鏡妄想 1 - 5
(1)
その鏡を手に入れたのは偶然だった。
暇つぶしに覗いていた骨董品屋の奥から妖しく輝く光が見えた。
気になって近付くと、この鏡がひっそりとタンスの横に置かれていた。
西洋の柱時計を鏡にしたような大きさ、とでも言ったら良いのだろうか。とにかく
けっこう背の高い俺がすっぽり映し出される程大きな鏡だった。
鏡の周りはしっかりとした木の枠で囲われていて、鎌倉彫を豪華にしたような装飾が
施されていた。
鏡に映る自分を見ていると、ふわふわした空気に包まれて、体が浮き上がって軽く
なるような気がして妙な気分になった。
俺は何か目に見えない力に促されるように、迷わずその鏡を購入した。
ベッドルームに置かれたその鏡で俺は毎日全身をチェックして出かけるようになった。
自惚れ鏡なのか、その鏡に映る俺は凛々しくてなかなかイケてる。
最初は部屋の隅に置いていたが、お気に入りの家具の一つになりそうだったので、
購入して数日で部屋の真ん中の壁際に置き換えた。
それから一週間程したある夜、
俺は風呂から上がってTシャツにトランクス姿で缶ビールを飲みながら鏡を覗き込んだ。
───うん、よしよし、まだまだイケるぞ!
俺は己の姿に惚れ惚れとして、体の角度を変えながら鏡の前で悦に入っていた。
すると、鏡に映る俺のベッドの上に誰かが座っているのが見えた。
慌てて振り返って確認すると誰も居ない。
もう一度鏡の中を見ると、確かにそこには白いパジャマを着た人間が座っている。
俺は頭を振って何度か後ろと鏡を見比べたが、その人物は鏡の中にしか居ない。
鏡の中の人物をじっと見詰めると、こちらを向いたその人物と目が合った。
「!!??えっ?アキラたん??」
(2)
鏡の中のオカッパの美しい少年は、紛う事無く俺の良く知っているアキラたんだった。
アキラたんは驚いたように俺を見詰めると、ベッドから立ち上がり俺に近付いて来た。
「ボクの事を知っているのですか?」
「もちろんだよ!アキラたん・・知ってるなんてもんじゃないよ!!」
俺はそう答えながらもう一度後ろを振り返って見たが、やはりアキラたんは居ない。
鏡の中のアキラたんは、鏡の中の俺のすぐ後ろまで来て、驚きと嬉しさで目を輝かせて
俺を見詰めている。
「ボクを知っている人に会えるなんて・・・・とても嬉しいです!」
「俺もめっちゃ嬉しいよ!アキラたん!・・・・ところで、そんな所で何をしているんだい?」
「何って・・・・・・・・・・、・・・・あなたは囲碁を打ちますか?」
「えっ?俺?・・・あ、少しは打てるけど・・・」
「じゃあ、囲碁盤を持っていますか?」
「マグネットのならあるよ」
「え?本当ですか?ではすぐに持って来てください!一緒に囲碁を打ちましょう!」
俺は何が何だか訳が分からなかったが、とにかく棚を開けてゴゾゴゾと囲碁盤を探した。
山のようにあるゲームソフトの下に、トランプやオセロゲームと一緒に囲碁盤が出てきた。
「よし!あったぁ!!」
俺は探すのに夢中だったので、アキラたんが居なくなってしまったのではないかと思って、
慌てて鏡の前に戻った。
棚は鏡の横の方にあって、棚の前に立つと鏡のガラス面は見えなかったのだ。
アキラたんはガラス面のギリギリのところまで顔を持ってきて心配そうに覗き込んでいた。
サラサラのオカッパが揺れていて本当にアキラたんなんだーと胸が躍った。
俺が鏡の枠に手をかけて囲碁盤を見せようとすると、
「あ!絶対に鏡が動かないようにしてくださいね!!」
とアキラたんが慌てて叫んだ。
「うおっ!ごめん、ごめん」
俺は良くは分からないが、何となく分かった気がして鏡から手を離すと囲碁盤を見せた。
(3)
マグネットの囲碁盤を見ると、アキラたんは満面に笑みを湛えた。
「やっと囲碁が打てる!早く対局しましょう!」
と言いながら俺を見上げる瞳にはうっすら涙が光っているように見えた。
こんなに喜んでいるアキラたんに向かって、いやだとは言えない。
「囲碁を打つのは良いけど・・・・どうやって?」
と聞くと、アキラたんは真剣な顔になって言う。
「これから僕の言う通りにしてくれますか?」
「え?あ、うん、分かった。何でもアキラたんの言う通りにするよ!」
と返事をすると、アキラたんは安心したように微笑んで黒い瞳を俺に向けた。
俺は至近距離で見詰められて、顔からは火を噴き、心臓は破裂しそうだった。
「まずその囲碁盤をベッドの上に置いて下さい」
俺は言われた通りにした。
「次に鏡から1メートル位離れて真っ直ぐに鏡に向かって立って下さい。・・・そうです。
次に、指の先までピンと伸ばして腕を床と平行になるように上げてください。・・・そうです。
そうしたら、静かに目を瞑って下さい。・・・そうです。体を揺らさないように、ゆっくり
滑るように前に進んでください。あ、喋らないで下さい」
俺はアキラたんに言われた事を忠実に実行した。
ゆっくり足の裏を擦るようにして前に進むと、指の先に冷たい空気が触れたような気がした。
さらにゆっくり足を進めると、その空気が徐々に腕に移動するのが分かる。
目を開けて確かめたい衝動に駆られるが、それを察したのかアキラたんが言う。
「絶対に目を開けないで下さいね」
俺はギュッと目を瞑って少ずつ前に進んだ。
(4)
冷たい空気が頭の後ろに過ぎていくと、耳のすぐ側でアキラたんの声がした。
「もう目を開けて良いですよ」
俺はゆっくり目を開けると、そこは俺の部屋だった。
「あれ?俺の部屋だ・・・・何も変わってない」
アキラたんはクスクスと笑ってベッドの方に歩きながら、
「ここは鏡の中の世界ですよ」
とサラッと言う。
鏡の向こうにアキラたんを見ていた時と違って、今はアキラたんが動くとフワリと
アキラたんの甘くて爽やかな匂いがする。
アキラたんはベッドの上に正座すると、マグネット囲碁盤を嬉しそうに広げた。
「さあ、早くここに来て打ちませんか?」
俺はアキラたんの全身を見詰めながらベッドに座ってアキラたんと向い合った。
アキラたんは想像していた通り華奢でしなやかで強く抱き締めると壊れてしまいそう
だった。そして、パジャマの襟から覗く首筋や喉元は透き通るように白かった。
「棋力はどれくらいですか?」
そう聞くアキラたんに、俺は申し訳なくて情けなくてどうしようもなかった。
「ごめんアキラたん。俺、ちゃんと囲碁が打てるわけじゃないんだ。ゲームキューブの
ヒカルの碁3では塔矢行洋にやっと勝てたけど、それは・・」
と言いかけた途端に、アキラたんは目を輝かせて叫んだ。
「え?お父さんに勝ったのですか?!凄い!これは対局が楽しみだな!」
おれは慌ててベッドの上で土下座して、
「違うんだ、アキラたん。それはテレビゲームの中での事で・・・その、やっとルールを
覚えて19路盤が打てるようになっただけなんだ・・・・。しかも人間と打った事はまだ
一回もないんだよ。その囲碁盤では五目並べしかした事がないし・・・・」
と言って、恐る恐るアキラたんの顔を見ると、アキラたんは優しく微笑んで言う。
「そうですか。でもルールを知っていてとにかく打てるならそれで十分です」
(5)
「取りあえず6子置きで始めましょうか。大丈夫。ちゃんと囲碁になりますよ」
と言いながらアキラたんは盤面に黒石を6個置いた。
その時俺はさっきから感じていた違和感が何だったのかが分かった。
「アキラたんは左利きだっけ?」
俺は確かめるように聞いた。
「え?ああ、ここは鏡の世界なので全て逆なんです。フフフ、よく気が付きましたね」
そりゃ分かるさ、アキラたんの事なら何でも知っている。
さっきから感じていた違和感はアキラたんの髪の分け目が逆だったからだ。
だがパジャマの合わせはちゃんとしている。
「そのパジャマは男物なんだね、ハハハ」
俺は笑いながら、それが全く間違いである事に気付いた。
アキラたんはちゃんと女物のパジャマを身に付けているのだ。鏡の世界だから逆になって
男物に見えただけだった。
「あ、いや、ここは鏡の世界だったね・・・ごめん」
「そんな事気にしなくて良いですよ。さあ、始めましょう。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げるアキラたんは凛としていて、さすがはプロ棋士塔矢アキラだ。
俺も、お願いしますと頭を下げると、アキラたんは盤面を見詰めながら第一手を打って来た。
静かな空気が流れる中、数手ずつ進んだところでアキラたんは、
「9子置きの方が良かったかな・・・」
と呟いた。
俺はアキラたんをがっかりさせてしまって恥ずかしくて情けなくて身を縮こまらせた。
それでもアキラたんは嬉しそうに楽しそうに白石をペタッペタッと置いていく。
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