Sullen Boy 1 - 5
(1)
(…………風……?……どうしてだろう?)
リビングへ繋がるドアが微かに揺れたのに気付き、アキラはベッドから起き上がって
そろりと床に足をつけた。
ドアと床のごく僅かな隙間から確かに風が入り込み、アキラの素足を掠めていく。
真っ暗な部屋の中で、そこだけぼんやりと光を放つサイドテーブル上の時計に目を遣って、
アキラは小首を傾げた。
午前3時52分──まだ夜も明けていない。
アキラは頬を両手でピタピタと軽く叩くと、立ち上がり、足音を立てずにドアへと近づいた。
ドアノブを押さえ、慎重にそっと回す。
音を殺して手前に引くと、一気に風が入り込んできた。
少し驚きながらも、アキラは半分ほど開けたドアの合間を縫って、リビングに足を忍ばせる。
(あっ、窓が……)
アキラが寝る前には、リビングの窓は閉められ、ブラインドも下ろされていたはずだった。
今、ブラインドは完全に上げられ、ベランダへ通じる窓が50センチほど開いている。
風はそこから入り込むものだった。
深夜の街を照らす人工照明の光が窓から僅かに漏れ込み、リビング内をなんとか見渡せる
程度に照らしている。
目を凝らして室内を見回すアキラは、フローリングの床の上にだらしなく寝転がる人物を
発見し、肩を震わせながら小声でクスクス笑った。
(……芦原さん…あんなところで!)
タオルケットも掛けずに眠っている芦原は、寒がる様子もなく幸せそうな寝息を立てている。
(……緒方さんは……?)
部屋にはアキラと芦原の2人しかいなかった。
アキラは開いている窓の方へ歩み寄ると、ベランダを覗き込んだ。
(2)
「……悪いな、アキラ君。起こしたか?」
ベランダのフェンスに腕を掛けて深夜の街を見下ろしていた緒方は、言葉とは裏腹に
悪びれる様子など全くなかった。
手にしていた煙草を銜えると、視線はそのままにアキラを手招きする。
「緒方さん、サンダルは……?」
ベランダに出ようにも何も履くものがないアキラは、肩をすくめて緒方に尋ねた。
「オレが履いてるから……そのまま来いよ」
相変わらず街を見下ろしたまま、緒方はにべもなくそう言った。
憮然たる表情で素足のまま緒方の横に立つと、その横顔をキッと睨みつける。
「緒方さん、灰皿は?」
「このフェンスでギュッと消して、下へポイだ」
緒方は戯けて、手に持った煙草でジェスチャーして見せた。
「緒方さんっ!!」
緒方は窘めるアキラの頭に煙草を持ったままの手をポンと置くと、その顔を覗き
込んで意地悪そうに笑った。
「信じるなよ。オレがそんなことをするはずがないだろ」
楽しそうにアキラの頭をポンポン叩きながら、もう片方の手でスラックスの
ポケットを探り、赤い煙草の箱を取り出す。
「これが最後の1本だ」
箱の中身がないことをアキラに示すと、アキラの頭から手を離し、フェンスで
揉み消した煙草を空箱に入れて再びポケットにしまった。
(3)
「そんなパジャマ姿で寒くないか?」
緒方に借りたライトグレーのパジャマは薄い綿素材のため、6月とはいえまだ夜も
明けぬこの時間では、確かに少々肌寒い。
コンクリートのベランダに素足で立っているため、爪先は既にすっかり冷え切っていた。
「……ちょっと寒いですけど……」
本当はそんなことを言いたくない。
アキラはどことなくムッとした表情で、渋々答えた。
「なにせ裸足だしな」
自分のサンダルを履かせる心遣いなど毛頭ないのか、緒方はアキラの足元を見てそう
言うと、フンと鼻で笑った。
アキラは不機嫌そうに緒方を睨め付けはしたものの、飄々とした風情で再び夜景を楽しむ
緒方の様子に、仕方なく溜息をついて話題を変える。
「……で、こんなところで一体なにをしてるんですか?」
「別に……。ただボーッとしいてるだけだ」
期待外れな緒方の返答に、アキラは思わず天を仰ぐ。
「真実を言ったまでだぞ。何が悪い?」
「酔ってるんですか?」
お返しとばかりに、今度はアキラが鼻で笑った。
(4)
「酔ってなんかいない」
「その割には、随分お酒臭いじゃないですか」
「確かに飲みはしたさ。だが、オレは酔ってない」
「さあ、どうだか……」
薄曇りの上空には星ひとつ見えない。
そんな夜空を見上げたまま、アキラは肩をすくめた。
緒方は人を食ったアキラのリアクションに、ムキになって反論する。
「酔えるわけがないだろう!アイツは……芦原はオレの秘蔵の30年モノを……」
「30年モノ?」
意味がわからず、アキラは緒方の顔を見つめた。
「バランタインだ!幾らすると思ってるんだ、あの大馬鹿野郎!!……まったく……
水みたいに遠慮なくガブガブ飲みやがって……」
怒りのあまり強く握りしめた拳を戦慄かせる緒方に、アキラは思わず吹き出した。
「笑うなッ!」
「……だって……」
笑いが止まらない様子のアキラに、緒方は舌打ちすると、前方の闇に向かって鋭く
拳を突き出す。
「芦原なんざァ、安い発泡酒でも飲んでればいいんだ!どうせ酒の味なんてロクに
わかってないぞ、アイツ……。それを……オレがちょっと目を離した隙に……」
(5)
「……でも、発泡酒も飲んでたじゃないですか、芦原さん……」
フェンスに掛けた腕に顔を伏せて肩を震わせるアキラは、笑いを堪えながらなんとか
そう言った。
「ああ、飲んでいたさ。発泡酒に缶酎ハイ……ああいう安酒こそ芦原には相応しいからな。
……だいたいなァ、同じバランタインでも12年モノを棚の手前に入れておいたんだ。
30年モノはすぐには見えない奥にしまってあったんだぞ。……アイツ、一体どうやって……」
幸せそうに床に寝転がっていた芦原の姿を思い浮かべ、アキラは全身を震わせて大笑いしたが、
なんとか顔を起こすと、ブツブツ呟く緒方の肩に手を遣った。
「芦原さんだって、悪気があったわけじゃないでしょう?許してあげてくださいよ」
「ダメだ!絶対に許さんッ!!」
「じゃあ、ボクがそのバランタインの30年モノを買って、緒方さんにプレゼントしますよ。
それで許してあげてくれませんか?」
「……アキラ君……、値段を知ってるのか?」
「いいえ。幾らですか?」
「……正規の国内価格なら7万7千円だ……」
「7万7千円ですね。わかりました」
驚いた様子など微塵も見せず、屈託のない笑顔でそう言って頷くアキラに、緒方はしばし呆然として
その場に立ちつくす。
「……オレが碁聖のタイトルを取ったらでいいぞ……」
緒方は明日にでも買って来かねないアキラの様子に、一応のフォローを入れ、大きく溜息をついた。
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