夏祭り 10 - 12
(10)
「ふぅ…っ」
満足げな大きな溜息をついて、アキラは起こしていた上半身を後ろに倒した。
タオルで首元に滴った雫を拭いながら前髪を掻きあげてやると、アキラはうっとりと目を
閉じる。あらわになった額に自分の額をくっつけて体温を確かめると、そう俺と変わらない
体温に戻っていた。
「大分楽になったみたいだね」
「うん。すごく喉が渇いてたみたい」
アキラは目を閉じたまま唇の端だけを綺麗に上げて微笑む。喉をくすぐるとそのままグルグル
と啼きそうな様子だ。
「……ね、さっきの人、尚志さんのお母さんでしょ?」
我慢できずに、アキラの弾力性のあるグミのような唇を口に入れる。返事の代わりだ。
先ほど飲んだウーロン茶のせいかアキラの唇は少し冷たくて、本物の佐藤錦のようだった。
しかし、こちらの方が何倍も貴重なものだ。唯一無二にして極上。そして、佐藤錦は頻繁に
盗難に遭っていたが、このアキラ錦は俺以外には口にできないときたもんだ。
「尚志さんにも心配かけちゃったし、お母さんにもひどく迷惑をかけてしまいましたね。
…ごめんなさい。もし尚志さんのご家族に会うことがあったら、もっときちんとご挨拶した
かったのに」
「謝らなくていいって。…な? アキラたん」
大事な大事な生きた宝石が俺の手の中にいる。それだけでいい。
(11)
「そうだ。聞きたかったんだけど、外にいたのはどうして?」
アキラ錦を親指でクニクニと弄びながら訊ねると、わかってるんでしょう、とアキラは頬を
膨らませた。先ほどよりもずっと血の通った薔薇色の頬を、まるで搗きたての柔らかな餅の
ようにぷっくりと膨らませる。
「わかってないから聞いてるんだよ、アキラたん」
親指を歯の隙間から中に差し入れると、口を閉じられなくなったアキラは口の端から唾液を
滴らせた。それらがアキラの髪を湿らす前に、俺は舌で掬い取る。
「麻奈…さん……を見たかったんだ。尚志さんは妹みたいだって言ったけど、麻奈さんはそう
思ってないかもしれないじゃないですか」
「ただの幼なじみだって言っただろ?」
アキラが寝ているベッドに上半身を倒してアキラの顔を覗き込むと、アキラは子供がよくやる
イヤイヤをした。明らかに俺の視線を避けようとしている。
「それは尚志さんの願望かもしれない。…尚志さんは、自分がどれだけカッコイイのかまる
でわかってないんだ……!」
俺の方を頑なに見ようとせず、アキラは天井を睨みつけて言葉を荒げた。いつもは他人行儀と
思えなくもない丁寧語を離すアキラだから、こういった感情の吐露は俺に甘い興奮を与える。
「麻奈がせめてアキラたんくらいの年齢ならそういうこともあったかもしれないけどね…」
ふと、アキラが俺のほうに顔を向けた。無防備な表情で、白と黒のコントラストが鮮やかな
瞳が俺だけを映している。
(12)
「ちょっとまってて。呼ぶから」
「尚志さん、駄目……っ!」
俺はドアを開けると、階下に向かって麻奈の名を叫ぶ。
ばさりと音がして振り返ると、どうしてかアキラは俺愛用のタオルケットを頭から被り、
丸くなっていた。
すぐに返事があり、俺や母親がかかりきりになっている『倒れていた男の子』に興味津々
だったはずの麻奈は階段を駆け上がってくる。
「麻奈、この兄ちゃんの具合が悪いから、祭りには母ちゃんに連れて行ってもらえ」
「えー」
子供の麻奈はいかにも子供らしい不満の声をあげる。
「母ちゃんのが金持ってるから色々買ってもらえるって」
「そうかなぁ」
麻奈の声はアキラが聞いても明らかに子供の声だ。その証拠に、アキラは被っていたタオル
ケットを少しずつ捲り、顔を覗かせはじめている。すぐに、アキラは自分の心配ややきもちが
無駄だったことに気づくだろう。
「第一、俺はわたあめは買ってやらないぞ。あんな砂糖が500円もするなんて、冗談じゃない。
元値は20円くらいだぞ、20円」
「じゃあおばちゃんに連れてってもらうー」
「…ボクも行きたいな」
いつの間にかタオルケットを肩まで下げていたアキラがそう言ってにっこりと微笑んだ。
「尚志さん、連れて行ってください」
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