無題 第3部 11


(11)
「随分遅くなってしまったな。帰るなら、送って行くよ。」
エレベーターに乗り込んで、緒方は無意識に眼鏡を外して胸ポケットに入れた。
その動作に、さりげなく肩にまわした手の下で、アキラの身体が小さく反応した。
アキラが緊張したような顔で、緒方の瞳を見上げた。そして一瞬、彼の瞳を見詰めた後、また、
無言で足元に視線を落とした。
エレベーターが地下駐車場に着いて、まず緒方が先に出て、アキラがその後をついてきた。
そのまま緒方は自分の車へと歩みを進めたが、後ろでアキラが足を止めたのに気付いて、
振り返った。アキラは足元のコンクリートを見詰めて、何か逡巡しているようだった。

アキラは困惑していた。
つい先程の対局の、盤上で交わされる、黒石と白石の無言の対話は、いつしか、アキラに、
緒方との間に起きた事を忘れさせた。あそこに、碁会所にいたのは以前と変わらぬ、アキラが
小さい頃から良く知っていた「緒方さん」だった。
けれどその人はいつの間にか、今のアキラが知っている別の男にすり替わってしまっている。
碁盤を見詰める冷静な瞳は、アキラを見詰める情熱的な瞳へ。
厳しい音を立てて石を置いていた指先が、アキラの身体に触れると、それは別のものに変化して
彼の身体に、それ以前には知らなかった感覚を呼び覚ます。
違う。そうじゃない。アキラは思い直した。
別の人なんじゃない。どちらも「緒方さん」である事にかわりはないのに。
「アキラ…?」
名前を呼ばれて、アキラは顔を上げた。
そして彼の目に、慈しむような、だが僅かに寂しげな色を見取って、アキラはまた更に困惑した。



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