甘い経験 Part2 1 - 5


(1)
「進藤、今日、ボクの部屋に来ない?」
アキラとしては、それは思いきって言ってみた言葉だった。
「おまえんち?ちょっといきなりそれは…だいたい、おまえんちなんて緊張しそうだし…」
「なに、言ってんだよ、ボクの家、じゃなくてボクの部屋。」
よく、わからない、という風にヒカルが首をかしげた。
「アパート、借りてるんだ。」
ヒカルの足が止まった。
「オレ、初めて聞いた。そんな事。」
「進藤…?」
「オレ、何にも知らないんだな、オマエの事。
何にも話してくれないんだな、オマエ。」
「それは…今まで言う機会が無かっただけで、知ってるのは両親くらいだよ。」
まさか、こんな風に言われるとは思ってもいなくて、思い切って言ってみた誘いの言葉が
ヒカルに予想と正反対の態度を取らせたことに、びっくりして、がっかりして、けれどなんとか
ヒカルをなだめようとして、彼を見た。
ヒカルはぷい、と頬を膨らませて、横を向いていた。
「進藤、怒ってるの?」
いつもはヒカルのどんな表情も可愛いと思うのに、今日はただ、悲しかった。
「ボクの部屋には来てくれない?」
つまらない事で拗ねているのは、ヒカルにもわかっていた。
それに、アキラが自分の事を話してくれなかったのは悲しいけれど、それ以上に、今のアキラ
は悲しそうな顔をしていたので、ヒカルは黙って首を振って、
「ごめん。」
と小さく呟いた。


(2)
「上がって。何にもない部屋だけど。」
黙ったままヒカルは靴を脱ぎ、部屋に上がり、中を見回した。
殺風景な、何も無い部屋。
室内がきれいに片付けられているせいだろうか。
几帳面なアキラらしいとは言えるだろうが、どことなく、寂しさを感じさせるような部屋だった。
例えば、和谷の部屋は、同じような(もうちょっとここよりも狭いけれど)一人暮らし用の部屋
だったけれど、もっと雑然としていて、こんな風に「空っぽだ」という印象は受けなかった。
「進藤、まだ、怒ってる?」
アキラがそっと背後からヒカルの身体を抱いた。
「ここに、来たのはキミだけだ、進藤…。」
「おまえ、寂しくないのか?こんな何も無い部屋で。」
思わずそんな言葉がヒカルの口からこぼれた。
寂しかった。独りで。寂しかったからこそ、何もないこの部屋が安心できた。
でも―今は、違う。
「だって…今は、キミがここにいるじゃないか。」
ヒカルの頭に頬を寄せてそう呟いた。
キミがここに来てくれることがあるなんて、思わなかった。
この部屋で、キミと二人でいるなんて、そんな事があるなんて、到底思わなかった。
あの時はボクはずっと一人だと思っていたから。
ヒカルの身体に廻した腕に力がこもった。ヒカルの手がそっとその手に添えられた。
その温かさが、嬉しかった。


(3)
「今、キミがここにいるのがどんなに嬉しいか、わかる?」
アキラがこの殺風景な部屋で、どんな思いを抱えていたのかはわからない。
けれど、今のアキラの言葉には嘘がない事だけはわかった。
そういう風に言ってもらえてオレがどんなに嬉しいのか、おまえはわかってるのか、塔矢?
身体に廻された手をそっとほどいて、向き直る。
不安そうな目で、アキラがヒカルを見ていた。
どうして、そんな不安そうな顔をしているんだ、塔矢?オレがここにいるのに。
そっと手を伸ばしてアキラの顔に触れた。
それから、目を閉じて、そっと、アキラの唇に触れた。
自分からキスするのは2度目だった。
何度も触れた唇なのに、身体が震えた。
アキラの唇は柔らかくて、甘い香りがするような気がした。
同じ唇なのに、触れられるのと、自分から触れるのとは全然違うような気がした。
「塔矢…、」
「なに、進藤…?」
「オレ…おまえの事、抱きたい……いい?」
「いいよ。」
思い切って言ってみたのにあっさりと返事をされて、何だか急に腹立たしく感じてしまった。
いいよ、と言われて嬉しいはずなのに。
なんだか悔しい。
だから、つい、拗ねたような事を言ってしまった。
「…おまえ、わかって返事してんのかよ?」
「なに、怒ってるんだよ?やだって言ったほうが良かったのか?
前にも言ったろ。キミだったら嬉しいって。」
なんでこんなになっちまったんだろう。
さっきまでの甘い空気がどこかへ行ってしまったようで、自分の不甲斐なさが情けなくて、
アキラの肩をぐいと引き離した。


(4)
「進藤?」
「おまえ、ズルイよ。
ズルイよ、塔矢。いっつもおまえばっかり余裕でさ。
オレがおろおろしたり、ドキドキしてたりしても、平気な顔してさ。
ズルイよ。」
「そんな風に思ってたの?そんなに平気そうに見えるんだ?
そんなに、ボクが平気だと思ってたのか?キミは。」
ある意味、ヒカルの言っていることは正しかった。
相手が恋焦がれたヒカルであることにときめきはしても、やはり情事に対する一種の慣れの
ようなものがある事は事実で、だがその事をアキラが哀しく感じてしまっているという事を、
ヒカルは知らないだろう。いや、しかし、その事には決して気付いて欲しくはない。
以前あった事を悔やみはしない。忘れられるとも思っていない。
けれど時々こうやって小さな後ろめたさを感じてしまう事が悲しい。
「…ごめん。」
そう言って、アキラはヒカルの顔から目をそらし、ヒカルに背を向けた。
平気なことが辛いなんて、言えない。
「塔矢…」
なんでだかはわからない。
でもなんだかアキラの背中が泣いているようで、ヒカルはその背を抱きしめた。
「塔矢、ごめん…」
背中からつたわってくる体温が、まわされた腕に込められた力が、重なって感じられる胸の
鼓動が、心地良い。心地良くて、けれど悲しくて、アキラは涙がこぼれそうになった。
「進藤…」
静かな声で、アキラがヒカルに呼びかけた。
「…進藤、カーテン閉めて、電気消して…?」


(5)
その呼びかけにヒカルは、ぎゅっと腕に力を込めアキラを抱きしめてから、そっとアキラから
離れて、言われた通りに外界とこの部屋とを遮断し、灯りを消す。
振りかえると、薄暗がりの中、アキラはベッドに腰掛けていて、ヒカルに小さく微笑みかけた。
ヒカルが近づいていくと、アキラがヒカルに向かって手を伸ばした。
そしてヒカルの顔を引き寄せてくちづけると、そのままベッドに引き倒した。
パサリ、とアキラの黒髪が白いシーツの上に広がった。
アキラの上に倒れ込む形になってヒカルはアキラに体重をかけ過ぎないように気をつけながら、
アキラを味わった。

切なげな眼差しで、アキラがヒカルを見上げている。
「進藤…好きだ…」
ヒカルにはアキラの心の動きはわからない。
わからないけれど、なにか、その眼差しがヒカルの心を射た。
最近では、いつも自信満々、悠然としたアキラに慣れてしまったヒカルは、突然目にした
アキラの頼りなさげな表情に胸が痛んだ。
ちらりと黒い影が胸をかすめる。ヒカルは首を振って、その影を追い払った。
知らない。おまえなんか、知らない。今、ここにいるのは、オレと、塔矢と、二人だけだ。



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