尻目に、決断を迫るマンフロイ。
「分かった・・・好きにしろ・・・ただし!」
先ほどとは違い、なぜか弱々しい口調に・・・マンフロイも、当のユリウスも驚いていた。
「・・・ただし・・・見つけ、捕らえても何もするな!イシュタルを私の前に連れてくるのだ。分かったな・・・」
「・・・御意・・・」
ユリウスの言葉にマンフロイは頭を下げた。
「私はバーハラに戻る!」
ユリウスは急かされるようにバーハラに帰っていった・・・
まるで・・・自分のうろたえを隠すように・・・・
(なんで・・・ここまで動揺せねばいけないのだ!?)
イシュタルのことで・・・自分がここまで動揺するとは・・・
そんな自分を再発見するユリウスであった。
(ユリウス殿下は・・・まだまだだな・・・)
一人、執務室に残ったマンフロイは先ほどのユリウスの態度を思い浮かべていた。
(まだ・・・殿下は完全に心を暗黒神のものとしていないのか・・・我らが宿敵であるナーガの血を引きしユリアや、反乱軍のことについては情けなどというものを持たないのに・・・あの女・・・イシュタルにだけは・・・)
マンフロイはユリウスとイシュタルのことを考えていた。
(あの女に対して特別な感情をもっていることは知っていた・・・だが、それは黒き聖書を持つ前の記憶が残っておるからだと思っていた・・・あの女を情欲の対象としか見ていないと思っていた・・・だが、違ったのか? まさか・・・本当にイシュタルのことを・・・)
その答えは、マンフロイにとって望むものではなかった。
暗黒神の化身たるユリウスが・・・人を・・・
(別に人に興味を持つのは構わん。女性を肉欲のはけ口として使うのも構わないと思っている。だが・・・あの女に愛情を持つなど、考えたこともなかった・・・)
確かに、これまでもユリウスとイシュタルの仲は誰が見ても親密なものだった。
だが、マンフロイにとってその親密さは・・・ユリウスの気まぐれや演技だと思っていた。
・・・それは違ったというのか?
あれは・・・イシュタルと楽しそうに語り合う姿は・・・真実であったというのか?
(そんなことは・・・あってはならない・・・)
マンフロイの拳に力が入っていく・・・
(ユリウス殿下は人を愛してはならないのだ! あの方は暗黒神の化身として、この世界を闇と恐怖によって支配せねばならないのだ! 人を力によって支配せねばならないのだ。それなのに・・・人などを愛してしまっては・・・)
その様な感情など、マンフロイはユリウスに望んではいなかった。
(愛情は、人の心に迷いを生むだけのものだ。 この世界を統べる者になど必要ないものだ。 過去に、どれだけ愛などというものが醜い姿を晒してきたのだ? グランベル王国は、闇の者を排除してきた。それは自分達の世界を守るためだったはず。 だが、あのクルト王子は・・・マイラの子孫、シギュンを愛した・・・結局、その事が、ディアドラを生んだ。そしてディアドラもシグルドへの愛を信じ、自らの禁忌を破り、外界に出て行ったのだ。これほど愚かな事がほかにあるか!? 愛が結局、彼ら・・・闇を否定する人々の信ずべき世界を破壊したのだ。)
確かに・・・マンフロイは策謀を巡らし、今の状況を作り上げた。
しかし、それも、愛情という感情がもたらした皮肉な結果がなければ、達成できなかっただろう。
(愛のような感情は・・・国を滅ぼす源だ・・・そんなものは、ユリウス殿下には必要ではない。いや、そんな感情を持ってはならないのだ!)
それがマンフロイの答えだった。
マンフロイのとって、ユリウスは完璧な存在でなければいけなかった。
来るべきロプト帝国の王として・・・
自分達、暗黒の神を奉ずる者達の希望として・・・
(ついに我らの時代が来るのだ・・・100年以上も迫害され、虐殺され、虐げられてきた我ら闇の神を奉ずる民たちの時代が・・・やっと来るのだ。今まで無念にも死んでいった多くの同胞達のためにも、完璧にして我らが幸せに暮らせる国を作らねばならないのだ。そのためにも・・・ユリウス殿下には完璧な存在になって頂かなければ・・・)
マンフロイの脳裏に、幼き頃の自分・・・死んでいった同胞・・・そして辛い生活の日々が浮かび上がった。
そんな時代に戻させはしない・・・
我らの国を作り上げる・・・
そのことしか、マンフロイの頭の中にはなかった。
(ユリウス殿下がイシュタルに愛情を抱いているのなら・・・それは取り払わなければいけない・・・もってはいけないのだ! ・・・ユリウス殿下には完璧でいて頂く。それが、これからできる国のためなのだ!・・・そのためにも・・・)
まだ、マンフロイの使命は達成されたわけではない。
これからできる国のために、不安要素はすべて取り除く・・・
それが、彼が自らに課せた使命だった。
だから・・・
(・・・ユリウス様の心を乱す存在であるイシュタルには・・・消えてもらう)
彼はそう判断し、即座に行動を開始した。
解放軍から離れ、一人ティニーを救出するために帝国領内に潜入したセティは、ドズルからしばらく離れた村に辿り着いていた。
彼は昨夜この村まで到達し、宿で一夜を過ごしたのだ。
そして今、起床したセティは脇にある机の上に地図を広げて、今後の行動について考えていた。
彼はバーハラに向かおうと考えていた。
そのためにはドズル・フリージと抜けなければならなかった。
だが、解放軍が迫っていることもあり、今は街道筋には帝国兵が関を設けているという。
大変な困難が予想された。
だが、ティニーを助けるためには、避けては通れないと考えていた。
ティニーを・・・助け出す。
それが、彼女を大切な彼女を連れ去られた・・・自分に課した定めだったから。
目指す場所はバーハラ・・・帝国の中枢・・・
(だが・・・どうやってバーハラまで行く?)
街道筋は、警戒が激しいだろう・・・
それら全てをを強行突破できると考えるほど、セティは自惚れてはいなかった。
(と・・・なると・・・)
セティはドズル・フリージ・バーハラの間にある山脈を越えるしかないと考えた。
深き森と険しい山は、軍隊が通り抜けられる場所ではないので、きっと警戒も薄いはずだった。
(そこなら・・・・突破できるかもしれない・・・)
セティはそう考えた。
(確かに・・・危険も多い・・・だが、やるしかない)
本来、セティは冷静で用心深い性格だったが、今回は多少の危険を顧みず行動しようとした。
(ティニーを・・・助けるためなのだから・・・)
もう、何日も会っていない彼女に想いをはせるセティ。
(ティニーは大丈夫だろうか・・・無事なのだろうか・・・)
彼女のことに関する情報を集めようとしたが、なにも手に入らなかった。
安否もなにも分からなかった。
そう・・・生きているかさえも・・・
ブンブン、と顔を振るセティ。
(そんなことは考えてはいけない。きっとティニーは無事だ。生きている。大丈夫だ。)
自分に言い聞かせるセティ。
胸の不安を抑えるように・・
(ティニーを絶対に助け出すんだセティ!・・・お前にとってティニーは大切な女性だろ?宝物なのだろう? 絶対に助け出すんだ!)
セティはここまで決心できる自分に・・・ここまで・・・ティニーを想う事ができることに驚いていた。
(・・・・・・いつからなのだろう・・・ここまでティニーの事を好きになってしまったのは・・・)
セティ自身気づいてはいなかった。
いつからティニーの事を好きになったのか・・・
いつから彼女の顔を眺めている自分がいたのか・・・
(そう言えば・・・こんなこともあったな・・・)
トラキアとの戦いを終わらせ、ミレトスに進撃する前のことだった。
解放軍はしばらくの休養をとっていた。
セティとティニーはトラキア城の郊外に出かけていた。
二人にとってトラキアは訪れたことがない場所であった。
この地は標高も高く、見たこともないような高原植物もたくさんあったのだ。
それを見に行こうとティニーがセティを誘ったのだった。
トラキア城を出てしばらくは、ゴツゴツした岩と渇いた土ばかりだった。
トラキアが生活するには大変な場所である事を思い知らされる二人・・・
でも、しばらく歩いて小高い丘を越えた時だった。
「わぁ〜」
彼らの前に一面の花畑が現れたのであった。
色とりどり花が咲いていた。
「トラキアの高原に・・・これほどの花畑が・・・」
驚くばかりのセティだったが、ティニーはその花畑に向かって走り出した。
「あっ・・・ティニー・・・」
セティもティニーのあとを追って走り出した。
ティニーは花畑の中で座り込んだ。
そして、その花の香りの心地よさを感じていた。
セティも追いついて、ティニーの横に座った。
「セティ様、ほら・・・目をつぶってみてください。とても良い花の香りを楽しむ事ができますよ。」
ティニーは目をつぶって、さわやかに吹いている風と花の香りを感じていた。
だが、セティは目をつぶらずにいた。
そして、ティニーの横顔にただ見とれていた。
風を感じ、花に心寄せるティニーの純真な笑顔に・・・
「・・・讃えよ〜夜明けを〜美しい魂を〜大地のダンスを〜」
「?」
ティニーの口から、突然歌が発せられた。
「感じよ〜勇気を震わす大風を〜」
ティニーの歌う歌は、どこか軽やかで、どこか神秘に似たものに満ちていて・・・
そして、愛に満ちた歌のように聞こえた。
突然のことに驚きはしたが、セティはその歌声に耳を傾けた。
「溢れよ〜大地の父〜天の口づけ〜喜びの雨〜」
花畑に・・・ティニーの歌が響き渡っていた・・・
「この歌は・・・私が小さい頃に、ある人に教えてもらった歌なんです。」
歌が終わった後、ティニーは歌についてセティに話していた。
「その人に歌を教えてもらったのが、こんな花畑だったので・・・思わず歌ってしまいました。」
「そうだったのか・・・とても綺麗な歌声で、とても上手な歌だったよ・・・ティニー」
「そんな・・・私の歌なんて・・・」
セティの言葉にティニーは少し顔を赤らめていた。ちょっと恥ずかしかったのかもしれない。
そんなティニーの可愛い仕草をセティは微笑みながら見ていた。
「・・・ティニー・・・」
「・・・? はい・・・」
セティはティニーを見つめ、笑顔で話し掛けた。
「・・・もう一度、歌ってもらえるかな? さっきのティニーの素晴らしい歌を聴きたいから・・・」
「セティ様・・・はい!」
セティの言葉に、ティニーは喜んだのか・・・再び先ほどの歌を歌い始めた。
笑顔で歌い続けるティニー。
その歌を聴きながら・・・セティはティニーの姿を見続けていた・・・
(ティニー・・・今の君はとっても生き生きしていて・・・とても美しいよ・・・)
(私は・・・絶対ティニーを助ける。あの歌をまた聴くために・・・あの笑顔を取り戻すために・・・)
その決心をした時、宿屋の主人の声が響き渡った。
「お客様! 朝食の準備ができました!」
時を同じくして・・・
ティニーとイシュタルは、朝食をとっていた。
特に、備え付けの食料があったわけではなかったが、イシュタルが僅かに携帯していた干し肉等の保存食や、付近の川で獲ってきた魚などが品目だった。
それを、屋外で火を起こして調理し、食べたのであった。
二人で協力し合いながら・・・食事を作る・・・
イシュタルとティニーはそんな些細なことでも、幸せを感じていた。
もちろん、食事を作る喜びみたいなものもあったのだろうが・・・
なにより、共に暮らしていたあの頃に戻れたような気がしたからだ。
戦いのことも・・・不幸なことも考えず・・・
ただ、笑い合っていられたあの頃に・・・
「どう? 少しは元気が出た?」
「はい、まだ体は少し痛みますが・・・でも、大丈夫です。」
今までの空腹を納め、二人はやっと心落ち着いていた。
今、二人は中庭の草むらに座りながら、話をしていた。
イシュタルはティニーに調子を尋ねた。
「ダメよ、これから山を越えるのだから完全に治しておかないと・・・まだ、無理してはダメ。」
「山を越えるって・・・イシュタルお姉様?」
「・・・・・・」
イシュタルの考えにティニーは問いを投げかけた。
「山を越えるって・・・一体どういうことなんですか?・・・それに・・・ここは?」
考えてみたら・・・ティニーはまだ、自分達がいま、どこにいるか知らないのである。
「今、私達はフリージとバーハラの中間の山脈の森にいるわ。この場所を南に行けばドズルに出れる。そうすれば、シアルフィまで進撃してきた解放軍に出会えるかもしれないわ。」
「解放軍にって・・・解放軍はシアルフィまで来ているのですか? 」
「ええっ・・・」
解放軍・・・シアルフィに進行・・・
彼女はバーハラから脱出して、しばらくしてから出会った旅商人からその報を聞いた。
恐らく、今ごろは既に解放軍はシアルフィを奪取している頃だろう。
その解放軍に・・・ティニーを戻そうと考えているのだ。
「あなたを解放軍に連れて行くわ・・・それが、あなたにとって一番の選択だろうから・・・」
解放軍・・・
そこにはティニーの大切な人々がいた。
「はい・・・私は、皆の所に帰りたいです。 でも・・・」
「・・・でも?」
「・・・・・・」
今度はティニーが口をつぐんでしまった。
(これを・・・聞いても良いの・・・)
それは普通の質問であったが、なぜか聞くのを躊躇わせた。
これを聞いてしまった時、もし自分の望まない答えが返ってきたら・・・
(どうすれば・・・)
「ティニー? どうしたの?」
イシュタルが心配そうにティニーを見つめていた。
「・・・・・・お姉さまは・・・」
ティニーの口が開かれ、彼女が聞くのを躊躇った質問が発せられた。
「・・・イシュタルお姉様は・・・これからどうされるのですか?」
「・・・・・・」
その質問に・・・イシュタルは即答できなかった。
なぜなら彼女も決めていなかったからだ。
自分のこれからのことを・・・
ティニーは怖かった。
そう・・・助けだされ、やっと落ち着いた今だからこそ・・・
改めて、二人の立場を考えてしまったのである。
ティニーは解放軍の戦士である。
彼女は、自らの大切な人たちのため、彼女の誓いのため、解放軍に帰還しなければならなかった。
だが、ティニーにとってもう一人の大切な存在であるイシュタルはどうか・・・
彼女の立場は微妙である。
帝国の司令官で、解放軍と戦ってきた雷神であった。
彼女は解放軍にとって敵なのである。
そして今回、彼女は帝国の意に反する行動を起こしてしまった。
自分のために・・・
帝国からも追われる存在になってしまったのである。
そんなイシュタルが、これからどうするのか・・・
ティニーは心配だったのである。
(本当は・・・私と一緒に解放軍に身を投じて欲しい・・・)
それがティニーの願いである。
仲間たちが拒絶してしまうかもしれないが、その時はティニーがなんとしてでもイシュタルを守り、説得しようと思っている。
でも、それはティニーの願いであって、イシュタルの考えではない。
(イシュタルお姉様は・・・どうするおつもりなのかしら?)
ティニーは一番イシュタルのことを理解している人物であろう。
彼女が何を悩んでいるのか・・・その原因も知っていた。
(・・・あのお方のことよね・・・きっと・・・)
あのお方・・・
それは、あの燃えるような赤い髪を持つ青年のことであろう。
(イシュタルお姉様は・・・ユリウス様を愛している・・・)
イシュタルがユリウスのことを好きなのは、前々から知っていた。
幼き頃・・・バーハラ王宮で知り合った以来・・・
二人が特別な関係になっていることは知っていたからだ。
彼女の悩みは、ユリウスを裏切ってしまったことだろう。
自分を救うためにイシュタルは、ユリウスを裏切った。
そのことはティニーはとても嬉しかった。
しかし、イシュタルにとっては苦渋の選択であったはずだ・・・
そう・・・彼女にとっては・・・
(ユリウス殿下は・・・イシュタルお姉様にとって・・・とても大切な方だから・・・)
イシュタルは彼の愛人である。
彼はイシュタルを大切にしていた。
そして、彼女もユリウスを大事に思っていた。
そんなイシュタルがユリウスと別れたのである。
イシュタルの気持ちは計り知れなかった。
考えたこともなかったのではないだろうか?
自分がこのように、ユリウスと別れることになるとは・・・
(考えてみたら・・・私の存在が・・・二人を引き裂く原因になってしまったのね・・・)
確かに、イシュタルが自分を助けてくれて、ティニーは嬉しかった。
でも、その二人を引き裂く結果をもたらしたのも自分なのだ・・・
少し、複雑な気分がしてしまうティニー。
ティニーとしては、イシュタルが・・・あの恐ろしいユリウスから離れてくれたことは、望んでいたことだった。
だが、やはりそれでも・・・二人が離れたしまったことは、あまり後味が良いものでもなかった。
「私は・・・まだ、決めてはいないわ・・・」
悩むティニーを尻目に、イシュタルは長い沈黙を破り簡単に答えた。
「・・・えっ?」
その答えを聞いたティニーは、素っ頓狂な声を上げた。
「私は・・・まだ、どうするか決めていないの・・・だって、今更解放軍に逃げ込むわけにも行かないし・・・帝国に戻るわけにもいかないから・・・」
少し、寂しそうな顔をするイシュタル。
その儚げな顔はとても美しい・・・と思ってしまうティニーだった。
「・・・お姉様・・・」
ティニーはイシュタルを見つめたまま、何もいえなかった。
しばらく・・・そんな沈黙が続いた・・・
そして・・・
「・・・ごめんなさい・・・」
沈黙を破ったのはティニーだった。
「イシュタルお姉様・・・ごめんなさい・・・私のせいで・・・」
「ティニー?」
ティニーは顔を俯かせ、言葉を続けた。
「私のせいで・・・イシュタルお姉様には辛い思いをさせてしまいました・・・」
自分を助け出す・・・
その事が、どれだけ彼女の立場を追い詰めたのか・・・
そして・・・イシュタルにどれだけ決断を迫ったのか・・・
とても苦悩したの違いないのだから・・・
ティニーは本当にイシュタルにすまないと思っていた。
たとえイシュタルの想う相手がユリウスであったとしても・・・
イシュラルの大事な人と引き剥がしてしまった事実に変わりはないのだから・・・
自分が原因で・・・
「ティニー・・・これは私自身が望んだことなの・・・だから謝らなくていいわ。私にとってティニーはとても大切な存在だから・・・」
「イシュタルお姉様・・・」
イシュタルは笑顔でティニーに語りかける。
どこか・・・作っている表情にも見えた。
「私のことは・・・とりあえず後でまた考えましょう。とりあえず今は、山を越える準備をしないと・・・」
イシュタルはそう提案した。
まるで、会話の内容を変えようとするように・・・
「準備?」
「そう、食料や他にも用意する道具などがたくさんあるわ。私はそれを用意しないと・・・」
「それじゃ・・・私も手伝います。」
「ダメよ。さっきも言ったように、あなたは休んで体を完治させなさい。じゃないと山を越えるのはとても辛くなってしまうはずだから・・・」
ティニーの申し出を断ったイシュタルは、立ち上がった。
「私はここの倉庫に行って、なにか使えるものが残ってないかどうか見てくるわ。あなたはゆっくり休んでいて・・・」
そう言うと、イシュタルは裏手にある倉庫の方に歩き出した。
「イシュタルお姉様・・・ごめんなさい」
その背中を、ティニーは見送るしかなかった。
彼女自身・・・本当はイシュタルを手伝いたかったが、自分の体の痛みが、それを思い止まらせていた。
このまま無理をしたら、それこそいざという時、イシュタルに迷惑をかけてしまうかもしれなかったから・・・
やがて・・・イシュタルは建物の角を曲がり、裏手に消えていった。
「・・・・・・」
そして・・・ゆっくりとティニーも立ち上がった。
そして、もう一度イシュタルが消えた方を見て・・・
(やっぱり・・・イシュタルお姉様は・・・まだ、ユリウス殿下のことを・・・)
イシュタルの気持ちについて考えていた。
またイシュタルもティニーの視界から消えた後・・・
(私は・・・どうしたいの・・・イシュタル?)
自分の思いが分からなくなっていた。
ティニーを守りたい心・・・
これは偽りではない。
だが、心のどこかで、まだわだかまりが残っていることも分かっていた。
(ユリウス・・・様・・・)
ヒルダは二人の行方を捜していた。
四方八方に斥候を走らせ、しきりにバーハラ近辺の住民に情報収集を行っていた。
その結果、二人がドズル方面に逃げているのが分かった。
ヴぇルトマー・フリージ方面は現在、解放軍に対抗するため、軍が頻繁に往来している。
こちらに逃げたとすれば、どこかの軍勢と接触するはずだった。
だが、接触がなかったということは、恐らくドズル方面に逃亡した可能性が高かった。
ドズルに抜ける間には、高き山脈と深き森が広がっているが・・・
あの二人が逃げたとすれば、ここしかなかった。
「直ちに、あの森を探索しな! イシュタルはともかく・・・ティニーは手負いだ。まだあの森を抜け切れていないはずだ。探し出して捕らえるんだ!」
ヒルダは、イシュタル達に対する追撃命令を発した。
そして・・・バーハラから彼女が自ら兵を率いて出撃しようとした時・・・
「ヒルダ殿・・・どこに行かれるのかな?」
城門をくぐっていこうとした彼女を後ろから呼びかける者がいた。
「誰だい!?」
彼女は呼び止めた者に向かって振り返った。
「これはこれは・・・ヒルダ殿・・・お久しぶりですな・・・」
それは、マンフロイだった。
「・・・なんですか?・・・マンフロイ司祭」
男の正体を知ったヒルダは途端に口調を変えた。
なにしろ、その男は現在の帝国において、最大の力をもつ暗黒教団の長なのだから・・・
ヒルダにとって将来的にはどうあれ、今は懇意しておく必要がある相手だった。
「いや・・・ヒルダ殿・・・これからイシュタル王女とティニーを探しにいかれるのですか?」
淡々としながらも、いきなり核心をついてくるマンフロイ。
「・・・・・・」
マンフロイの言葉にヒルダは黙ってしまった。
(なんてこったい・・・)
ヒルダはマンフロイに今回の事を知られたくなかったのである。
ティルテュ・ティニーに引き続き・・・イシュタルまで帝国に造反した事を、この帝国の実力者に知られたくなかったのである。
それが知れ渡れば、フリージ、しいては自分の帝国内での立場が悪くなるのである。
「ほほほっ・・・イシュタル殿の気まぐれにも困ったものですな・・・」
「・・・今回のことはフリージの中の問題・・・我々の手で解決させますので、ご安心を・・・」
ヒルダとしては、今回の不祥事は内々に処理したかった。
あまり、自分の傷口を大きくしないためにも・・・
だが、マンフロイは・・・
「いや・・・ヒルダ殿には他の役目がありましょう・・・イシュタル殿の探索は我々が行います。」
イシュタル探索を自分達が行うと言ってきた。
「私に・・・別の役目?」
「左様・・・反乱軍の攻撃に備えて頂く。あなたはフリージの女王だ。イシュタル殿が率いていたゲルプリッターを指揮してフリージの守護をしていただく。」
「フリージの守護?その必要はないのでは?既に反乱軍の処置はドズル・エッダの両軍に任せてあるのでは?」
「確かにその通り・・・だが、もしもの時のこともある。ドズルが抜かれれば次に反乱軍の標的になるのはフリージであり、そこも抜かれたら今度は帝都バーハラを直撃させられることになる。まさか、ドズルのブリアン公子が敗れるとは思わないが・・・もしもの時のことを考えておかねばならぬ・・・その時のことに備えて、ヒルダ殿にはフリージに待機しておいてもらう・・・その代わりイシュタルは我々が探します故・・・」
マンフロイはヒルダを外し、自分でイシュタルを探したかった。
その訳は・・・
「しかし・・・これはフリージの中のこと・・・我々が解決すべきことなのでは・・・」
「ヒルダ殿・・・お気持ちは分かりますが、ことは帝国全体の問題・・・今は、我々の指示に従って欲しいですな。」
「・・・・・・」
(くそっ!)
ヒルダは何もいえなかった。
マンフロイの言うことがもっともだったこともあったが、何より自分の娘が帝国を裏切ったとなれば、何も言える筈がなかった。
ヒルダはマンフロイの思惑を誤解していた。
マンフロイはイシュタルの身柄の確保し、ヒルダに対する政治的優位を確保するためだと・・・
そうヒルダは考えていた。
「安心しなされ・・・イシュタル殿はユリウス殿下の大事なお方・・・ちゃんと連れ帰ってきましょう・・・」
「・・・分かりました・・・」
ヒルダとしては、今この男に口ごたえしても無駄だということが分かった。
この男は、行けと命令しているのだから・・・
「私はフリージに行き、ことに備えましょう。だが、イシュタルは必ず連れ戻してください」
ヒルダにとって、イシュタルが失うことだけはあってはならないことだった。
彼女をユリウスの妃にする・・・
それがヒルダの構想なのだから・・・
「分かっています。イシュタル殿のことはお任せを・・・」
マンフロイはヒルダに対して形通りの事を言った。
「では・・・頼みました・・・」
ヒルダはあまり釈然としないながらも、フリージに行き先を変更してバーハラを立った。
ヒルダの後姿を見ながら、マンフロイは呟いた。
「・・・連れ帰りますが・・・生きたままではないでしょうな・・・」
「もう・・・寝ましょうか・・・」
日も沈み、闇が深くなっていた。
色々な準備を終えたイシュタルがティニーの休む部屋に戻ってきた。
倉庫の埃の中に今までいた為か、所々彼女の顔や体は汚れていた。
「ごめんさい・・・すべてお姉さまに任してしまって・・・」
ティニーは今までベットに入って休んでいた。
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「だから、今のあなたに必要なことは休むことなの・・・ゆっくり休まなければ治る傷も治らないわ・・・それじゃこれからが困るのだから・・・」
「はい・・・」
ティニーを諭したイシュタルは、ティニーにある質問をした。
彼女の反応は分かっていたが・・・
「一緒に・・・寝ていい?」
その言葉にティニーは顔を赤くした。
「えっ!?・・・あっ・・・あの・・・その・・・」
ティニー混乱中・・・
ティニーはその言葉で、昨日の事を再び思い出していたのだ。
イシュタルとの甘いひとときの事を・・・
そんなティニーを落ち着かせるイシュタル。
「安心して・・・今日は昨日のような事はしないから・・・明日のためにゆっくり休まないと・・・」
明日は山越えである。
ここで体力を使うわけにはいかなかったのである。
(それに・・・ティニーの大事な人にも悪いからね・・・)
「はい・・・分かりました」
イシュタルはベットにあがり、ティニーの横に寝転んだ。
そんなイシュタルの姿を見ながらティニーは思う・・・
(お姉様って・・・以外と寂しがり屋なのかな?)
イシュタルが人の温もり、肌の感触を欲しているように見えたのだった。
(寂しかったのかな・・・ずっと・・・)
イシュタルがティニーたちと離れてから・・・
心許せる相手は少なかったのではないか?
本当はこうやって誰かと一緒にいたかったのではないか?
誰もが、雷神と言って恐れているけど・・・
その実は、繊細で優しい女性なのだ。
(人が・・・恋しいのかな・・・?)
驚きだった。
イシュタルにこういう顔もあったなんて・・・
これだけ長く一緒にいた自分にも、知らないことがあることにティニーは驚いていた。
(私・・・もっとイシュタルお姉さまの色々な顔を見てみたい・・・戦いが終わったら・・・平和になったら・・・もっとたくさん知る事ができるのかな・・・)
イシュタルの顔は暗闇でよく見えなかったが、ティニーはずっとイシュタルを見つめ続けた。
彼女はイシュタルとこれからも一緒にいれることを望んだ・・・
これから来るであろう平和な世界を、イシュタルや自分の大切な人たちと共に歩んでいきたかった・・・
(イシュタルお姉様や・・・セティ様・・・それに他のみんなと笑って暮らせたら・・・本当に幸せなのに・・・)
ティニーは自分の幸せについて考えながら、しずかに眠りに落ちていった・・・
しかし、ティニーは知らなかった。
これから起こる悲劇について・・・
そしてイシュタルとの別れが、すぐそこまできていることに・・・