あなたの名は・・・ 第八章

 

 

「ふぁああ〜! ・・・眠い・・・」
次の日の朝・・・
フィーはドズル城の廊下を歩いていた。
その手には、パンやサラダ・ソーセージに牛乳といったものが乗ったトレイがあった。
フィーはティニーに朝食を運んであげようとしていたのだ。
(ティニー・・・ずっと意識がなかったから、何も食べていなかったものね・・・たくさん食べて、元気つけてもらわないと・・・)
そう思いながら、再び大きなあくびをする。
(まったく・・・アーサーを追い掛け回していたら・・・夜中になっちゃったものね。)
昨夜の記憶が蘇ってくる・・・
(あのままアーサーを追いかけて・・・アーサーの部屋まで追いかけていって・・・それから・・・それから・・・)
途端にフィーの顔が赤くなった。
「ああんっ! もう! 」
彼女は一人、廊下の真ん中で地団駄を踏んだ。
(悔しい! 私を抱きしめて一気にベットに押し倒すんだもん! それで結局・・・してしまったじゃない!)
二人は昨夜、一夜を共にしたのであった。
既に二人は初体験を済ませていた。
そのため、これが最初の経験ということではなかった。

(まったく・・・ああなっちゃうと、アーサーって止まらないんだから)
不思議なことに二人はお互いの愛を確かめ合った後でも、あまり関係が変わった風には見えなかった。
表面上はいまだに、喧嘩友達のように見える。
あるいは、これが二人の関係というものかもしれない。
相棒であり、親友あり、恋人である・・・
そんな曖昧な関係かもしれなかった。

「・・・受け入れちゃう私も私だけど・・・」

そして、ついさっきまで彼の部屋で一緒だったのだ。
まだ、彼女は目覚めた時、まだアーサーは隣で寝ていた。
彼女は一人起きて、ティニーに食事を届けようとしていたのだ。

彼女はティニーの部屋の前まできた。
ノックし、呼びかける。
「ティニー、おはよう! 入るわよ。」
彼女は中からの返事がないまま、入室した。
ティニーがまだ、休んでいると思ったから・・・
中に入ってから、せめて返事をまってから入室した方が良かったと後悔した。
返事がきてもどうなったものでもないが・・・

「ティニー・・・おはよう、ってまだ寝てるの?」
ドアから入室し、ベットで寝ている彼女に声をかける。
しかし、昨日のベットとは明らかに違うところがあった。
なにかが、フィーのとなりに寄り添って寝ているように見えるのだ。
(?)
フィーはベットに近づいて、その正体を確かめようと布団の中を覗き込んだ。

「!?・・・あ、ああ・・・」
フィーはあまりの事実に開いた口が閉まらなかった。
なぜなら、ティニーとセティが互いに向き合いながら眠っていたからだ。
しかも見るところによると、二人は裸で一枚の毛布で共にしていた。

(なんで!?お兄ちゃんとティニーが一緒にベットで寝ているのよ!)
あまりの光景に、フィーはこれ以上ないほど混乱した。
が・・・
「・・・愚問か・・・」
すぐに、この目前の光景の説明を考えついた。
(まったく・・・なんて言っていいのやら・・・)


しばらくフィーが立ち尽くしていると、セティがモゾモゾと動き出した。
大きく口を開けてあくびをし、彼は目をうっすらと開けた。
「・・・ティニー・・・」
セティは眼を開けたすぐ前に、もっとも大切な少女の寝顔があることに、安心をしているようだった。
(良かった・・・ティニーがいてくれている・・・)
昨夜の事が、愛を確かめ合った昨夜の事が幻ではなかったことにセティは安堵した。
そして、この愛する少女と共に朝を迎えられることに、幸せを感じていた。

しばらくしてから、ティニーも目覚めた。
眠気眼のため、最初はセティの顔は良く見えていなかったが、それでも少しずつ最愛の男の顔が浮かび上がってくるごとに、ティニーの優しく美しい顔に笑みが浮かんできた。
自分の手をティニーの頬に添えて、しばしその感触を楽しんでみるセティ。 

「おはよう・・・ティニー・・・」
「おはようございます・・・セティ様・・・」

二人は互いに向き合いながら、朝の挨拶を交わした。
二人とも昨日の愛の営みが鮮明に脳裏に残っているのか、顔は真っ赤になっていった。
だが、この気だるく、体を包む温かさにどこか満足感を感じていた。

(私の前にティニーがいてくれている・・・大切なティニーが・・・)
(セティ様と共に朝を迎える事ができた。・・・とても嬉しい・・・)

二人には回りは見えていなかった・・・大切な人の顔しか・・・
どちらからともなく、二人は顔を近づけていった。
愛を確かめ合うために・・・

「・・・コホンッ!」
あまりの息苦しさに、思わずフィーは咳払いをした。
思わず、体をビク!!と震わすベット上の二人。
(やっと気づいたの?・・・まったく・・・)
あまりに幸せに感覚まで鈍っていた二人に、フィーは苦笑いするしかなかった。

二人は上半身を起き上がらせる。
そして、はじめてフィーの姿を確認したのであった。
「フィー!!」「あっ・・・フィー・・・」
二人はそれぞれの方法で驚きを表した。

フィーは頭を掻きながら、そっぽを向く。
なぜなら・・・
「二人とも・・・驚く前に服を着てよ・・・」
その言葉は二人をさらに混乱の坩堝に叩き込んだ。
二人は自分達が裸身をフィーに晒している事をはじめて知った。
「うわあっ!」
「きゃ!」
大混乱に陥った二人。
(まったく・・・ボケるにもほどがあるわよ。)
二人があたふたと服を着ていく姿をフィーは苦笑しながら見つめていた。



「まあ、二人とも子供じゃないんだし・・・別に関係を持つ事は良いんだけどさ・・・」
二人は着替えて、ベットに並んで腰をかけていた。
その前に立ち、二人に説教のような口ぶりで、フィーは言葉を続けていた。
「でもさ・・・お兄ちゃん! ティニーは一応病み上がりなのよ!それなのに、目覚めた後に、そのままベットインする!? 信じられない!」
声を荒げるフィーに、セティとティニーは小さくなっていた。
申し訳なさそうに俯きながら、フィーのお説教を聞かされていた。
とくにセティは顔面が真っ赤になっていた。
実の妹に醜態を見せてしまい、よほど恥ずかしいのだろう。
ティニーも大事な親友に、その兄との情事を知られて顔を赤くしていた。
(なに二人して顔を赤くしているのよ。まったく・・・本当に初心なんだから・・・)
二人の様子をみながら、フィーは内心微笑んでいた。
この二人の純さが微笑ましかったからである。
もちろんこれだけ奥手な二人が結ばれたことが、どこか信じられないという思いもあるのだろが・・・
それでも自分の大切な人々が結ばれたことに、彼女は大きな喜びを感じていた。

「まあ、今回は二人を発見したのが私でよかったわよ。これがアーサーだったら、どんなに恐ろしいことになることやら・・・」
「・・・フィー・・・怖い事を言わないでくれ」
フィーがボソッと言ったことは、セティの背筋を寒くした。
別に彼自身はいかがわしい事をしたつもりはないが、それでも、ティニーを目に入れても痛くないと思っているアーサーのこと・・・
どんな怒りを発するか分からなかった。

フィーも自分の言ったことに自身で身震いしていた。
アーサーがこの場にいたらどうなるのか?


(セティ!!この野郎・・・大事な妹を!!!)
全身に怒りという名のオーラを発生させ、二人の前に鬼神の如く聳え立つアーサー。
(俺の妹に手を出すとは・・・いい度胸じゃないか・・・・あ〜?)
目には赤い炎がスパークし、右手に剣を、左手に炎の魔法を発生させ、二人に大股で接近していく・・・
(待ってくれ!アーサー・・・話を聞いてくれ!)
(お兄様!早まらないで!!)
二人の声もア―サーには届かない。
(問答無用!お仕置きだあああああぁぁぁぁぁっ!!!)

チュド〜〜〜〜ン!!



「・・・怖いわね・・・」
うんうんと一人で頷くフィー。
「なにを想像してるんだ?フィー?」
フィーの仕草にセティの頭に?マークが点灯した。
「いやね。本当にこの場にアーサーがきたら、どんな惨劇が展開されるのかを想像しちゃってね・・・」
「・・・・・・」
青ざめるセティとフィーを見ながら・・・
「大丈夫よ。あいつはまだ自分の部屋で寝ているみたいだから・・・だから、そんなに怯えなくたって平気よ・・・」
「・・・ふう・・・」
セティもティニーも安堵したみたいだった。
「何、二人とも安心しちゃってるよ・・・あはは!」
フィーは声を上げて笑っていたが・・・

「・・・なんだ・・・これは・・・」
ビクン!!
突然、部屋にある声が響き、中の3人は思わず震えてしまった。
後ろを振り向くと・・・
「・・・アーサー・・・」
「お兄様!?」
話題の当人が現れた。

悠然とドアの前に現れたアーサーの表情は、言葉では言い尽くせぬほどの怒りに満ちていた。
アーサー自身は、昨日の夜・・・セティにティニーを託した。
しかし、たった一夜でここまで関係が進行してしまうことは予想外だった。
フィーにしてもアーサーにしても、二人の奥手さは承知していた・・・つもりだったのだが・・・
まさか、たった一夜で・・・
「これは・・・どういうことなんだ・・・?」
拳に力を入れ、フルフルと怒りに震えていた・・・
「あのね、アーサー・・・これには深い訳が・・・」
フィーがすぐに二人の前にカバーに入ったが、すでにアーサーはヒートし始めていた。
「セティ・・・お前とうとう・・・」
目に何かが切れたスパークが走った。

「お仕置きだあああああぁぁぁぁぁ!!!」

アーサーはセティたちに飛び掛っていった!

「まて!セティ!!」
「お兄様!!これには・・・」
「アーサー!やめなさいって・・・」
「問答無用だ!!」

朝からドズル城の一室で大喧嘩が起きてしまっていた。
収拾には、しばらく時間がかかったという・・・






一方、もう一人の少女は・・・

(・・・鳥が飛んでいく・・・もうそろそろ春なのね・・・)
一人、窓から春の到来を告げる小鳥たちが元気に飛んでいくのを見つめていた。

バーハラ王宮にあるユリウスの自室のベランダは、あの思い出の庭園に見渡せる位置に張り出していた。
ユリウスと一夜を共にしたイシュタルは、ユリウスのベットの上で一人で目を覚ました。
ふと、周りを見渡してみたが、そこにはユリウスの姿は見えなかった。
あの優しい素顔に戻ったユリウスの顔が・・・
そして彼女は一人、ユリウスの部屋で外を見つめていたのだ。
別にドアや窓には鍵がかかっているわけではなく、外に出て行こうと思えば出て行く事ができるはずだった。
だが、彼女はなぜか外に出て行く気になれなかった。
今は一人になりたいという気持ちが強かった。

(本当に嬉しかった・・・私はユリウス様と心から愛し合うことができた・・・昔の頃に心を戻ることができた。)
昨夜のユリウスと結ばれた時の事を思い出す。
ユリウスはあの時の・・・初めて出会った頃の心に戻ってくれた。
自分が全てを投げ出してユリウスに身を捧げた時、ユリウスは確かに優しいユリウスに戻ってくれた。
最初はイシュタルを信じる事ができず、彼女を闇の心に任せて陵辱したユリウスだったかが、最後には互いに思い合う事ができた。
本当に幸せだった・・・
このまま時が止まってくれれば良いと思っていた・・・

(でも・・・変わっていない・・・なにも・・・)
そう・・・なにも変わってはいないのだ。
たとえユリウスの心が前に戻ったとしても、ユリウスに優しさが戻ってきたとしても・・・
彼がロプトウスの化身であることに変わりはないのだ。
ユリウスはいまだ暗い闇の中に囚われたままなのだ。
彼が開放されたわけではなかった。

(ユリウス様の心が昔の輝きを取り戻したとしても・・・ユリウス様が解放された訳じゃない・・・)
イシュタルは悲しかった。
ユリウスの事もそうであるが、なにより自分がユリウスに想いを寄せても・・・ユリウスと愛し合っても、なにも変える事ができなかったのだ。
自分の想いは遂げられたとしても、それは自分だけの事。
ユリウスを救うことには繋がらなかったのだ。
(結局・・・私はなにもできない・・・ただ、ユリウス様の事が好きなだけ。それだけしか私にはできない・・・なにも変える力はない・・・本当に無力・・・・)
思わず涙ぐんでしまう。
自分の気持ちも、ユリウスの気持ちも真実なのに・・・
自分達は素直に喜ぶ事ができない。
相手と素直に愛し合うことができない。
自分達の間には壁がある・・・越えられない壁が・・・

(あの方を救いたい・・・救いたいけど・・・どうすればいいの? 私では・・・救えないの?)


その時、ドアが開かれて、入室してきた人物がいた。
誰であろう、ユリウスであった・
「?・・・起きたのかい、イシュタル・・・」
彼は窓を見つめていたイシュタルに話し掛けた。
「ユリウス様・・・」
イシュタルはユリウスを振り返った。
とても優しい笑顔を浮かべているユリウスがいた。
(昨夜と同じ・・・優しい笑顔だ・・・)
その笑顔が一夜明けた後も残っていたことが、イシュタルは嬉しかった。

「イシュタル・・・」
ユリウスの顔が僅かに赤くなっていた。
なぜなら、ユリウスはイシュタルの顔を見て恥ずかしくなっていたからだ。
昨夜の情事の事を思い出していた。
いや、昨夜のことだけではない。
今まで自分がイシュタルにした事を思い出していた。
彼女を襲ったこと・・・彼女を力で従わせたこと・・・
そして、彼女を信じられなかった事を・・・

(そう・・・分かっていたんだ)
自分が愚かだった事は分かっていた。
自分のしている事が詮無き事だと頭の中では分かっていたのだ。
でも、彼女に愛される自信がなくて・・・
彼女の事が大好きだけど、愛し合える自信がなくて・・・
だから、暴走する気持ちが止められなくなってしまって・・・
君に愛を・・・気持ちを伝える方法が分からなくて・・・
だから・・・あれほど酷い事をしまった。


しばらく、沈黙の時が続いた。
その静寂を破ったのはユリウスの方だった。
「すまない・・・イシュタル・・・」
謝罪の言葉を出したユリウス。
なぜ、ユリウスがその言葉を出したのか、イシュタルにはなんとなく分かった。
そして、その言葉に込められた想いを、イシュタルは理解していた、いや感じていた。

「ユリウス様・・・」
イシュタルは黙ってユリウスに近づいていった。
そして彼の手を取り、指を絡めた。
「イシュタル・・・」
ユリウスの顔にイシュタルの顔が急接近してくる。
ドクン、ドクンと心臓が高まってくる。
(イシュタルの顔って・・・こんなに綺麗なんだ・・・)
いつも見慣れているし、昨夜の情事の時にもたくさん見たイシュタルの美しい顔。
胸が高鳴っていく・・・

「ユリウス様・・・もう、いいんです。」
ユリウスの手をとる力が強くなる。
「イシュタル・・・?」
「私・・・今、とても幸せですから・・・ユリウス様に愛されて・・・心から愛されて・・・本当に嬉しかったのです。だって、ユリウス様の笑顔が・・・ユリウス様の愛が・・・私にとっては一番の幸せなのですから・・・」

(僕は・・・こんなに健気なイシュタルを・・・汚そうと・・・貶めようとしたのか・・・)
イシュタルの愛が大きければ大きいほど、ユリウスの胸が押し潰されそうになる。
(僕は・・・馬鹿だ・・・)

ユリウスはイシュタルをしっかりと抱き締めた。
「えっ?・・・ユリウス・・・様?」
ユリウスの赤い髪がイシュタルに掛かる。
(こんなに・・・僕の事を愛してくれるイシュタルの・・・大好きなイシュタルの気持ちに・・・応えてあげなかったなんて・・・)
自分の行為を恥っていたが、それでもユリウスは・・・
(でも・・・僕は君の事が好きなんだ・・・この気持ちに嘘はない・・・)
彼女を愛する気持ちをイシュタルに伝えたかった。
イシュタルを抱き締める力が強くなる。

(い、痛いです・・・ユリウス様・・・でも・・・)
強い力で抱き締められることにイシュタルは痛みを覚えていた。
(・・・でも、嫌じゃない・・・心地いい・・・)
が、今の彼女にはその痛みですら、温かみをもって受け入れられた。
ユリウスの気持ちが肌を通って伝ってくるような感覚だった。
今、二人は本当に心が通い合っていた。
例え、いまだ彼の心に闇がとりついていたとしても・・・
それだけは・・・愛は本当だったのだから。



二人はその後、大広間で朝食を取ることにした。
ユリウスはともかく、イシュタルはしばらくの間、まったく食事をとっていなかったので、その空腹は尋常なものではなかった。
まあ、意識を回復させた途端に、ユリウスとの行為の及んでしまった事が一番の原因だが・・・
二人は共に食事を取ることにした。
イシュタル離反の報を聞いていた近侍の者達は、ユリウスがイシュタルと共に現れたことに驚いたが、それでもユリウスと一緒にいるということは、彼が許しているという事なので、あえて口に出して訊ねるまでもないと考えていた。

二人は大きなテーブルの両端に座り、運ばれてきた食事を次々と食べていった。
空腹感に苛まれていたイシュタルは、空腹を制圧するために少し慌てながら食べているようにユリウスには見えた。
(やはり・・・イシュタルも空腹になると、この様に食事に集中して、周りが見えなくなってしまうのか・・・)
食事を食べていかねばならない以上、当然の事なのだが、ユリウスにとってイシュタルのこの姿に違和感を覚えていた。
(ふふっ・・・食事を慌てて食べるイシュタルの姿も・・・茶目っ気があって可愛いな・・・)
イシュタルのあまり見ない姿にユリウスは微笑む。

そして食事が終了し、二人は一息ついていた・・・
運ばれてきた紅茶を二人は楽しんでいた。
そして、イシュタルは先ほどから思っていた小さな疑問をユリウスに尋ねた。
「ところでユリウス様、一つよろしいでしょうか?」
「なんだい?イシュタル・・・」
ユリウスは口につけていたカップを静かに置いた。
「先ほど・・・私が目を覚ました時、ユリウス様のお姿が見えませんでしたけど・・・どこに行かれていたのですか?」
イシュタルにとって、それは何気ない質問であった。
だが、その質問をユリウスにした時、彼の顔は醜く歪んだ。

(・・・えっ?)
先ほどまでの優しいユリウスの顔が一瞬にして消え去ったことに、イシュタルは戸惑った。
「ああ、あの時のことか・・・」
ぞっとした感覚がイシュタルの耳から全身に広がっていく。
それほどユリウスの声は冷たく、悪魔的な響きがあった。
「実は、前線から報告があってね。ドズルの反乱軍が進撃を開始するらしいとの情報があるんだ。その報告を受けていたんだよ。」
「反乱軍が・・・?」
反乱軍と聞いて、一瞬ティニーの顔が浮かんだ。
彼女は今、解放軍の仲間達の元にいるはずだ。
「そうだ。反乱軍は勢いに乗って、このバーハラを目指してくるらしい・・・ふふっ、馬鹿な奴等だ。ドズルを破ったぐらいで、我が帝都を陥れようとするなんて思い上がりもいいことなのにな・・・くくくっ・・・」
「ユリウス・・・さま・・・」
ユリウスのあまりに冷たい笑いが、イシュタルの心に影を落とす。
いや、笑いだけではない。
表情も口調も目つきも・・・全てが先ほどまでのユリウスとは違い、何もかもか冷たさと不敵さに満ちていた。
(そう・・・今までの・・・ロプトウスの化身としてのユリウス様の姿だ・・・)

「だから、命令を下してきたよ。フリージにいるヒルダにね。直ちに雷騎士団ゲルプリッターを率いて反乱軍を撃破せよ・・・ってね。ヒルダも何か焦っているみたいだから、必死になって反乱軍を叩きにいくだろうな。くくっ・・・僕にとってはどちらが勝とうが僕には関係がないけどね。ヒルダが勝てばそれでよし。反乱軍がヒルダを突破し、ここまできたら僕自ら反乱軍を皆殺しにするだけだよ。」
(!?)
あまりの冷たい響きにイシュタルの背筋が凍りついた。
ゾクゾクした悪寒が体の中を通り過ぎる。
先ほどの柔和で優しげな笑顔は消え、暗黒神ロプトウスとしてのユリウスがそこにいた。

ユリウスの言葉と姿を見て、イシュタルは思い知らされた。
(やはり・・・ユリウス様はロプトウスに心を囚われたままなのね・・・)

先ほど、自分に向けられた優しさ、愛を感じた時、イシュタルは僅かな希望を抱いていた。
もしかしたら、彼からロプトウスが離れたかもしれない・・・と、淡い希望を抱いていた。
でも、やはりユリウスは・・・

しかし、ユリウスの顔が、再び、柔らかいものになった。
「まあ、せっかく再びイシュタルとこうして一緒にお茶を飲めるようになったんだ。今はそんなつまらない話はしたくないな・・・」
「・・・?」
「イシュタル・・・今日は久しぶりなんだから、色々話そうよ。一緒に散歩でもしながらさ。」
まるで人格が180度変わったかのような錯覚さえ覚えさせた。
あまりに豹変に、イシュタルはなにも分からずに首を立てに振った。
「よし、じゃあ後で一緒に行こうね。」
ユリウスは再びティーカップを啜った。
それをイシュタルは見つめていた。

(ユリウス様は・・・私と話をしている時だけ・・・優しくなるというの?)
ユリウスの二重人格者のような変わり振りを見れば、そう思うしかなかった。
イシュタルの表情が暗く沈んだ。

(嬉しいです・・・ユリウス様・・・でも、悲しい・・・そんなの悲しいです・・・)

ユリウスが自分と話してくれる時だけ優しくなってくれる・・・
それはイシュタルにとって嬉しいことだった。
だが、その事実は、逆に自分の前でしかユリウスは優しさを取り戻せない事を意味していた。
ユリウスの本当の優しさを、本当の姿を知っているイシュタルには、それは辛いことだった。
やはり、ユリウスの心は闇に閉ざされたままなのだろうか・・・

(私に優しくしてくださるのは嬉しい。でも、ユリウス様はやはり・・・ロプトウスから離れられないんだ・・・)

イシュタルは、ユリウスには本当の姿でいて欲しかった。
自分の知っているユリウスで・・・
自分が愛したユリウスで・・・






解放軍はドズル城を発した。
バーハラに向かって進撃を再開したのである。
ドズルとバーハラとの距離は、地図の上はそれほど離れてはいない。
だが、その合間には切だった崖と山脈があり、軍隊での通過は不可能だった。
ドズルからバーハラに向かうには東に大きく迂回し、フリージを経由して向かうしかなかった。

解放軍はバーハラに向かうためにフリージに向け軍を進撃させ始めた。
全軍というわけではなかった。
ハンニバルの重装歩兵はドズル攻略の直後、シアルフィへ転進していた。
これはユングヴィに対する備えのためである。

当初、解放軍はドズル・エッダだけではなく、東のユングヴィもシアルフィ攻撃に参加すると推測していた。
だが、実際に攻撃をかけてきた中にはユングヴィ軍は含まれておらず、いまだ健在である。
そのためシアルフィと隣接するユングヴィには脅威が存在することなので、ハンニバルの隊はその備えのためにシアルフィに残留することになったのである。

解放軍の戦列にはティニーが復帰した。
仲間達はティニーに休養を勧めたが、本人はフリージ攻撃に参加するといって聞かなかった。
セティと片時も離れたくないということもあるだろうし、次の敵はなんとしても自分の手で討ち取りたいと心に決めていたからだ。
なぜなら、これから向かうフリージを守備しているのはヒルダだったからである。
母を死に追いやり、そして自分を貶めたヒルダをティニーはなんとしても自分の手で倒したかったのである。
解放軍の実情としても魔法戦力が帝国に比べて数量的に不利であったために、有数の魔道士であるティニーの復帰により戦力が飛躍的に向上した事は疑いようもなかった。
もちろん、彼女の傍にはセティが常に付き添っていた。

帝国の攻勢に耐え切った解放軍は、ついに帝国の中枢に向けて進み始めたのである。





「解放軍がドズルを発った様だね・・・」
斥候から解放軍の出撃の報を聞いたヒルダは思わず笑みを浮かべた。
「あはは!罠にかかったな!反乱軍め!」
ヒルダは解放軍が自らの練った策にはまった事を悟り、声をあげて笑った。

彼女の練った作戦は解放軍を挟み撃ちにするということであった。
現在、彼女の率いるゲルプリッターはフリージ城の南にある山脈に挟まれた地点に展開をしていた。
この地点は地形の関係から幅が狭いために、敵を防ぎとめるには格好の場所であった。
ヒルダ率いるゲルプリッターはここで進撃してくる解放軍を迎え撃つことにしたのである。
地形とゲルプリッターの力をもってすれば、いくら解放軍といえども簡単には突破できるはずではなかったからである。
そして攻めあぐねる解放軍の後方から伏兵が奇襲をかけるのである。
その伏兵とはユングヴィの誇る弓騎士団バイゲリッターであった。
本来、解放軍のシアルフィに対して睨みを利かせる存在であるユングヴィの戦力を解放軍主力の撃破のために転用しようとするのだ。
ユングヴィからフリージへ向かうには広い森があり、迅速な行動は不可能に近かったが、それでもバイゲリッターはあらかじめ出撃をしており、前線参加までそれほどの時が掛かる事はないはずであった。
解放軍がゲルプリッターに引き寄せられているうちに、後方からバイゲリッターで襲い掛かり解放軍を包囲殲滅する・・・
これがヒルダの立てた作戦であった。

「解放軍はドズルのグラオリッターを挟み撃ちで打ち破ったようだが・・・今度ははこっちが奴等を挟み撃ちにしてやる。ユングヴィのバイゲリッターと協力して反乱軍を包囲して、一人残らず皆殺しにするんだ!」
ヒルダの檄が飛ぶ。
その檄にゲルプリッターの兵士たちは震え上がった。

ヒルダは今回の戦いをどうしても勝利しなければならないと考えていた。
フリージ家が拝領した北トラキアを失陥し、またティニーやイシュタルという裏切り者を輩出してしまったため、フリージ家の威信が落ちてしまっていると考えていたのだ。
特にイシュタルの事はショックを受けた様子で、ユリウスの嫁がせる計画が水泡に帰したどころか、自分の地位すら危ういと思っていたのだ。
そのため、この戦いでなんとしても功を上げ、保身に苦心しなければならないと考えていたのだ。
(なんとしても反乱軍をあたしの手で討たねばならない。このままでは帝国内でのあたしの立場がなくなるからね。幸いドズルが敗れてくれたおかげで、一番の邪魔者が消えたばかりか、反乱軍を通してくれてあたしに奴等を倒す機会を与えてくれたんだ。感謝しないとね・・・)
解放軍迎撃の準備をしながら、ヒルダはほくそえんでいた。
(反乱軍を撃破したとなれば今までの失点を回復できるばかりか、今まで以上の地位を手にいれる事ができるはずだ。ユングヴィのスコピオとの共同戦線である以上、功績もある程度分け合わなくてはならないが、それでもセリスの首を我々の手で挙げれば、この反乱鎮圧の第一人者として誇る事ができる。ユングヴィの奴らに功を誇らせることもなくなるだろう。そうすればフリージが、いやあたしが帝国の実力者として君臨することもできるだろう)
ヒルダは今回の危機を逆用すれば、再び自分が権勢を取り戻せると考えていた。
彼女は自分の保身のことのみ考えながら、いそいそと準備に励んでいた。



解放軍はさしたる抵抗を受けないまま進撃を続けた。
アレスを中心とする騎兵が先鋒を受け持ち、その後方にはセリス率いる本隊・・・
後衛はリーフ率いる北トラキアの混成軍が受け持っていた。
さらにフィーやアルテナの飛行部隊が上空を周回し、哨戒を行っていた。

そして、フリージ城へ続く道の峡谷に差し掛かった頃に、前方にフリージ軍が展開しているとの情報がフィーからもたらされた。
敵は山間の狭い地域に塞ぐように、重装魔道歩兵を横隊隊形で展開しており、これを突破するには中央突破しかないと思われた。
セリスはあまり力押しになるような作戦を嫌ってはいたが、それでもここを突破しなければバーハラに到達できない以上、他に選択肢がないと考えた。
「力押しになるけど・・・仕方がない。一気に突撃をかけ、前面の敵を突破するんだ!」
セリスの判断に、解放軍は突撃体勢をとった。
事態はヒルダの思惑通りに進もうとしていた。


「よし!反乱軍は我々の罠に掛かったぞ!いいかい!!徹底して守りに徹するんだ。しばらくすれば奴らの後方からバイゲリッターが襲い掛かる。そうしたら反撃に移り、敵を撃破するんだ!」
ヒルダは守りに徹することを諸隊に伝えた。


現在のゲルプリッターは過去最大の戦力を誇っていた2年前と比べ、戦力は半減していた。
かつてのゲルプリッターは大きく分けて二つの軍団に分けられていた。
一つは騎乗した魔道騎士を中心とした魔道騎兵軍。
もう一つは重装魔道歩兵を中心とした装甲魔道兵団であった。
グランベル王国時代から、その勇名を轟かせていたゲルプリッターはこの二つの軍団を上手く使いこなすことによって幾多の戦いを勝ち抜いてきた。
機動力の高い騎兵軍が魔法を放ちながら敵に打撃を与えつつ撹乱させ、敵が乱れた後に圧倒的な攻撃力と防御力を誇る装甲魔道兵団が押し潰すように粉砕する。
これがゲルプリッターの真骨頂であり、高い錬度と統率された動きができる彼らにしかできない芸当だった。
その力でイザーク遠征、及びアグストリア征討で多大なる戦火を上げたのであった。
そしてドズルのグラオリッター、ユングヴィのバイゲリッターとともに帝国の武力の中枢として君臨していた。

だが、魔道騎兵軍はグラン暦776年のから起こった北トラキアの動乱に投入され、その戦力を消耗していき、ついに解放軍のトラキア大河渡河作戦で彼らと激突し副司令官ラインハルトとともに全滅したのであった。
そのため現在、残存しているゲルプリッターは装甲魔道兵団だけである。
本来の戦力ではなかったが、だが今回の戦いは敵を防ぎ止めての戦いに徹しればいいので、重装歩兵の長所である防御力が発揮できるはずであった。



解放軍の前衛部隊が横に並ぶゲルプリッターに向かって突撃を仕掛けた。
騎兵が埃を立てながら突き進んでいく。
しかし、ゲルプリッターは電撃魔法トロンを一斉に放った。
数十本の電撃の束が解放軍に向かっていく・・・
「うわああ!!」
「ぎゃあああぁぁぁぁ!」
数人の騎士が電撃の直撃を受け、黒焦げになった。
あまりの威力に騎士達の先頭にいたアレスは思わずうろたえた。
彼自身は魔剣ミストルティンの魔力もあり、さしたる傷は受けていなかったが、周囲の騎士たちはそうはいかなかった。
高位の電撃魔法の直撃を受けては、ひとたまりもないだろう。
だが、止まる訳にはいかなかった。
動きを止めたら、逆にゲルプリッターに狙い撃ちされてしまうからだ。
解放軍の騎兵はゲルプリッターに向かって行った。
しかし、近づけば近づくほど魔法の雨は激しさを増していった。
横3列に並んだゲルプリッターから次々と放たれる魔法は、まさに電撃の壁であり、突破は困難のように思われた。
解放軍としては騎兵隊の突撃によって敵の隊列に穴を開け、そこから解放軍最強といわれるシャナン率いるイザークの剣士隊を突入させたいところであった
しかし、騎兵隊が敵の魔法に阻まれている以上、突入は困難だった。
セリスは一旦、騎兵部隊を後退させた。
代わりに、解放軍の弓兵及び魔道士の部隊を前面に押し出した。
矢と魔法による攻撃で遠距離から敵の防御陣を削ろうとした。
だが、セティやアーサー、ティニーというトップクラスの魔道士や、ファバルやレスターといった弓の聖戦士ウルの血を戦士たちもいるが、なにぶん間接攻撃ができる兵士の絶対数が不足しているため、まともな撃ち合いでは勝負にならなかった。
しかも、彼らは装甲魔道歩兵である。
高い防御力を誇る全身鎧に身を包んだ歩兵を一撃で倒す事は難しく、逆に敵の反撃で倒される弓兵や魔道士も続出した。

あまりの電撃魔法の数に解放軍は押し戻され始める。
「このままでは・・・我々は突破できません!」
前線から本陣に帰還したオイフェがセリスに現在の状況を報告した。
セリスの周りにはレヴィンやリーフたちといったメンバーが控えていた。

その報告を受けるまでもなく、本陣から解放軍の不利は見て取れた。
「セリス様!このままいけば我々は無駄に戦力を消耗するだけです!」
リ―フがセリスに意見する。
もちろんセリスにもその事は分かっていた。
だが、セリスは別の不安を感じ始めていた。
(戦況は我々には圧倒的に不利・・・それなのに敵はどうして攻勢に転じないんだ?)
ゲルプリッターは敵を防ぐだけで、一向に動こうとはしなかった。
これがセリスの感じていた不安の起点だった。
確かに敵が用心深いという見方もできるだろう。
しかし、いくら守りに徹しているとは言え、このままなら敵が勝利を得られる訳ではないのだ。
いくらか前進を開始しても良い筈だった。
それとも・・・このまま守りに徹していれば、敵が有利になる状況が生まれるというのか?

(・・・・・・まさか・・・!?)
突如、セリスの脳裏にある仮説が浮かんだ。
「オイフェ!フィーに連絡して、ここからユングヴィへ続く森の偵察を行わせてくれ。だが、できるだけ慎重に、高度をとりながら・・・そして弓を警戒してと・・・」
「セリス様・・・それはつまり!?・・・分かりました。早速・・・」
セリスの考えが分かったのだろう、オイフェは早速フィーに伝えるべく、馬を走らせた。
「セリス様!一体どういう・・・」
傍らにいたリーフはセリスに説明を求めた。
「・・・我々は、ユングヴィの戦力をシアルフィの牽制のために展開しているものだと思っていたけど。だが、もし今、我々の後方の森から長躯して抜けてきたユングヴィ軍が襲い掛かってきたら・・・」
セリスの言葉に、周りにいた者達の顔が青くなった。
ユングヴィ軍のバイゲリッターは弓騎兵によって構成された弓騎士団である。
そのバイゲリッターが深い森を進行してくるとは考えなかった。
だから、彼らの役割が至るまでの道が平地であるシアルフィへの備えであると思ったのであるが・・・
もし、バイゲリッターが無理を押して森を抜けてきたら自分達は挟み撃ちにされる。
その危険性にセリスは気づいたのであった。

そして、しばらくしてから、その危険が現実のものだという事が知らされた。
偵察を終えたフィーがセリスの元に来て・・・
「セリス様! 南の森をバイゲリッターが突き進んできます。あと少しで森を抜ける位置まで進撃してきています!」
その報を伝えた。
セリスを始めとする本陣の仲間達は戦慄した。
彼らは自分達が挟み撃ちを受けつつある事を知ったからだ。
「セリス様!急いでユングヴィ軍に対する備えを!部隊を南に展開させ彼らを防ぐのです。」
オイフェはそう言ったが、セリスは首を横に振った。
「既に敵がすぐそこまできている以上、満足な防御陣を形成するのは不可能だよ。それに私たちには前面と後方で敵を防げるほどの戦力はない。フリージ軍も攻勢に打って出るだろうし・・・」
セリスはそう言いながら、なんとか打開策を考えようとしていた。
(敵はゲルプリッターとバイゲリッター・・・装甲魔道兵団と弓騎士団・・・機動力には雲泥の違いがある・・・あと、彼らは別々の軍であって、指揮系統は一本化されていない・・・そのあたりに活路を見出せないかな?)
セリスは敵の特性・構成につけ込む隙を考えていた。

(・・・危険だけど・・・やってみるしかないかな・・・)
セリスは打開策を考え付いた。

「みんな! 一旦、ドズル方面に向かって撤退するんだ!」
セリスの言葉に皆は驚愕した。
「撤退ですか?どういうことですか?」
リーフが皆を代表して意図を尋ねた。
「ドズル方面に向かって撤退する。そして敵に追撃をさせるんだ。そうすれば敵の機動力に違いよって、徐々にだが隊列が延びていくはずだ。そうして敵の隊列が伸びきったところで反撃に移って、先行してくるであろうバイゲリッターをまず撃破してから、続いてくるゲルプリッターと相対する。これしかない!」
敵の機動力の違いを利用して、セリスは敵を各個撃破しようというのだ。
「ですが、場合によっては、敵は合流してから歩調を合わせて我々を追い詰めてくる可能性があるのでは?」
オイフェの問いにセリスは答えた。
「だからこそ、我々が挟み撃ちを受けた瞬間に後退を開始するんだ。挟み撃ちを全軍で受けるわけにはいかないから、これから順次に部隊を後退させて行く。そして最終的には殿軍が囮と残るんだ。そして殿軍は挟み撃ちを受けた瞬間に戦いながら後退していくんだ。これなら敵は合流するか、しないかの判断の前に追撃に移らなくてはならないだろう。それに彼らは味方同士ではあるが、それぞれ別の指揮官の判断で動いている。彼らが合流して対応を協議させる暇を与えなければ・・・挟み撃ちが成功して我々が壊走を始めたと思わせれば、絶対にそのまま追撃を開始してくるはずだ。」
危機を逆用してのセリスの作戦・・・
解放軍のメンバーたちは他に方法はないように思われた。
現状の戦況では、どちらにしても一旦後退するしかないと考えていた。
「しかし・・・囮部隊にはかなりの危険が伴います。一つ間違えたら敵に包囲され殲滅されてしまうでしょう。」
オイフェの意見にセリスは頷いた。
「その通りだ。囮部隊はかなり危険な立場に置かれるだろう。だから、この役目は発案した私が引き受ける。私が囮になって敵を誘導するから・・・」
セリスの突拍子もない言葉に皆は驚き、反対した。
一番に声を荒げたのはオイフェだった。
「ダメです!セリス様は解放軍の盟主であり、総大将です! そのセリス様が自ら囮になって敵の手に掛かったらどうするのです!」
だが、セリスも引かない。
「私は一人危険な役目を負わないわけにはいかない!私は確かにみんなを指揮することになっているけど、私はみんなを対等な仲間と思っている・・・ だから、私一人が安全な場所にいるわけにはいかないんだ。」
セリスにしても、この危険な状況で退く気にはなれなかった。
しかし、その問答がエスカレートしようかという時に、リーフが前に出てきた。
「囮の役目・・・私が引き受けます」
セリスはリーフを見返した。
「リーフ王子が?」
「はい。恐らく私が適任でしょう。恥ずかしいことですが、今まで私は自分の力が足らぬばかりに多くの敗戦を喫してきました。その過程で撤退戦や後退戦を多く経験しました。敵の追撃を受けながら後退を続けることに対して、私ほど経験している者はいないでしょう。微力ながら私に今回の役目をお任せ頂きたいのです。今までの苦い経験を活用させてください!」
リーフは今まで多くの逆境を経験してきた。
幼少期の逃避行。
帝国に囚われたこと。そして牢獄からの脱出。
解放軍を組織してからの圧倒的な帝国軍との死闘。
そしてレンスター解放の直後からのアルスターからの撤退戦とレンスター城での篭城戦。
彼はセリスの解放軍に合流するまで辛い戦いを経験してきたのだ。
セリスは彼の逆境を聞いたときに、自分が彼に比べていかに平穏な日々を送ってきたのかと、胸を痛めた。
そして自分以上に辛い戦いを生き抜いてきた彼の力を、セリスは誰よりも評価していた。
聖戦士の直系ではないため聖武器は使えないが、それでも戦士としての実力はそれに匹敵するほど成長していたし、人を率いて戦う力は自分など遠く及ばないと考えていた。
彼になら、この困難な役目を任せられるとセリスは思った。
彼なら生きてこの役目をやり通すと・・・
「分かりました。では、リーフ王子・・・あなたにこの危険な役目をお願いできますか?」
「もちろん、喜んで! ナンナ!フィン!グレイド!セルフィナ!フェルグス!オルエン!アマルダ! 私に続け!」
リーフは指揮下の部隊長たちを連れ、出撃しようと騎乗した。
「リーフ王子!必ず・・・無事で!」
「はい!必ず役目を果たし、また会いましょう!」
セリスに応えたリーフは馬を駆け出した。
ナンナやフィン達もそれに続いていく。

「リーフ王子・・・」
彼を見送った後、セリスは振り返った。
「一旦、ドズル方面に転進する!順次、部隊を離脱させよ!」
その檄に伝令が各部隊に向かって走っていった。



解放軍はゲルプリッタ―に対する攻撃をリーフ率いる北トラキア軍に切り替えた。
それまで攻撃を仕掛けていた解放軍各部隊は順次、戦線から離脱をしていった。
ゲルプリッターがこの動きを知れば、反撃に移ってきたことだろう。
リーフはこの動きを察知されないために、自分の部隊を左右に広く展開させて敵の視界を奪う壁となり、その後ろを離脱する部隊を通らせて、敵に動きを知られることもなく離脱を成功させていった。
リーフは更に自分達が挟み撃ちを受けて離脱を行うときの事を考えて、配下の部隊の配置にも気を使った。
左右に長く展開したリーフの部隊のうち、もっとも敵に挟み込まれる可能性が高かったのはドズル方面とは反対に伸びた左翼の部隊だった。
リーフは左翼に歴戦の騎士たちを配置し、中央や右翼には比較的経験の浅い騎士たちを配置した。
これなら経験の薄い兵たちを先に離脱させる事ができ、敵に囲まれる可能性が高い部署では熟練の騎士たちを多く配備したので、敵に囲まれる前に突破できる可能性が高かった。
この状態でリーフは敵との挟撃を脱するつもりだった。


そしてついにその時がきた。
森を突破してきたユングヴィのバイゲリッターがリーフ達の背後に現れ、弓を射掛けてきたのだ。
背後に強大な敵が出現したのをリーフは注意を向けていたので瞬時に察知する事ができた。
「敵の援軍だ!引け!ただちにドズル方面に向かって撤退せよ!」
リーフは敵にも聞こえるような大きな声で叫んだ。
その声に前面のゲルプリッターが前進を開始した。
バイゲリッターの来援を悟り、全面攻勢に出てきたのだ。

前後の敵が突撃を仕掛けられて、北トラキア軍は瞬時に包囲され、壊滅するはずであった。
だが、あらかじめこの事態を予想して瞬時にだしたリーフの指示と、各部隊長の指揮により北トラキア軍は敵の間をすり抜けるように駆け抜けていった。
最左翼に展開していたフィンの部隊が一瞬、敵に包囲されそうになったが、それでもフィンの槍と援護に回ったリーフのおかげで敵を突破できた。

北トラキア軍は脱兎のことくドズル方面に向かって駆けて行った。
その様子をヒルダ、そしてバイゲリッターの司令官でユングヴィ家の当主であるスコピオには、敵が挟み撃ちを受けて敗走を始めたと見えた。
両騎士団はこの機に一気に解放軍を撃滅すべく、全力で追撃を開始した。
だが、徒歩でその身を重鎧で固めた装甲兵と、騎乗した弓騎士では機動力に雲泥の違いがあった。
瞬く間にゲルプリッターを突き放し、バイゲリッターが先行して行った。

北トラキア軍は敵をある程度まで誘き出す必要があった。
だが、それまでには先行してきたバイゲリッターの追撃を凌ぎ切らねばならなかった。

弓騎士団バイゲリッターは弓騎兵によって構成された騎士団だった。
騎乗して弓を放つという技術は非常に高度なものであり、それを全員が行う事ができるバイゲリッターは間違いなく大陸内でも屈指の精鋭と言える集団だった。
弓術と馬術の修練した彼らの実力は折り紙つきのものだった。
その恐るべき力を持った騎士団が後方から弓を射掛けてくるのだ。
次々と射られ、傷ついていく北トラキア軍の騎士たち。
(ふふふっ・・・このまま反乱軍を追い詰めて、殲滅してやる!)
スコピオは必死になって反乱軍を追撃した。
今までドズル・フリージ両家に遅れをとっていたユングヴィ家にとって、今回の戦いは一気に勢力を伸ばすチャンスだと考えていた。
彼もヒルダと同じように今回の戦いでなんとしても功を上げたかったのである。
そのため、猛烈な追撃を仕掛けてきていた。

北トラキア軍は一方的な攻撃に晒されたが、ナンナを中心とするトルバドール部隊が高速で回復魔法を放ちながら前線を駆け回っていたため、損害をかなり抑えていた。
リーフにしても敵に隙が見えたら反転して逆撃を加え、また離脱するという戦法を繰り返していたため、バイゲリッターも少なからず損害を受けていた。
小ざかしい敵の戦法にスコピオの頭に血が上り、周りが段々と見えなくなっていった。
そのため彼には目の前の敵しか映らなくなっていた。
目の前の敵だけを追い、後ろに続くゲルプリッターも、警戒も気にしなくなっていった。

先行するバイゲリッターとゲルプリッターとの距離がかなり離れてしまった。
バイゲリッターに先を越されたヒルダは舌打ちをしたが、ふと気づいてしまった。
自分達とバイゲリッターとの間が離れてしまったことに・・・
つまり、分断されつつあるということに・・・
(先ほどから怪しいとは思っていたんだ!あまりに脆く崩れたのはそのためか!)
「これは罠だ!ただちにスコピオに伝えよ!一旦、停止して合流せよと!」
急いで、騎乗した伝令がバイゲリッターに追いつこうと走っていった。
だが、バイゲリッターの速さは尋常ではなく、なかなか伝令との距離は縮まらなかった。

決して、スコピオは無能な男ではなかった。
学にも武にも優れ、バイゲリッターの指揮官としても申し分のない才幹を持っている男だった。
だが、彼には経験が決定的に不足していた。
今までに彼が経験した戦いといえば、地方の反乱鎮圧ぐらいなものであった。
一級の指揮官に統率された軍との対戦などの経験はまったくなかった。
そのため彼には、敗走をする敵の姿と敗走に見せかけて後退して行く敵の姿の見分けがつかなかった。
リーフは幼き頃より修羅場を潜り抜けてきた男であった。
スコピオとリーフの間には、経験という名の実力の差が大きく広がっていたのだ。
リーフに誘導され、スコピオはゲルプリッターと切り離されてしまった。

そして彼らがドズル城西方にある森の南方をリーフ達を追って通過しようとしたときだった。
追撃を続けるバイゲリッターの右手の空にいくつもの点が出現した。
フィーやアルテナを中心とする飛行部隊だった。
自分達がもっとも得意とする相手が現れたことにバイゲリッターの心は躍った。
「やつら・・・苦し紛れに無謀にも飛行騎士たちを繰り出してきたぞ!なんと愚かな・・・」
弓騎士たちは新たに現れたカモに弓の狙いを定めた。
圧倒的に有利な戦いを繰りひろげられる敵の方に注意が向くのは仕方がないことだろう。
そして彼らの注意が右手の敵に向いた時だった。


グワアアアアア――――――・・・スガ―――――――ン!!!
スゴゴゴゴッッ・・・ズガガガガアァァァン!!!
シュゥゥゥゥ・・・ビリビリビリビリビリ・・・!!!

風が、炎が、雷が・・・突如、バイゲリッターの中で炸裂した。
圧倒的な力を持つ魔力の渦が収束し、弾ける様に周囲のものを吹き飛ばす。
「何!?魔法だと・・・どこからだ!?」
スコピオが突如、魔法攻撃を受けた事を知った。
魔法は左手の森の中から放たれたものだった。
セティのフォルセティ、アーサーのボルガノン、ティニーのトロンによる攻撃だった。
彼らは現れた飛行部隊に眼を奪われ、森の中にいた伏兵の存在に気づかなかったのだ。

更に魔法の一斉攻撃が放たれた。
魔法攻撃の第二撃が炸裂し、バイゲリッターは大混乱に陥った。
解放軍の誇る魔道士の攻撃を受けたのだから仕方がないだろう。
さらに、レスターやファバルを中心とした弓兵部隊も相手に矢を射掛け始めた。
魔法と弓の攻撃を受け、バイゲリッターの混乱は更に増した。
そして混乱した瞬間をセリスとリーフは見逃さなかった。
「全軍!森から討って出ろ!一気に敵軍に突入する!」
「良し!みんな!反撃に移る。私に続け!」
二人がその命令を出した時間の差は5秒もなかっただろう。

先行して後退し、森に身を潜めていたセリス率いる解放軍本隊が森から飛び出し、バイゲリッターに襲い掛かり、敵を誘い込んだリーフの部隊も総反撃に移った。
「近づけさせるな!防御せよ!」
混乱した中でも指令が飛び交い、バイゲリッターは解放軍に向かって矢を向けた。
しかし、すでにアレス、デルムッドなどがバイゲリッターの中に踊り込み、接近戦に持ち込んでいた。
さらに、ラクチェやスカサハの剣士たちも激戦の渦中に入っていった。
弓騎士団である彼らにとって接近戦はもっとも不利な戦いであり、次々と切り倒されていった。
さらに、数瞬遅れて反転したリーフたちも突入を開始して、バイゲリッターを薙ぎ払っていった。
戦いは解放軍の圧倒的に有利な状況で進んでいた。

「くっ・・・あれではもうダメだ!」
ヒルダは遠く前方で繰り広げられている戦いを見ながら呟いた。
既に敵に突入を許している以上、バイゲリッターは長くは持たないだろう。
ゲルプリッターが追いつく前に彼らは殲滅され、自分達も各個撃破されるだけだろう。
このまま、自分達も簡単に撃破されるわけにはいかなかった。
「全軍!横隊を引け!敵が接近してきたら、先ほどと同じように電撃魔法の雨を降らせるんだ!」
ゲルプリッターはその場で停止し、防御体制を取った。
つまり、バイゲリッターを見捨てたのであった。


「体勢を立て直せ!混乱するな!」
スコピオは必死にバイゲリッターを統制しようとしたが、すでに後の祭りだった。
敵軍が深くまで進入していたバイゲリッターは脆くも壊走を始めてしまっていた。
「引くな!戦え!」
「そこにいるのは・・・ユングヴィのスコピオか?」
大声を上げているスコピオの前に一人の弓騎士が現れた。
「なんだ・・・お前は?」
青髪の弓騎士は毅然と言い放った。
「私はレスター・・・エーディンの息子だ。」
「なに?あのエーディン伯母上の!?」
レスターの母エーディンは先の戦いで、シグルドに味方したユングヴィの公女で、スコピオの父アンドレイの姉であった。
彼らは従兄弟同士だった。
そして、スコピオにとっては自分の家を裏切った叔母の息子であり、レスターにとっては聖戦士の血を引きながら帝国に組みし、残虐な行為に手を貸す聖戦士ウルの名を貶める男であった。
「そうか・・・お前があの裏切り者の息子か・・・ならば、ちょうどいい、ここで死んでもらおう。」
スコピオは馬を蹴り、レスターに向かって行った。
「ふっ・・・それは私がいうセリフだな」
レスターもスコピオに向かって突撃していった。

互いに全力で相手に向かいながら弓を構える。
二人とも弓の聖戦士の血を引きし戦士なので、その腕前は並みの弓騎士とは比較にならなかった。
まわりでは敵味方入り乱れる戦いが起きていたが、二人の目にはその光景は入ってはいなかった。
ただ、自分に向かってくる従兄弟の存在しか映っていなかった。
相手と正対し、弓を引き絞る・・・
そして・・・
ヒュン!
二人は同時に矢を放った。

「ぐはっ!」
レスターの肩口をスコピオの放った矢が射抜いた。
鮮血が激しく飛び散り、馬上でうずくまるレスター。
だが、彼と正対したスコピオはレスターの矢を額に受け、既に落馬していた。

「レスター!大丈夫?」「大丈夫か!?レスター!」
傷ついたレスターの元に同じく従兄弟で仲間のパティとファバルの兄妹が近づいてきた。
二人の母はレスターの母とは姉妹であったのだ。
「大丈夫だよ。これぐらいの傷・・・いてて!」
「やせ我慢するんじゃないの! ほら、馬から降りて・・・」
パティが手を貸し、馬からレスターを降ろす。
「まったく・・・良い所をレスターに取られてしまったぜ!あいつは俺の手で倒そうと思っていたのにさ・・・」
ファバルが聖弓イチイバルを掲げながらレスターに言った。
彼の立場はレスターと同じであったため、自分の手でスコピオを倒したい気持ちがあったのだ。
レスターにその役を取られて悔しい気持ちもあったのだろう。
「ま、今回はお前に手柄を譲って・・・」
「いてええぇぇぇ!!」
「こら!我慢しなさいよ。男でしょう!」
ファバルの言葉が耳の中に入っていないのか・・・
手当てを受けていたレスターは痛みに悲鳴を上げていた。
それを押さえつけ、傷口に薬を塗りこませるパティ。
「もうちょっと手加減できないのか?パティ・・・」
「うるさい!もう少しで終わるから・・・」
「まったく・・・少しは優しくしろって・・・」
「この戦いが終わったら優しくしてあげるわよ。あたしの特製料理を作ってあげるからさ」
「おうっ!期待しているぜ!」
戦場のど真ん中で恋人会話を交わしているレスターとパティにファバルの怒りが爆発した。
「お前ら!真面目にやれ!!」


スコピオを失ったことにより、バイゲリッターは全面壊走を始めた。
自分達が攻め上がった道を敗走していくバイゲリッターたち。
その様子をアレスは冷静に見ていた。
バイゲリッターの撤退していく先にはゲルプリッターが既に先ほどと同じように横隊を展開させているのが見えた。
アレスはその様子を見て・・・
「このまま一気にバイゲリッターを追撃しながら、ゲルプリッターに斬り込むぞ!」
「えっ?なにを・・・」
アレスの発言にデルムッドは驚きの声を上げた。
「まだ、随所で戦いが起きていて、我々も体勢がバラバラです。この状態で追撃を開始したら、我々は孤立してしまう可能性があります。まずは一旦停止して陣列を整えるべきかと・・・」
「それでは遅すぎるんだ!」
デルムッドの慎重論をアレスは否定した。
「ゲルプリッターの威力はお前もさっき見ただろう?やつらに正面から突撃を仕掛けても、電撃魔法の壁に薙ぎ倒されるだけだ。だが、撤退していくバイゲリッターに混じって近づいていけば、やつらも攻撃ができないはずだ。そして一気に距離を稼いで、敵陣に突撃を仕掛けるんだ。やつらの陣形さえ崩せば、あとは他の味方がなんとかしてくれるはずだ。」
「でも、まだセリス様にも連絡が取れないこの状況では・・・」
「お前の言いたい事は分かっている。セリスと連絡がとれない以上、勝手に動くのは独断行動だ。だが、今しかチャンスはないんだ!責任は俺が取る!」
アレスはこの機会を逃したら、ゲルプリッターとの戦いが長期化し、苦しい戦いになると考えていた。
戦いが長期化すれば、被害も多くなる・・・敵にも体勢を立て直すの機会を与えてしまう。
だから、そうなる前に、自分が命令違反を冒してでも、短気決戦に持ち込みたかったのだ。
「分かりました。私もお付き合いします。」
デルムッドもアレス一人に罪を冒させる訳にはいかないと考え、彼に同調することにした。
「すまない・・・デルムッド・・・」
「なにを仰います!私達は従兄弟同士ではありませんか!力を合わせましょう!」



「各隊!備えを整えました。」
「よし!近づいてくる敵には容赦なくトロンを浴びせてやれ!一兵たりとも通すな!」
バイゲリッターの敗北に備えていたゲルプリッターは完全な防御陣を完成させていた。
横3列に並んだ重装魔道歩兵が印を組み、いつでも魔法を放てる準備をしていた。
そのゲルプリッターの前に退却してきたバイゲリッターが近づいてきた。
「ヒルダ様!バイゲリッターが退却してきます。」
兵の報告に後方に控えていたヒルダは、思わず悩んだが・・・
「見殺しにはできないね・・・直ちに道を作り、後方に下がらせよ!」
ヒルダの指示にゲルプリッターの一部が左右に分かれ、道を作った。
だが、バイゲリッターのすぐ後方にはアレスやデルムッドの騎兵隊が追撃を仕掛けてきていた。
「しまった!バイゲリッターについて、一気に接近するつもりか!?ただちに攻撃を仕掛けよ!」
「ダメです!バイゲリッターが壁になって攻撃できません!」
バイゲリッターのすぐ後ろに喰らいついていた解放軍は、一気にゲルプリッターに近づく事ができた。
彼らは、ヒルダがバイゲリッターの後退のために作った道から、ゲルプリッターの陣中に突撃を仕掛けた。
突撃した解放軍騎兵にゲルプリッターは至近距離から電撃魔法を放ったため、数人の騎士が瞬時に黒焦げになった。
それでもアレス達は剣を振るい、ゲルプリッターの陣を突き崩していった。

「セリス様!あれを!?」
オイフェがセリスにゲルプリッターの方角を指差して言った
「!?・・・アレス達がバイゲリッターに並行追撃を行って、そのままゲルプリッターに斬り込んだんだ。」
「しかし・・・独断先行し過ぎでは?」
「自分の判断で好機と見て、行動に移ったのだろう。とにかく、あのままではアレスたちが危険だ。全軍、ゲルプリッターに向かって突撃せよ!この機に一気にゲルプリッターを撃破する!」
解放軍の兵士達も連戦に疲労が溜まっていたが、それでも気力を振り絞って、ゲルプリッターに向かって行った。

アレス達は激戦の末、ゲルプリッターの隊列に大きな穴を開けた。
その穴に殺到していく解放軍。
かなりの電撃魔法に被害も続出したが、それでも構わず敵陣に突入していった。
乱戦になるとゲルプリッターも思うように戦えなくなってしまっていた。
敵の攻撃を防ぐための重鎧も、乱戦では機敏な動きを妨げるものになってしまう。
集団戦の時には圧倒的な威力を発揮した装甲魔道兵団も、素早い動きを見せる解放軍の剣士や騎兵の前に、重い体で満足に動けないまま討ち取られていった。
特に、スカサハ、ラクチェの剣士兄妹の活躍は凄まじく、スカサハの月光剣が重鎧を物ともせず相手を一刀で切り裂き、ラクチェの流星剣の十回連続攻撃が相手の体をズタズタにしていった。
また、先ほどは示威行動のみだった飛行部隊も参戦し、空から急降下攻撃を仕掛け、孤立した敵を討ち取っていった。
軽快な機動力と乱戦時でも的確な連携を見せる解放軍の攻撃の前に、ゲルプリッターの陣は解体していく・・・


「お前たち!うろたえるんじゃないよ!相討ちになってでも相手を倒すんだ!」
ヒルダの檄もむなしく、敗走を始めたゲルプリッターを止める事はできなかった。
その様子を、ヒルダはある意味冷静に見ていた。
(終わったな・・・全て・・・)
ヒルダは自分の運命が全て終わった事を悟っていた。
彼女の地位も名誉も輝かしいはずであった未来も、急速の音を立てて崩れていくのを感じていた。
何度も失敗を重ね、再び、権勢を取り戻すべく挑んだ戦いに敗れつつあったのだ。
たとえ、今自分が生き残っても、もうなにもできはしないだろう。
自分には、もうなにも力は残っていないのだから・・・
(・・・ならば、ここで死んでやる!だが、一人では死なないよ!一人でも多くの者を殺し、あたいが地獄に行くお供にしてやる!)
ヒルダの顔に笑みが浮かんだ。
もともと戦いの恐れない勇敢な女性であるヒルダにとって、戦場で死ぬということに、昂揚感を覚えていた。
自分に迫ってくる解放軍の兵士を見ながら・・・
「さあ、掛かってきな!雑魚どもめ!近づいてくる奴から、順に灰にしてやるよ!」
彼女は魔力を解放し、その周りを炎が渦を巻き始める。
彼女は炎の聖戦士ファラの血を引く者で、炎の高位魔法ボルガノンの使い手だった。

近づいてくる解放軍の兵士にボルガノンを放つヒルダ。
彼女を取り囲んでいた炎が地中に潜り、地響きを立てながら敵に向かっていた。
・・・ドガガガガガガガ!!
兵士たちの中心で、地中を進んでいた炎が炸裂した。
地中で炸裂した炎は地表へと姿を現し、まるで火山爆発を起こしたかのようにそれを吐き出した。
数百度に達する炎の直撃を受け、数人の兵士が炭化した。
思わず足を止めてしまった兵士たちに、ヒルダは第二撃を放った。
さらに数人の体が炎に包まれ、炎が消えた後に残っていたのは、数秒前まで人間であった黒い塊だった。
解放軍の戦士たちはヒルダに近づくのを止めた。
その様子を見て、ヒルダは大声を上げて笑った。
「どうしたんだい?臆したのか?はっはっはっ!お前たちのような雑魚どもがいくら来ようと、あたしは倒せないよ。とっとと逃げて、ベットの中で震えてな!」
ヒルダの不敵な発言と姿に解放軍は動けなかった。
解放軍の前に立ちはだかるヒルダの姿は、まさに鬼神といえる風格があったからだ。
一介の兵士や騎士が対抗できる相手ではなかった。

立ち尽くす兵士たちを分けて、3人の男女が前にできてきた。
ティニー、セティ、アーサーだった。
「ヒルダ・・・伯母様・・・」
ティニーがヒルダの前に恐る恐るだが出てきた。
彼女にとってヒルダは恐怖の代名詞だったが、それでも母の仇であり、自分を貶めた存在であるヒルダを自分の手で倒したいという想いのために前に出てきたのだ。
ティニーの姿を敵の中に見つけた時、ヒルダは心底嬉しそうだった。
「おやおや・・・ティニーかい?なんだ、まだ生きていたのか?てっきり、ベルクローゼンに殺されたかと思ったよ。」
「はい、イシュタルお姉様に助けていただきましたから・・・」
「なるほどね・・・で、イシュタルはどうしたんだい?一緒なのかい?」
「いえ、一緒に逃げている途中で・・・はぐれてしまって・・・」
二人は、イシュタルがユリウスの元にいる事を知らなかった。

「そうかい・・・じゃ、ベルクローゼンに殺されたのかも知れないんだね。まったく・・・馬鹿な娘だ、イシュタルも・・・せっかく、ユリウス殿下の妻にする予定だったのにね・・・」
その言葉にティニーの血が頭に上った。
「!!・・・あなたは!自分の実の娘すら自己の保身の道具と考えているのですか!?どうして?どうして、あなたはそこまで権力という物に拘るのですか?」
ティニ―にはヒルダという人間の事が分からなかった。
自分の娘すら物に扱うヒルダの事が分からなかった。
いや、イシュタルのことだけではない。
フリージ家を裏切った自分の姉ティルテュのことも、そして自分のこと・・・
自分の権道を邪魔した者に対する徹底的な憎悪。
なぜ、そこまで権力という物にこだわるのか・・・

だが、ヒルダは鼻でティニーを笑った。
「馬鹿かい、お前は!? 我々のような公爵家や王家といったところに生まれた人間にとって自分が権力を持っていなければ、自分の家はおろか自分の身一つも守れないんだよ!
あたしたちの様な人間は、血生臭い闘争とは縁を切る事はできないんだ。なにもしなくても、存在するだけで誰かに担ぎ出されたり、利用されたりするんだ。その時に備えてなにが悪い!?おまえやイシュタルも、そんな世界に生まれてきてしまった以上、その世界の色に染まって生きていくしか・・・畜生道に落ちるしかないんだ。それがあたい達の定めというやつさ・・・」
「ふざけないで!私達は王家や公家の人間である前に一人の人間です!たとえ、どの様な状況に置かれたとしても、私達は一人の人間として扱って欲しいのです!どうしてその気持ちを・・・あなたは知ろうとはしないのですか!?」
「そう生きることすら、望む事ができないんだよ!!さあ!・・・おしゃべりはここまでだ・・・掛かって来な!」
ヒルダはティニーを挑発した
(そんなもののために・・・人である事を止めるなんて・・・)
ティニーはヒルダを倒そうと前に出た。
だが、身構えたティニーの前に手を出す者がいた。
兄のアーサーであった。
「ティニー・・・ここは俺に任せてくれ。」
アーサーは騎乗し、ヒルダを向かい打とうとした。
「お兄様!そんな・・・ヒルダは私に討たせて下さい!」
だが、アーサーは首を横に振った。
「ティニー・・・俺たちにとってあの女は母の仇だ。だが、同族でもあるんだ。あの女を殺すことによって、身内殺しと世間に言われるようになるだろう。そんなありがたくもない事を言われるのは俺だけでたくさんだよ。ティニーの手まで汚す事は無いよ・・・」
今までの多くの戦いで、多くの仲間が自らの決着をつけるために、敵となった同族を討ち取っていった・・・
だが、同時にそれは同族殺しの汚名を受けることでもあった。
その汚名をアーサーは大事な妹に被って欲しくなかったのだ。
「・・・お前にはできるだけ綺麗な手でいて欲しいからな・・・それにお前にもしもの事があったら、セティに申し訳がないよ。」
そして今度はセティを振り返り・・・
「セティ!もしヒルダが俺を突破してティニーに迫ったら・・・必ず妹を守ってやってくれよ・・・」
妹をセティに託した。
アーサーの決意に満ちた表情にセティはただ首を縦に振るしかなかった。

「アーサー!」
アーサーがヒルダに駆け出そうとした時、フィーが降下してアーサーに呼び掛けた。
「おっ!フィーか?」
アーサーの口調は大敵を前にした時でも一向に変わっていなかった。
「アーサー・・・大丈夫なの?あんなに強い敵を相手にして・・・」
「なんだよ・・・フィーが心配してくれるのか?らしくないじゃないか?」
相変わらずの口調に、フィーは本当に少し怒った。
「なによ!心配しているんじゃない!アーサーの事が心配なだけなのに・・・」
顔を赤らめ、そして目に涙を浮かべながら言った。
(フィー・・・近頃、涙脆くなったよな・・・)
「安心してくれよ・・・俺は死なないよ。絶対に・・・大切なフィーを残して逝くものか!」
「あ、アーサー!?」
皆の前でそのような事を言われて、フィーは顔が真っ赤になった。
(フィーって・・・本当に顔が真っ赤になるよな・・・怒っている時も・・・恥ずかしいときも・・・)
「ま、それにティニーとセティのこともあるしな。あの二人の邪魔をし続けるって楽しみもあるし・・・」
「おい!アーサー!」「あの・・・お兄様・・・」
アーサーの邪な笑みにセティとティニーは顔を歪めるしかなかった。
「恨まれるわよ・・・アーサー・・・」
調子を取り戻したフィーがアーサーに釘を刺した。

「あはは・・・まあ、その話は置いといて・・・あんまり、あの女を待たせるのは悪いからな。じゃ、ちょっと行ってくる!」
笑顔でアーサーはヒルダの前に出て行った。
その姿を3人は心配な目で見つめていた。


「なんだい、お前は・・・?」
ヒルダは目の前に出てきたティニーと同じ髪の色をもつ青年の事を知らなかった。
アーサーは静かに答えた。
「俺はアーサー・・・ティニーの兄だ。」
「なんだって!?お前がティニーの兄かい?」
ティニーの兄の存在はヒルダも噂で聞いてはいたが、この場で会えるとは思っていなかった。
しばしの驚愕の後、ヒルダは再び顔に笑みが浮かんだ。
「なるほどね・・・お前があのティルテュのもう一人の子供か・・・お前の母はこのあたし嬲り殺しにしてやったよ。その仇が取りに私の前に出てきたのかい?」
「ああ、妹の・・・ティニーの手は汚したくはないからな・・・」
「なんだい?妹の手を汚したくないって?あはは!そんな心配はする事はないよ。なぜなら・・・」
ヒルダは再び魔力を解放し、その身の回りに炎を出現させた。
「お前たちのようなガキには、私を倒す事はできないからだよ!」
そしてアーサーを見つめる視線に殺気が宿った。
「ふっ・・・それはどうかな!」
アーサーも馬上で魔法の印を結んだ。
そしてヒルダと同じようにその周囲を炎が取り囲んだ。

「喰らえ!ボルガノン!」
「大地よ裂けよ!ボルガノン!!」
二人は同時に同じ魔法を唱えた。
地面を割りながら、炎の超エネルギーが互いに向かって突進していく。

ドグワアアアァァァン!!
互いの中間地点でエネルギー衝突し合い、大爆発を起こした。
まるで火山爆発でもしたような炎が巻き起こる。
爆発によって起きた衝撃波が遠巻きに囲んでいた兵士たちの場所まで押し寄せた。

「なかなかやるじゃないか。私のボルガノンと渡り合うだなんて・・・」
「俺とてファラの血をひく者だ。炎の魔法なら自信があるんだ。」
「ははっ・・・なるほどね!だったら、こっちも手加減はできないね・・・」
再び、ヒルダはボルガノンの放つために炎を身に纏った。
だが、先ほどとは違い、炎の量が尋常ではなく、さながら炎の竜巻ともいえるものがヒルダを囲んだ。
「なに!?」
あまりの魔力にアーサーは驚愕した。
「これが本当のボルガノンって言うのさ!」
大量の炎が地中に潜り、アーサーに向かって行った。
あまりの炎のエネルギーの突進のために、大地が悲鳴をあげ、土が吹き上げられた。
「くっ!」
アーサーも慌てて印を組み、ボルガノンを放った。

再び、互いの中間点で衝突し合ったが、今度は様相が違った。
地中でヒルダの炎に衝突したアーサーの炎が、相手に弾き飛ばされた。
アーサーの炎だけが四散し、地上で力なく無残に弾けてしまった。
そしてヒルダの炎が勢いも弱めずアーサーに直進する。
「なっ!?」
アーサーは危機を知り、即座に回避しようと馬を飛ばした。
ググガガガガガガッ!!!
だが、発生した爆発が途方もなく大きく、アーサーを馬もろとも吹き飛ばした。
だが、アーサーは馬を制御し、なんとか倒れずに踏みとどまった。
「これが本当のボルガノンって言うのさ!お前のようなガキのお遊びの魔法とは格が違うんだよ!」
遥かに威力の高いボルガノンを見せられて、さすがのアーサーも焦りの色を隠せなかった。
(なんて威力だ・・・俺のボルガノンが簡単に弾き飛ばされた・・・同じボルガノンなのに・・・)
同じ魔法でも、扱う者の魔力に違いによってこれほど威力に違いが出てくる・・・
その事実をアーサーは思い知らされた。
(悔しいが、俺ではヒルダの魔力には遠く及ばない・・・それに対抗するには威力ではダメだ。俺に突破口があるとしたら・・・)
思案を続けるアーサーに不敵にヒルダは笑みを浮かべる。
「どうしたんだい?あたしのボルガノンを見て腰が抜けたのかい?情けないね・・・まっ、今すぐに楽にしてやるよ。」
再びヒルダはボルガノンを放った。
地中を炎が突き走る。
(こうなったら・・・一か八かだ!)
アーサーは馬を蹴って、ヒルダに向かって突進を開始した。
(馬鹿め!自分から突っ込んで来て死ぬ気か!?)
真っ向から自分に向かって突進を続けるアーサーにボルガノンが迫る。
そしてアーサーの真下を通り過ぎようとした。
「死ね!弾けよ!ボルガノ――――ン!!」

ズグワアアアアァァァ―――――ン!!
地中の炎が炸裂し、大爆発を起こした。
爆炎に包まれるアーサーの体・・・
「お兄様あああぁぁぁ!!」
「アーサー!!!」
アーサーが炎に包まれた姿を見て、ティニーとフィーの絶叫が響く。

「うおおおおぉぉぉぉぉっ!!!」
だが、爆炎の中から煙を引きながら真っ黒になったアーサーと馬が飛び出してきた。
「なんだと!?」
その光景に驚くヒルダに、アーサーは全力でヒルダに接近した。
腰に吊るされていた炎の剣を抜く。
「私を剣で倒すつもりか!?」
相手が接近戦を仕掛けてくる事を考えていなかったヒルダは慌てた。
既に目の前まで接近してきているこの状況では回避することも、ボルガノンを放つことも間に合わなかった。
「ヒルダ!これで最後だ!」
アーサーはヒルダの横を通り抜け様に、剣を突き出した。

グサッ!
「うぎゃあああぁぁぁ・・・」
ヒルダの絶叫があたりに響いた。
ヒルダの胸元にはアーサーの剣である炎の剣が深々と突き刺さっていた。
彼女の横を通り過ぎた後方に立っていたアーサーは振り返った。
「ヒルダ・・・俺の勝ちだ・・・」

ボオオォォォ・・・
突き刺さった炎の剣がその秘めた炎の魔力を解放した。
炎が剣から発生し、ヒルダの体に燃え移った。
「ぎゃああああああぁぁぁぁ・・・・!!!」
炎の包まれるヒルダの体。
炎の聖戦士の血を引きし女が、義理の甥に炎の剣を突き刺され、燃え上がる・・・
「このあたしが・・・燃えていく・・・この私の体があぁぁぁっ!!!」
自分達の母を死に追いやり、自分達を憎しみ続けた人物が炎の焼かれていく様子をアーサー、そしてティニーは悲しみに満ちた目で眺めていた。
炎に完全に包まれたヒルダの体は赤い炎の中で黒い影として映し出される。
しかし、その影もしばらく暴れた後、ゆっくりと崩れていった・・・
自分に刃向かう者には容赦がなく、自らの権勢のためにあらゆる手段を使い、帝国の重鎮にまで昇り詰めた女性の哀れな最後だった。

「ふう・・・」
ヒルダとの対決に勝利したアーサーは真っ黒な体を引きずって仲間たちの元へと戻っていった。
心配になって仲間たちが彼のもとに集まっていった。
口々に「大丈夫か!?」「怪我はないか!?」と口にした。
「大丈夫だよ。真っ黒になってしまったがな・・・」
煤を払いながら笑って見せるアーサー。
そんなアーサーに・・・
「アーサー!!」
「うわっ!」
フィーは走りこんで、そのまま抱きついた。
「馬鹿!フィーも汚れるぞ!」
「良かった・・・本当に良かったよ・・・炎に包まれた時は本当に心配したんだから!」
アーサーの煤だらけの体に抱きつき自らも黒く汚れながらも、フィーは気にしなかった。
大切な人が生きて戻ってきた事が本当に嬉しかったから。
「まったく・・・そんなに強く抱きつくなよ・・・」
アーサーは苦笑しながらも、自分の手をしっかりとフィーの背中に回して抱きしめた。
おおっ!という声が周囲から巻き起こる。
アーサーの勝利と、熱い抱擁にエールを送っているのだ。
そして、セティとティニーは、この二人の事がとても羨ましく思えた。
既に戦いは解放軍の勝利という形で終息の兆しを見せていた。
帝国軍は再び解放軍の前に敗北を喫したのであった。


その後、解放軍は前進を再開し、主戦力を失ったフリージ城を難なく攻略。
ついに帝都バーハラの目前まで辿り着いたのであった。





バイゲリッター・ゲルプリッターの敗北は、先のグラオリッターの敗北も合わせて、帝国本国の主戦力の大半が壊滅した事を示していた。
それは、帝国が敗北しつつあることの証明だった。
そのため帝国本土でも住民たちの蜂起が相次ぎ、既に帝国の崩壊は秒読みと思われた。


そして、帝国軍の大敗戦から三日後、帝都バーハラでも異変が起きていた。

帝都の中心を走る大路地は大混乱に陥っていた。
多くの人だかりがバーハラ城の正門に向けて伸びていく。
そして、それを阻止しようとする兵士たちとの間で衝突が起きていた。
正気を失った人々の目・・・それを力で押さえようとする兵士たち・・・
兵士たちが立ち塞がっても、人々はそれを力で突破しようとしていた。
そのため、兵士達も暴力に頼り、人々を押さえつけていく。
人々の苦痛と狂気の声がバーハラの城下を覆い尽くしていた。

帝国軍の度重なる敗戦は、今まで帝国に従属してきた人々に大きな不安を与えた。
特に、帝国の役職についていた者、帝国の貴族達等などは大きな恐怖に駆られた。
彼らは自分達の特権や権力を最大限に利用して、民衆たちを苦しめ、富を得てきた者達は揃って帝都を脱出しようとしていたのだ。
解放軍は今まで圧政に苦しんでいた民衆や市民たちを解放する事を何よりも重要視している。
だが、帝国に従属・協力をし、自らの欲望を満たしてきた者達には容赦がなかった。
彼らは解放軍に粛清されるのを恐れ、帝都を脱出しようとしていたのだ。
実際に解放軍の中には、帝国に従属しながらも、解放軍に身を投ずる者達もいたが、彼らは自分達になりに帝国のやり方に疑問、抵抗をしてきた者たちだったので、進んで解放軍に迎えられてきたのだ。
だが、率先して民衆を苦しめてきた者達には解放軍は容赦がなかったので、身に覚えのある者達は帝国から脱出しようとしていたのだ。

だが、無論それは帝国に対する反逆だったので、帝国軍が彼らの鎮圧のために出動したのであった。
だが、兵士たちの行動も一貫してはいなかった。
兵士たちの中には彼らと同じく、帝都を脱出しようとする者達がいたためである。
彼らの一部が脱出を計る者達に合流したため、さらに混乱は増していたのだ。



「・・・・・・」
イシュタルはその光景をバーハラ王宮を囲む城壁の上から眺めていた。
この位置からは人々が黒い点のように見える。
イシュタルはそれを悲しみに満ちた目で見つめていた。

イシュタルの元には、母ヒルダが解放軍との戦いで戦死したとの知らせがきていた。
イシュタルはその報告を聞いたとき、悲しみにとらわれた。
いくら、鬼のように言われてきた女性といえ、イシュタルの実の親なのだ。
悲しみという名の感情が起きないはずはなかった。
そしてイシュタルは悲しみに暮れる間もなく、城下の混乱を聞き、この場所に来た。


(もう・・・終わりね・・・この帝国も・・・)
イシュタルは、眼下に広がる光景を見つめながら、大グランベル帝国の崩壊を確信していた。
(ユリウス様は気にかけていないようだけど・・・もう、勝てない・・・帝国は・・・)
ユリウスはフリージが負けても、最終的に自分達の勝利は揺ぎ無いと言っていた。
しかし、イシュタルはそれを信じてはいない。
帝国を形成していた人々が、既に崩壊し始めているのだ。
どんな国家とは言え、内部から崩壊していっては、既に命脈が絶たれたと言ってもいいだろう。
(もしかしたら・・・これこそ、ユリウス様の望まれた状況なのかもしれない。世界の全てを滅ぼそうとしたユリウス様は、こんな混乱し、滅びかけた世界を求められたのかもしれない。でも・・・)

たとえ、ユリウスがこの状況を望んでいたとしても、恐らく自分は負けないと思っているに違いない。
でも、イシュタルは・・・
(・・・この状況だけでも絶望的・・・こんな状況では解放軍には勝てない。あの解放軍の力の前には・・・帝国が滅びるだけ・・・)
イシュタルは解放軍の力が、既に帝国を上回っていると判断していた。
例え、ユリウスに神に匹敵する力があったとしても、勝てないだろう。
解放軍は、今まで全ての逆境を乗り越えてきた。
史上最大の国家であり、類を見ない武力を誇ってきた帝国を次々と打ち破ってきたのだ。
彼らの力なら・・・恐らく最大の苦境になるであろうロプトウスの化身であるユリウスの存在も突破する事ができるであろう。

そして、その時は・・・自分の愛したユリウスの存在が消える時でもあるのだ。

(解放軍が勝つときは、ユリウス様に死が訪れる時・・・私が愛したユリウス様が消える時・・・)
イシュタルの心に深い悲しみが訪れた。
ユリウスの死・・・
それはイシュタルにとって一番悲しいことだろう。


(でも、既に失われているかもしれない・・・いや、失われつつあるかもしれない・・・ユリウス様の存在が・・・)
そう・・・
イシュタルは知っていた、いや、感じていた。
ユリウスの心が少しずつ、ロプトウスに近づきつつあることに・・・


その時、眼下で異変が起きた。
混乱する人々の渦の中に黒い姿をした軍勢か近づいていくのが、この位置から見えた。
どうやら、ユリウス直属の十二魔将の軍勢みたいだった。
(十二魔将が・・・なぜ?)
その軍勢が混乱の坩堝にある人々を囲むと、一斉に襲い掛かり始めた。

「なんだ!?ぎゃあああぁぁぁ・・・」
「待て!俺達は味方だ!やめろ―――!!」
帝都を脱出しようとした人々、彼らを阻止しようとした兵士たちもろとも、黒い軍勢は虐殺を始めた。
矢が飛び、魔法が放たれ、槍や剣が逃げ惑う人々を刺していく・・・
屈強な兵士達の前に、逃げ惑う人々に逃げ場はなかった。

「なんてこと!?・・・すぐに・・・えっ?」
イシュタルはすぐに止めに行こうとしたが、その時、見覚えのある人物の姿を軍勢の中に見つけた。
誰であろう、ユリウスだった。
「殺せ!!一人残らず殺すんだ!!我が帝国を裏切ろうとする者・・それらを抑える事すらできない無能な兵士たちを一人残らず殺せ!」
ユリウスは陣頭に立って、この虐殺の指揮を執っている。
その声に、さらに黒い軍勢の攻撃は強まる。
「殺せ!!あははは・・・殺すんだ!一人残らず!」
ユリウスは笑っていた・・・心底楽しそうに、命令を下していた。


(ユリウス様・・・)
その様子を、イシュタルは見つめるしかなかった。
(やはり・・・段々と酷くなられている・・・)
ユリウスの残忍性が、近頃特に酷くなってきているのをイシュタルは感じていた。
イシュタルの事を見つめている時、イシュタルの事を話している時は、ユリウスはとても優しかった、とても柔らかい笑顔を見せてくれていた。
だが、それ以外のことになると、とても残虐な性格となって、狂気に満ち溢れた行動を見せていった。
フリージやユングヴィの敗戦を知らせに来たゲルプリッターの伝令を、「お前はそれで・・・生きてノコノコとここに来たというのか?」と言って、殺した。
帝国高級官僚の一人が解放軍との和平を求めてきたら、「お前は民衆を苦しめてきたからな・・・解放軍の、民衆の仕返しが怖いのだろう?」と言って、その場で殺した。
自分との会話の時には感じられない冷たさと非情をもって、人の命を奪っていった。
そして、今回のことである・・・
ユリウスの残虐性が、高まっているように感じられた。
まるで、ユリウスの心がロプトウスと同化していくように、イシュタルには感じられた。

(恐らく・・・ユリウス様の心の中で、ロプトウスが完全に目覚めつつあるんだわ。そうじゃないと・・・ユリウス様の変化の説明がつかない・・・)
イシュタルは考えた末に、その認めたくはない結論に辿り着いた。
いや、その事実を改めて突きつけられたのだ。

だが、それでも・・・説明がつかない部分はあった。
(ユリウス様は・・・私にだけは優しい・・・私にだけ笑顔を見せてくれる。それは・・・)
本当にユリウスの中でロプトウスの目覚めつつあるのなら、イシュタルにだけ特別な扱いはしないだろう。
事実、ユリウスと心を通じてからこれまで、ユリウスとイシュタルは今までとは違い、かつての・・・幼き頃の心に戻ってつき合う事ができた。
昨夜、ユリウスに抱かれた時も、ユリウスは優しく自分を包んでくれた。
優しいユリウスにしかできないことなのに・・・
ロプトウスのような暗黒の存在ではできるはずもない。

自然に涙が出てきた。
(ロプトウスに心を侵食されても・・・ユリウス様は私を純粋に愛してくれるということなの・・・?  嬉しい・・・本当に嬉しい・・・けど!)
たとえ、心が闇に支配されても、自分にだけは優しい顔を見せてくれる。
そんなユリウスの事が、イシュタルには最高に嬉しかった。

(恐らく・・・じきにユリウス様は完全にロプトウスという存在になられてしまう・・・完全な暗黒神となって、彼の優しさは・・・残らない・・・消えてしまう・・・)
ユリウスの狂気が増大していっているのは、彼が完全にロプトウスと同化してしまうからであろう。
そうなったら、彼の心は完全に闇にとらわれて、優しさも何もかも消えてしまうだろう。
イシュタルにとって、ユリウスの優しさが消えることは何よりも辛い事だった。

(でも・・・それは私の罪・・・ユリウス様の心を救えなかった私の罪・・・)
ユリウスに見せられた過去によって、イシュタルは自分を責めた。
彼の心を闇にしてしまったのは・・自分の責任なのだ。
自分がユリウスをロプトウスとし、彼の優しさと笑顔を奪うのだ。

彼の優しさに触れ、ほんの少し希望をもった。
彼がロプトウスから解放されたのではないか、という希望に・・・
だが・・・それも、もう少しで失われてしまう・・・自分のために・・・

(私は・・・償わなくてはならない・・・ロプトウスとなってしまうであろうユリウス様に・・・罪を・・・)

眼下で行われる殺戮を指揮するユリウスに、優しかったユリウスの面影を重ねる。
(ですから・・・私はユリウス様のために・・・)
それがロプトウスになりつつあるユリウスへの贖罪・・・

「・・・そして・・・私は・・・」
しかし、イシュタルにはもう一つの想いがあった。
それは、消えつつあるユリウスの優しい心に対してであった。
イシュタルが出会い、愛したユリウスの本当の姿。
それに対する想いだった。



イシュタルは、決意した。
自分とユリウスの関係に・・・
今までの自分の罪に・・・
そして、自分自身の想いに・・・

全てのことに決着をつけようと・・・




イシュタルにとっての運命の扉が着々と近づいてきていた。

 

 

あなたの名は・・・ 第九章へ

 

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