座敷牢中夢地獄 31 - 35


(31)
アキラの言葉どおり、風呂から上がると居間に朝食の支度が整えられていた。
風呂での一件でアキラが父親に叱られているのではないかと案じていたが、昨日と同じ
ように先生は上機嫌で、アキラのことやここに来てからの生活のことなど、この人に
しては饒舌に語ってくれた。
「・・・これが子供の頃は、私が仕事で出かけるたびに袖に取りすがって行っちゃやだ、
行っちゃやだとオンオン泣かれたものだったよ。その声がどうも御近所中に響き渡って
いたらしくてね。道を歩けばアキラくんはお父さんが大好きみたいですね、などと
ほとんど挨拶代わりのように言われたものだ」
「はあ」
「あの頃は私も多忙だったからな。いつも持ち歩いていた手帳があって、それを開けば
仕事の予定がびっしりで・・・おまえはあの手帳を嫌っていたな、アキラ」
「そうでしたっけ?よく憶えてませんけど・・・」
「ああ。手帳さんキライ!と言っては私の手からはたき落としたり・・・
そして時々その手帳がなくなるんだが、探すと必ず屑籠の中に入っているのだ。
どうも、子供心にコレさえなくなれば父親の外出を止められると思ったらしいな。
・・・そう言えばあの手帳もいつの間にか見なくなったが、どこへやったか・・・
うむ。まあそんな話はいい。緒方くん、お代わりはどうだね」
「あ、はい。では少し」
「アキラの料理の腕はなかなかだろう」
「ええ、美味いですね。どれもこれも」
お世辞ではなかった。目の前の食卓には簡素なものから手が込んだものまで様々な料理が
並んでいるが、そのいずれもがこれは、と膝を叩きたくなるほど美味い。
昨日の夕食や酒肴も全てアキラが作ったものと聞いて感心した。


(32)
「ここに来てから勉強したんです。ここは何もないから、せめて食事だけは美味しい物を
お父さんに食べてもらおうと思って・・・」
アキラが恥ずかしそうに微笑んだ。
先生が上機嫌とは言っても、やはり今日のアキラはどことなく元気がないように見えて
気にかかっていたのだが、一言父親にほめられればたちまち嬉しそうに顔を輝かせる。
部外者がなんと言おうと、アキラに対する父親の強大な影響力は決して突き崩せはしない
ものなのだろう。
夢の中でも、現実でも。
「どうぞ、緒方さん」
「ありがとう。・・・」
汁椀をやり取りする手と手が触れる。
目が合うとアキラはニコッと笑う。
アキラの言うとおりもうすぐ俺がこの家を経つことになるなら、夢のアキラとはじきに
お別れなのだろう。
・・・・・・
どうせ夢なら、いっそ全てを壊してキミを連れて逃げてやろうか。
だがきっとそうしたらキミは泣いて俺を怨むだろう。俺を嫌いになるだろう。
ありったけの思いを込めて抱きしめても、俺の腕の中で別の誰かを懐かしむだろう。
そうして俺は永遠にその誰かには敵わないのだと、俺に思い知らせるだろう。
俺はそれに耐えられない。
もし何かきっかけさえあれば、キミのために俺はこの命すら投げ出すことが出来るのだと
証立てることも出来るだろうに。
そうしたら少しはキミの心に俺という存在を刻みつけることも出来ように。
そんな受身で身勝手な願い事を胸に抱えて生きている。
アキラのあの柔らかな唇が小さく開いては食物を中に受け入れ、ゆっくりな速度で
咀嚼の動きを繰り返すのを見つめながら。


(33)
「アキラ、あれを」
「・・・はい」
食事が済むと、アキラが盃と、黒っぽい色の小さな甕を盆に載せてやって来た。
「秘蔵の酒だ。餞別代わりに一杯、飲んでいきたまえ」
アキラに目を遣るとあの澄んだ目で俺に目配せをし、小さく首を振ってみせる。
「・・・昼間は、酒は入れないことにしていますので」
「一杯くらいいいだろう。アキラ、お酌を」
「でも、お父さん。緒方さんがこうおっしゃってるんですから、無理にお勧めするのは・・・」
さりげなく先生をたしなめるアキラの声は、少し緊張しているようだった。
俺のためにアキラが父親に反論してくれているという事実に、呑気にも胸が熱くなる。
だが先生は途端に不機嫌そうな顔になって腕組みをすると、俺の顔をねめつけた。
「緒方くん。・・・うちのアキラの盃が飲めないというのかね?」
「・・・はっ?」
まさかそう来るとは思っていなかった。
二の句を継げないでいると、アキラが先生の袖を引っ張る。
「お父さん。そんな言い方・・・!」
「おまえは黙っていなさい。・・・ふむ、では質問を変えようか。緒方くんはアキラのことが
嫌いなのかね?」
「え」
思わずアキラのほうを見る。答えはわかり切っている。
「そんなことは」
「ないのかね。・・・ということは、好きなのかね?」


(34)
唖然として言葉を失う。
俺の師匠は真顔でこんなことを言う人だったろうか?
「それは、」
声が上手く出ない。重い鎧が喉を締めつけるのだ。
アキラは今どんな顔で俺の言葉を聞いてる?
俺が動揺する様を楽しむように先生は喉の奥で笑った。
「あぁいやすまない、答えてくれなくても良いのだよ。普通に考えれば、会ったばかりで
好きも嫌いもなかろうからな。ただ・・・」
先生の目が一瞬炎のように厳しく光った。
それと同時に先生の纏う空気がぐわりと巨きく膨らんだ気がして、俺は息を呑む。
火のような眼光。見つめられれば呼吸が苦しくなるほどの、強大な威圧感。
鎧などで卑屈に身を護らずとも、己が一身に備わる力だけで世界を敬服させ、臣従させて
しまうことのできる男がそこに立っている。
全身が竦みあがり身動き一つできないでいる俺の前で、威圧する男はゆっくりとその
力に満ちた視線を宙に浮かせた。
「私なら。愛する者が差し出す盃であれば、たとえそれが毒であろうと全部飲み干して
みせる。・・・それで命を落とそうと悔いはない」
深々とした声でそう言い終わると、男は静かに目を閉じた。

その目が再び開いた時、あの強大な威圧感は消え、元の鷹揚な表情を浮かべた先生に
戻っている。
「まぁしかしキミにこんなことを話しても仕方がなかったな。たまたま縁あって泊まって
もらうことになったが、もともとキミは私たち父子とは何の関係もない、旅の人だ。
アキラの盃がキミにとって特別な意味を持つはずもない。すまなかったね、緒方くん。
・・・アキラ、もう片付けていい。緒方くんは飲まないそうだから」
ほっとしたようにアキラが酒甕を抱えて、持ち去ろうとする。
だが俺は咄嗟にそれを呼び止めてしまった。
「待ってくれ。・・・アキラくん」


(35)
アキラがびくっと振り向く。
俺は迷わずアキラに向かって、まだ中身の注がれていない盃を差し出した。
強張った表情でアキラが俺を見つめる。
「・・・冗談はやめてください」
「冗談じゃないさ」
視線と視線が真っ直ぐにぶつかり合う。アキラの澄んだ目が怯えたように揺れる。
俺は臆病で卑怯な男だ。キミを抱いておきながら、真実の想い一つ伝えてやれない。
だがそれでも、何かきっかけさえあればと。
言葉には出せずともせめてこの心を証す機会をと。
受身で身勝手で、けれど真摯な、願い事を胸に抱えて生きてきた。

先生は「ほう」と一声上げたまま、面白そうに腕組みをして成り行きを見守っている。
別にアンタの挑発に乗ったわけじゃない。ただ、俺が待ち望んでいた千載一遇の機会が
目の前に巡ってきた。それを逃したくないだけだ。
「どうして・・・」
不吉な甕をぎゅっと胸に抱き締め、黒い髪をサラサラと左右に揺らしながらアキラが問う。
・・・その甕に何が入っているのか、俺は知らない。もしかしたら俺に災いをもたらす
ものかもしれない。それでも俺がこうするのは、
「・・・キミの盃で不幸になるなら、俺に悔いはないからだ」
アキラの大きな目が更に大きく見開かれる。だが理由はそれだけじゃない。
俺を逸らせているこの抗い難い衝動の正体は、きっとキミを海に入らせたのと同じものだ。
キミの心がどの程度俺に向いてくれているのか、俺はてんで自信がない。
それでももしキミが、息絶えて横たわる俺を前にしたら、少しは悲しい顔をしてくれるのだろうか。
その曇りない瞳から一しずくくらいは涙を零してくれるのだろうか。
それが知りたい。
キミが俺のために流す涙が見たい。
他の誰でもなく俺によって、キミの心が動かされたという証が欲しい。
涙。涙。塩の味の水。



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