座敷牢中夢地獄 10 - 13


(10)
釈然としない思いはあるものの、海で冷えた体に熱い湯が生き返る心地だった。
風呂から上がり廊下に出ると、心地良い涼気が体を包んだ。
先生やアキラはどこにいるのだろう。
と、左の方向からぼそぼそと低い話し声が聞こえる。あちらが居間だろうか。
声のするほうへと進み、灯りの洩れる部屋の中を何とはなしに覗き込んだ。
だがそこで目にした光景に、俺はぎょっと固まってしまった。

「お父さん・・・でも・・・」
「・・・他に方法があるのか?あるなら私とて・・・」
俺のよく知る二人が、ぴったりと抱き合いながら話をしていた。
正確に言うと、座った先生の膝にアキラが横向きに乗り、先生がそれを抱く形で
二人は話していた。
先生は小さな子供を寝かしつける時のようにアキラの体を軽く揺すったり叩いたりし、
アキラはそんな先生の首に両腕を回してしがみつきながら目を閉じている。
親子と言うよりは恋人同士が睦言を交わしているのかと見紛うような雰囲気にドキリとする。
それと同時に、俺の位置からちょうど良く見えるアキラの、せつないくらい幸福そうな
安心しきった表情に心臓を抉られた。
なんだこれはこんなものを俺に見せるな。見せないでくれ。頼むから。頼むから。

――脇腹に鋭い痛みがある。

頭を抱えて死にたくなるような気分に襲われて、思わず身を縮こまらせると
足の下でミシリと音がした。
その音で気づいたのだろう、先生がこちらを振り向いて「ああ上がったのかね。
こちらに来たまえ」と穏やかな声で呼びかけた。


(11)
「湯加減はどうだったかね」
「いいお湯でした」
俺が部屋に入って座布団を勧められる段になっても、アキラは何も聞こえないかのように
目を閉じたまま父親の膝の上から離れようとしない。
先生がそんなアキラの背中をポンポンと叩きながら促した。
「アキラ。おまえも風呂に入ってしまいなさい」
「・・・・・・」
アキラがむずかるように先生の肩に顔を埋め、イヤイヤをする。
「まだ寒い・・・」
「風呂に入れば温まるだろう?緒方くんに呆れられてしまうぞ。ホラ」
突然ダシにされても困るのだが。
先生がアキラの真っ直ぐな髪を丁寧に何度も撫でてやると、アキラは漸く名残惜しそうに
頭を上げ、傍らに置いてあった着替え一式を手に廊下へと出て行った。
その間アキラは俺を一瞥もしなかった。
古傷のような痛みが胸をよぎる。

「今日はすまなかったね。アキラが出てきたら夕飯にするから少し待っていてくれたまえ」
「はあ」
「・・・奇妙に思うだろうね。あれはもう大きいのに、さっきのような・・・」
「いえ・・・」


(12)
どうにも答えようがない。
それどころか、目の前の男の顔を見るのすら苦痛だった。
憮然と押し黙っている俺に、先生は気を遣うように言った。
「ここに来てから、あの子を少し甘やかしすぎたとは思っているのだよ。
だが、昔まだほんの子供だったあの子がプロの碁打ちを目指すと言い出してからは、
親子の情愛で馴れ合いすぎないよう私のほうが意図的に厳しく接してきた部分があってね。
本当はもっと世の親子のように普通の愛情を注いで育ててやるべきだったのではないかと、
ずっと悔いていたのだ。・・・だから東京での生活を捨ててここへやって来たことは、
碁打ち同士としてではなく親子としての関係を一からやり直す、よい機会だったと思って
いるのだよ」
淡々と話す先生の声は常と変わらず穏やかだ。
俺などの目から見ると、一粒種の息子に対する先生の態度は十分親馬鹿に見えたし、
碁という絆がある分、世間一般の親子より余程強い繋がりをこの父子には感じていた
ものだ。
ただ、一緒に遊んだりスキンシップしたりといった点について言うと、確かにアキラが
一定以上の年齢になってからは、この父子が近しく触れ合う姿をあまり見たことがなかった。
――だがそれにしたってさっきの光景は、ただの父子の触れ合いには見えなかった。
俺の、薄暗い劣等感が、物事を歪んだ目で捉えさせてしまっているだけなのか?

その時ふと、先生の傍らに碁盤と碁笥が置いてあるのに気がついた。
こんなに近くにあったのに今まで気づかなかったなんてどうかしている。
――もしここでこの人に勝てたなら、何かが変わるだろうか?
俺の視線に気づいた先生が目を上げた。
「君も碁をやるのかね?」
「はい」
対局の運びとなった。


(13)
どうせ夢なら思い通りにいってくれても良さそうなものだ。
自ら願い出て互先で本気の碁を交えた結果、俺は術もなく負けた。
先生の碁は揺るぎなく、付け入る隙すらなかった。
――夢の中でまで俺はこの人には勝てないのか。
情けなかった。
筋がいいと賞めてくれる先生の声もどこか遠くで響いているような気がした。
「さて、それでは食事にしようか」
先生の声に顔を上げると、すぐ横に風呂から上がったアキラが正座して俺たちの対局を
見守っていた。
目が合うと花の綻ぶようにニコッと笑って、興味深げに盤面に目を戻す。
・・・あまり見ないで欲しい。

ある程度の年になって以降は、周囲の人間から見て俺は尊大な男に映ったかもしれない。
だが本来の俺は人より繊細で羞恥心の強い、臆病な若造に過ぎなかった。
そんな自分を護るために碁の勉強に打ち込み、社会的地位と金の力でありったけ身を
鎧ってきたのだ。
しかしここが夢の中で、この世界において自分がどのような位置づけにあるのか
今ひとつわからないせいもあるのだろうか、俺は何かとても不安定で脆弱な、
些細な事でぐらぐら揺れる若造の頃の自分に戻ってしまったかのような頼りない気分に
襲われていた。



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