Trick or Treat! 1 - 10
(1)
ある日いつものように研究会のため師匠の家を訪れると、玄関先に見慣れない
目と口のついたオレンジ色の物体がデンと据えられてあった。
「・・・カボチャ?」
「あら、緒方さんいらっしゃい。電車、人身事故ですって?大変だったわね」
台所から明子夫人がいつも通りのおっとりした空気を纏って現れた。
「あ、こんにちは。すみません、もう始まってますか」
慌てて靴を脱ぐ若い門下生の前にスリッパを揃えながら、夫人は溜め息をついた。
「いいえ、まだなの。うちの人ったら朝出かけたまま、まだ戻っていなくって」
「え。どちらへ行かれたんですか」
研究会の日に師匠が家を空けているのは珍しい。
「何でもね、麻布のほうに一軒、とっても可愛いお菓子を売ってるお店が
あるんですって。今朝隣のご主人にその話を聞いて、今から行けば研究会までには
戻って来られるからって、あの人飛び出して行っちゃって。でも、行ってみたら
お昼から焼きあがる限定商品があるみたいで、その写真がとっても可愛くて。
どうしてもそれを買って帰りたいから少し遅れるって、さっき電話があった所なの。
ごめんなさいね、皆さんにせっかく集まっていただいてるのに、我儘で」
「あ、いえ。・・・・・・?」
どうも話がよく掴めない。菓子一つのために奔走する師匠の姿が想像出来ず、
緒方は首を傾げた。
その視線が自然と派手なオレンジ色の物体に戻ったのに気づいて、夫人が言った。
「それね、ハロウィンのカボチャなの」
「ああ」
そんな行事もあった気がする。
(2)
「うちでは、特にこんな物を飾ったことはなかったんだけれど・・・幼稚園にお化けや
カボチャのお飾りがしてあるらしくて、アキラさんがうちでもやりたい〜って言う
ものだから」
下手をすれば緒方よりも年下に見える夫人は少女のような仕草で片手を腰に当て、
片手でお化けカボチャの頭をよしよしと軽く撫でた。
「アキラくん、元気にしてますか」
「ええ、最近は幼稚園で色々なことを覚えてくるのよ。先生に教わるのも勿論だけれど、
お友達のやってることを見て真似したり。・・・後であの子がそちらに行くと思うから、
少しだけ相手をしてやって頂戴ね。皆さん碁のお勉強のためにいらしてるのに、
子供の相手をさせてしまって申し訳ないんだけれど・・・」
「?はい」
襖を開けると見慣れた面々が既に碁盤を囲んでわいわいやっていた。
「よっ、緒方くん。社長出勤だね」
「すみません、電車が遅れて」
「あっ、緒方さんこんにちは!これ緒方さんの分です!ハイ」
「何だ?芦原・・・」
渡されたのは小さなキャラメルの箱が一つと、綺麗な薄い色付きハッカ飴が一掴みだった。
「これ、後でアキラくんが来たら渡してあげてくださいって、明子さんが」
自分の持ち分らしい、おしゃぶり型の棒付きキャンディとボーロの袋を
パサパサ振ってみせながら芦原が爽やかに言った。
「アキラくんに?」
「そうです、あっ、知らないですか?外国の風習で、ハロウィンの日に子供が
お化けとか魔女の格好して、近所を回ってお菓子を貰うんだそうです。ちゃんと台詞が
決まってて、確か――」
「とりっく・おあ・とりーと!」
よく通る高い声が響いた。
部屋中の視線を集めたそこには、緒方がさっき見たのと同じカボチャの顔をして、
ぎらりと光る大鎌を持った、小さなお化けが立っていた。
(3)
「うわぁ、お化けが出たぁ」
「お助けぇー!」
大袈裟に怖がってみせる一同の姿と、中絶した芦原の解説を総合して緒方はやっと
状況を理解した。
どうやらここはこの「お化け」に菓子を渡して、命乞いをしなければならないらしい。
襖の取っ手辺りまでしか背丈がないその小さなお化けは、子供用と思われるオレンジ色の
カボチャのお面を着け、照る照る坊主のように白いシーツを体に巻きつけてズルズルと
引きずっている。
手にした大鎌はよく見ると紙製で、台所用ラップの芯と思しき筒を黒いマジックで
塗り潰した柄に、銀紙を貼った三日月形の「刃」をセロハンテープで固定したものだ。
お面の周りを縁取る特徴的な髪形と、シーツの端にマジックで書かれた
「とうや アキラ」の文字は・・・見ないふりをすべきなのだろう。
「とりっく・おあ・とりーと!」
大人たちに怖がられてノッてきたのか、小さなお化けは精一杯恐ろしげな低い声で叫んで、シュッ・・・シュッ・・・と見得を切るように大鎌を左右に振ってみせた。
刃の部分が襖に当たってパコンと軽い音を立てる。中身は恐らくダンボール製だろうと
緒方は見当をつけた。
凄みを利かせた声で、お化けはご丁寧にも日本語で繰り返した。
「おかしをくれなきゃ、いたずらするぞ!」
「あげますあげます。だから、悪戯しないでください。これから研究会があるんです」
一番年嵩の棋士がそう言って小さな海苔あられの袋と、蜜柑を二つ差し出すと、
お化けは「それでいいんです」と偉そうに頷きながら何故か大鎌を襖に立てかけ、
シーツの中で何やらもぞもぞ身をくねらせ始めた。
(4)
「?」
一同が怪訝な顔で見守る中、お化けはシーツの中から小さなナップサックを取り出した。
暖色系の格子柄に木の葉やドングリの刺繍が施された、子供用にしては洒落た
デザインのそれは、この家の一人息子愛用の品だ。
ナップサックの蓋を開き口を大きく広げながら、お化けは怖い声で
「この中に入れてください!」と言った。
「あ〜あ、これおやつに食べようと思ってたのになぁ〜」
一番年嵩の棋士が大袈裟に惜しがってみせながら蜜柑と海苔あられを入れると、
お化けはピョコンと頭を下げて「ありがとう・・・」と言った。
さっきまで大鎌を振るって人間たちを脅かしていたにしては腰が低い。
顔を上げるとお化けは再び偉そうに胸を張り、蜜柑とあられの入ったナップサックを
揺すってみせて言った。
「他の人もここにおかしを入れてください!」
「はいっ。入れます!」
「オレも」
「ボクも」
「それでいいんです」
満足そうに頷いて、お化けはナップサックを揺すりながら大人たちの間を縫って歩いた。
黒糖飴に牛乳ビスケット、蒟蒻ゼリーに醤油煎餅に栗饅頭、乾燥梅。
大人たちが菓子を入れてやるたびにお化けは「ありがとう」とピョコンと頭を下げる。
この光景、何かに似ている・・・と緒方が首を捻った横で、芦原がボソッと
「募金みたいっすね」
と呟いた。
(5)
シーツをズルズル引きずって、お化けは最後の二人の前に立った。
裾からクマ模様の小さな靴下が除いている。
「とりっく・おあ・とりーと!」
差し出されたナップサックは、既に詰め込まれた菓子ででっぷりと太っている。
芦原は泣き真似をしながらボーロの袋とおしゃぶり型キャンディーをその中に入れた。
「ああー・・・これ、後でアキラくんにあげようと思ってたのになぁ・・・」
「エッ。・・・じゃあ、もう一つ同じおかしを買ってアキラくんにあげなさい。
・・・あなたで最後です!とりっく・おあ・とりーと!」
芦原の菓子をせしめてから、お化けは最後の一人となった緒方のほうに向き直り
ナップサックを差し出した。
――さて、どうしたものかな。
緒方は手の中のハッカ飴とキャラメルの箱を見遣った。
お化けが待ち受けたようにナップサックの口をこちらに向ける。
ふと、これを遣らなかったらどうなるのだろうという考えが湧いて起こった。
そこで緒方は菓子をゆっくり袋に入れる振りをした後、サッと手をUターンさせた。
Uターンの瞬間、お化けが「ぁ、・・・」と小さな声を上げた。
「な、何やってんですか緒方さん!早くあげたほうがいいですよ」
芦原が脇を突っつく。
「いや、まだだ」
緒方は澄まして見せびらかすように菓子を顔の前で振ってみせ、
顔の見えないお化けに向かってニヤッと笑いかけた。
「Trick or Treat、お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ――か。なら、これを
遣らなかったらオレは何をされちまうんだ?・・・是非とも、知りたいね」
(6)
急にそんなことを言い出したのは、大の大人たちを振り回し、誰からも大事にされて
翳りない子供時代を過ごすアキラにほんの少しの嫉妬と意地悪心が起こった
せいでもあるし、後にして思えば、アキラの前で他の門下生とは違った行動を
取ってみたかったせいでもあった。
もし緒方が他の人間と同じように素直に菓子を差し出せば、アキラは彼らに対して
したのと同じように可愛らしく頭を下げ、戦利品を抱えてさっさと緒方の前から
去るだけだろう。
アキラを困らせることになったとしても、他の人間に対するのとは違うアキラの反応が
見たかったし、この小さな生き物の前で――それがどうしてかは分からないけれども――
他の相手とは違う自分でありたかったのだ。
――さあ、どうする、アキラくん。
とは言え子供相手にそんなに困らせてやろうというほどの気持ちでもないから、
アキラの反応に関わらず、最後には菓子を与えるつもりだった。
悪戯といっても抓られるかくすぐられるか眼鏡を取られるか、
せいぜいそんな所だろう――
そう高を括って見ていると、お化けは一度ふわりとしゃがんでナップサックを
丁寧に畳の上に置いた。シーツが空気を孕んで、裾の下から小さな風を生む。
それからお化けは少しよろけながら再び立ち上がり、
小さな爪のついた小さな両手でたどたどしくカボチャのお面をずらした。
大口を開けて笑うお化けカボチャの下から見慣れた小さな顔が現れ、
澄んだ大きな黒い目が不安そうに心外そうに緒方を見る。
上出来の表情だと思った。
だがすぐにアキラはフンッと不敵な笑みを浮かべてお面を頭の上にのけ、
シーツを引きずりながらぽてぽてと緒方に近づいてきた。
さあ、何をされるか――
身構えても、いつまで経ってもアキラの手はこちらに伸びてこない。
その代わり大きな黒い目がぐんぐんぐんぐん近づいてくる。
――ちょっと待て、今コイツとオレの距離は何cmになってるんだ?
そう思った瞬間長い睫毛がパサリと閉じて、
緒方の唇に甘い匂いのする柔らかいものが押し付けられた。
(7)
「・・・・・・」
一瞬にして室内がシーンと静まり返った。
「ふぅっ」
静寂の中緒方から顔を離したアキラは、しばらく釈然としない表情で緒方の薄い唇を
見つめていたが、やがて気を取り直したように「ちゅっ、」と小さく声で付け足した。
それから小さな両手が不器用にお面を元の位置に戻し、
元通りのカボチャのお化けが現れる。
お化けは石化している緒方の膝から飴とキャラメルを奪い取り、
そそくさとナップサックに詰めた。
ぱんぱんに膨らんだナップサックをシーツの中に回収し、もぞもぞ身をくねらせて
しょい直すと、お化けの背中にむっくりと一つ丸い瘤が出来上がる。
「じゃあ、ボクはそろそろ帰りますね!皆さん、おかしをくれて、どうもありがとう
ございました」
背中の瘤で重心がズレるのか怪しくふらつきながら一礼し、
ズルズルと部屋を出て行こうとするお化けに、芦原がハッと気づいて呼びかけた。
「忘れ物!忘れ物!」
振り向いたお化けに、入り口付近にいた棋士の一人が「あっ、ああ」と気づいて
立てかけてあった大鎌を渡してやった。
その棋士に「ありがとう・・・」と危なっかしい動きで頭を下げてからそれを受け取り、
今度こそ出て行こうと廊下に足を踏み出したお化けは、
障害物に当たってころんと引っ繰り返った。
「やあ、遅れてすまなかったね、キミたち。・・・おや」
「と、塔矢先生!」
(8)
室内に緊張が走る。
一番年嵩の棋士が、ちらりと心配そうに緒方のほうを見た。
幸いさっきの小事件は目撃されていなかったらしく、師匠の視線は自分の足元で
引っ繰り返った小さなお化けに注がれている。
「これは失礼。どこも痛くしなかったかね」
「だいじょうぶです!」
この家の主に助け起こされながらお化けは怖い声で答えた。
「それにしても見かけない顔だが、キミは何者かね?アキラの遊び友達か?」
胡散臭そうな顔でお化けに問う師匠に、弟子たちが声を揃えて言った。
「先生、その人お化けなんですよ!」
「そうそう、オレたちみんな今、お化けにおやつ取られちまったとこなんです!」
「なんと、キミはお化けだというのかね」
「そうです」
真面目くさって聞く行洋に、真面目くさってお化けが答える。
それからお化けはすっくと立ち上がり、大鎌を左右に振り回しながら
今までで一番怖い会心の声で例の決め台詞を叫んだ。
「とりっく・おあ・とりーと!」
「む、何だ。鳥・・・?」
今度は素で意味が分からなかったらしい師匠に、弟子たちがフォローした。
「トリック・オア・トリート、えーと、お菓子をくれなきゃ悪戯するって言ってます」
「むぅ、そうなのか。これから研究会だというのに、悪戯されるのは困るな・・・」
行洋は着物の袖に両手を突っ込んで考え込む仕草をした。
(9)
「あなたがもしおかしを持っていなかったら、台所に取りに行ってもいいです」
なかなか寛大なお化けである。
「むぅぅ・・・」
苦渋の色を滲ませると、行洋は袖の中から一つの包みを取り出し、屈み込んで
お化けに差し出した。白い雲をプリントした鮮やかな空色の包装紙と、
半熟卵の黄身のような濃い黄色のリボンでラッピングされた四角い包みだ。
「仕方がない。キミにはこれをあげよう」
「・・・この中身はおかしですか?」
「疑うなら、開けてみたまえ」
大鎌を畳の上に置こうとしてふらつくお化けに、近くにいた棋士が
「あ、持ってましょうか」と舎弟のように申し出た。
お化けは、魅せられたようにその綺麗な包みを受け取った。
「・・・・・・」
ガサガサと包みが開けられる。
部屋にいた者たちが、思わず集まってお化けの手元を覗き込む。
「――わぁ、・・・」
小さな声が上がると同時に、取り囲んでいる者たちからもほー、と感心の吐息が洩れた。
その様子に、一人固まって動けずにいた緒方も思わず立ち上がり、人垣の中を覗き込んだ。
包みの中には白い箱があり、箱の中には飴色の雲のようなものが
ふんわりと詰められている。
そしてその中に白い「卵の殻」と、そこから生まれたらしい丸っこい可憐な
「小鳥」が一羽、ちんまりと収まっていた。
(10)
「・・・これ、ひよこちゃん?」
しばらく声も出せずにいたお化けが、怖い声を忘れて言った。
白い卵の殻はどうやら砂糖菓子のようで、たまご色の小鳥の羽には、
よく見るとうっすらと狐色の焼き色がついている。
卵から生まれたばかりの小鳥はこんなに可愛らしい姿をしていないということは
さておいて――よく出来ていた。
「生まれたてらしい」
行洋は大事な秘密でも明かすように手を立てて口に当て、声を潜めて言った。
「えー・・・それじゃ、食べちゃうの可哀相だねぇ。どうしよう・・・」
「この子をどうするかは、キミのお母さんと相談してゆっくり決めるといい。
賞味期限は3日間だ」
生き物という前提で話しているのか食べ物という前提で話しているのか分からない。
元通りに包み直してもらったひよこ菓子の箱を宝物のように胸に抱き締めて、
お化けは行洋に「ありがとう・・・」とお辞儀した。
それから大鎌を脇に挟ませてもらい、名前入りのシーツをズルズルと引きずりながら
お化けの国に帰っていった。
「・・・先生・・・あれを買うために、出てらしたんですね・・・」
一番年嵩の棋士がボソッと言った。
一人で抜け駆けしてポイントを稼いだな・・・と部屋にいる誰もが思っていた。
「うむ、キミたちにはすまないことをした。遅れてしまった分、今日はいつもより
みっちり勉強しよう。・・・キミたちもアキラの我儘に付き合ってくれたそうだね。礼を言う」
「あ、いえ、そんな・・・」
師匠に深々と頭を下げられては、みな恐縮してしまう。
「では――研究会を始めよう」
行洋の一声で、門下生たちはバラバラと碁盤の周りに集まり出した。
響き始める硬質な碁石の音を聞きながら、
緒方は一人先刻の小事件を思い出して貧血を起こしそうになっていた。
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