座敷牢中夢地獄 1 - 5
(1)
――脇腹に鋭い痛みがある。
少年の身体は温かかった。
どんよりと曇った朝。
俺は旅先のこぢんまりとした旅館にいる。
朝食の後で茶を啜っていると女将がやって来て、ひとしきり客への言上を述べ上げた後
涼やかな声で訊いてきた。
「今日は、これからどうされますの?」
「・・・この辺りに幾つか古い史跡があるでしょう。それを見てまわってから国道に出て、
海岸伝いに次の土地まで歩こうかと」
「まあそうですか。でも今日はこんなお天気ですから、浜辺にはお下りにならないように
お気をつけくださいね」
「ああ、さっき天気予報でやってたが昼頃から雨になるらしいですね。危ないですか」
「それもありますけど・・・この地方じゃ、こんな天気の日に浜へ出ると悪い夢を見るって
云うんです」
「悪い夢?」
「ええ。こんな生暖かくて昼と夜の区別がつかないくらい暗い日には、海の底から色んな
ものが這い出てきて人を迷わすんだそうですよ。運が悪ければ帰って来られなくなるから
こんな日は浜に下りないようにって、亡くなった祖父に言い聞かされたものです」
「へえ・・・」
緑茶の苦味が舌を刺す。ふっと窓の外が暗くなった気がした。
(2)
荷物を纏めて玄関口まで出ると、客の少ない季節ということもあってか
女将と従業員たちがぞろりと整列して待ち構えていた。
こういうシチュエーションはあまり得意ではないのだが、無言で発つわけにもいかず
「お世話になりました」と軽く挨拶だけして歩き出そうとする。
と、女将が掌を空に向けて言った。
「あららら、もう降ってきた。お客様、傘はお持ちでらっしゃいます?」
言われて空を見上げると確かに一粒、軽い雨が鼻を目がけて落ちてきた。
「持ってませんがこれくらいなら・・・、本降りになってきたら途中でコンビニか何か
探してビニール傘でも買いますよ」
「この辺りにはコンビニも滅多にないから・・・そうだ!丁度いいわ。エッちゃん、
あれ持ってきて。えーと、あれ、お坊さんの傘」
「え?あ、はいっ」
小柄な仲居がすぐに駆けていき、細長い物を手に戻ってきた。ウッ、と思う。
それは鮮紅色の番傘だった。
「男の方がこんな色の傘を差すのは恥ずかしいとお思いになるかもしれませんけど・・・
これ、縁起物なんですよ。前にうちにお泊まりになったお坊さんが置いていかれた
ものなんです。ほら、柄のところにお経が書いてありますでしょ。このお経と赤い色が
魔除けになるんですって」
これさえあれば海からオバケが出てきても大丈夫、とにこにこ手渡してくる女将の
好意を無にするわけにもいかず、その赤い番傘を受け取って旅館を後にした。
(3)
その日一日、雨は時折パラパラと降ってはまた止むということの繰り返しだった。
――この分なら傘は差さずに済みそうだな・・・
そう思いながら海岸沿いの国道に出ると、ちょうど重く垂れ込めた空の下に
薄ぼんやりと滲むような夕陽が最後の光を放って水平線に沈んでいくところだった。
一気に世界が暗くなる。
それと同時に、霧のような雨がさあっと降りつけてきた。
少しためらったが、誰に会うわけでもない。そう思い例の赤い傘を開いてかざす。
血のように鮮やかなくれない色に、
糊の匂いなのだろうか、粘りつくような甘い香気がふわりと身を包んだ。
その間際、視界の端で波打ち際に佇む人影を見た気がしたのは偶然だったろうか。
こんな暗い雨の中、傘も差さず一人で海に?
不審に思い目を凝らしたが暗くてよく見えない。
急に胸騒ぎがして、俺は浜へと駆け下りた。
くれないの傘に護られたまま波打ち際をぴちゃぴちゃと、周囲に目を走らせながら進む。
だが先程の人影は見当たらないようだった。
――見間違いだったのか?
それならそれでいいと安堵しかけて、最後にもう一度だけ周囲をよく見回してから
戻ろうと、視界を良くするため傘を外した。
その瞬間、波間にざぶりと胸の辺りまで浸かってのめる人のあるのに気がついた。
(4)
「キミ!?」
慌てて荷物と傘を放り出し、波を掻き分けてそこまで進む。
「・・・離してください!放っておいて・・・」
「駄目だ!早まるな、とにかく岸へ戻れ!」
水でするすると滑りそうになる肩と腕をありったけの力で掴み、抱きかかえるようにして
砂浜へと引きずり出す。
重い海水から脱け出た途端にバランスを崩し、二人してそこへ倒れ込んだ。
「うっ・・・」
小さな呻き声に慌てて身を起こす。
「すまない。どこか痛く・・・」
言いかけて、相手のおもてとまともに向かい合い言葉を失う。
赤ん坊の頃からさして変わらない、透けるように清らかな肌膚。
水に濡れて貼り付いた黒い前髪の下から大きな切れ長の瞳がじっとこちらを見つめている。
その瞳に釘付けにされたように動けないでいると相手は観念したようにゆっくり瞼を閉じ、
それと同時に大粒の涙が後から後から長い睫毛を伝って流れ落ちた。
「大事な・・・」
「え?」
夢のように問い返す。相手は流れ落ちる涙を隠そうともせず、
目を閉じたまま小さな唇を動かして囁くように告げた。
「大事なものを失くしてしまったんです。探さなきゃ・・・」
「・・・だからってこんな暗い海に一人で入るなんて無茶にも程があるよ。アキラくん」
名前を呼んでやると驚いたように目を開けた。
(5)
「ボクのこと・・・ご存知なんですか」
どう答えたものか迷いながら、抱き起こして砂を払ってやった。
アキラは幾分落ち着いてきた様子で手の甲で涙を拭っている。
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
はにかんだように笑んで礼を述べた後、アキラは自分と同様ずぶ濡れの俺を見て
困った顔をした。貼り付いたシャツの腕の辺りをちょっと引っ張ってみて言う。
「ごめんなさい。ボクを助けようとして濡れちゃったんですね。どうしよう・・・」
これくらい大丈夫だよ、と言いかけた時、鋭い声が辺りに響いた。
「アキラ!?そこで何をしている」
振り向くと厳めしい表情を浮かべた和装の熟年男性が、行燈のようなものを提げて
立っていた。アキラがぱっと明るい表情になって立ち上がる。
「お父さん」
先生はずぶ濡れで砂まみれの息子の姿を見て一瞬顔を強張らせたが、
すぐに俺もまた同じ状態であることに気づき何らかの事情を察したらしい。
「アキラ、これはどういうことだね。そちらの方は?」
「ボク、海の中で探し物をしていて・・・結構深いところまで入っちゃってたんです。
そしたらこの方が助けに来てくださって・・・」
「そうだったのか。息子がご迷惑をおかけしたようで、申し訳ない」
深々と頭を下げられて返答に困る。
このまま帰すわけにはいかないときっぱりとした口調で宣言されて、
俺はその夜先生とアキラが暮らしているという家に招かれることになった。
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