無題 第3部 11 - 15
(11)
「随分遅くなってしまったな。帰るなら、送って行くよ。」
エレベーターに乗り込んで、緒方は無意識に眼鏡を外して胸ポケットに入れた。
その動作に、さりげなく肩にまわした手の下で、アキラの身体が小さく反応した。
アキラが緊張したような顔で、緒方の瞳を見上げた。そして一瞬、彼の瞳を見詰めた後、また、
無言で足元に視線を落とした。
エレベーターが地下駐車場に着いて、まず緒方が先に出て、アキラがその後をついてきた。
そのまま緒方は自分の車へと歩みを進めたが、後ろでアキラが足を止めたのに気付いて、
振り返った。アキラは足元のコンクリートを見詰めて、何か逡巡しているようだった。
アキラは困惑していた。
つい先程の対局の、盤上で交わされる、黒石と白石の無言の対話は、いつしか、アキラに、
緒方との間に起きた事を忘れさせた。あそこに、碁会所にいたのは以前と変わらぬ、アキラが
小さい頃から良く知っていた「緒方さん」だった。
けれどその人はいつの間にか、今のアキラが知っている別の男にすり替わってしまっている。
碁盤を見詰める冷静な瞳は、アキラを見詰める情熱的な瞳へ。
厳しい音を立てて石を置いていた指先が、アキラの身体に触れると、それは別のものに変化して
彼の身体に、それ以前には知らなかった感覚を呼び覚ます。
違う。そうじゃない。アキラは思い直した。
別の人なんじゃない。どちらも「緒方さん」である事にかわりはないのに。
「アキラ…?」
名前を呼ばれて、アキラは顔を上げた。
そして彼の目に、慈しむような、だが僅かに寂しげな色を見取って、アキラはまた更に困惑した。
(12)
「緒方さん…」
アキラは思いきって顔を上げて、彼に声をかけた。
「ボクの事、怒ってないんですか?」
自分でも何を言っているのだろうと思い、そして、言いながら、この間の夜の事なのかと、後から
思った。自分の中にこんな感情があったのかと、思いもよらないような言葉で、彼を責め、なじった。
知っていた筈の彼の気持ちを踏みにじって、自分の欲望だけを押し通した。
その次の朝、彼のベッドで目を覚ました時、やはりこんな目をして自分を見詰めていた緒方がいた。
―怒っていないんですか?あんな酷い言葉であなたを責めたボクを。
アキラはそう言いたかったのだ。
「なぜ?オレがおまえの事を怒ったり、嫌ったりなんか出来る筈がない。そうだろう?」
そんな言葉を投げかけられて、また、アキラは戸惑った。
「いや、こんな言い方は卑怯だな。あれは、オレが怒るべき事じゃない。
おまえの言った事は正しい。オレはおまえに責められて当然の事をした。」
そう言われて、アキラは小さく首を振って、俯いてしまった。
そんなアキラを黙って見下ろしている緒方の視界に、見覚えのある黄色と黒のメッシュの髪の
少年の姿が映って、緒方の眉がぴくりと動いた。
(13)
―進藤?なぜここに?
碁会所で、市河にここを聞いたのか。
どちらにしろ、進藤がアキラの事をどう思っていようと、アキラが進藤を気にかけている限り、
いつかは進藤とは決着をつける必要がある。
いや、進藤がアキラの事を全然気にかけていない、などと言う可能性はほとんどない。
いつか、アキラに微笑みかけられて真っ赤になって逃げていった進藤を、緒方は思い出した。
今だって、アキラを追って来たのだろう。
では、おまえはどうするつもりだ、進藤?
緒方は心の中でヒカルに呼びかけた。
「だが、今更言い訳をするつもりは無い。」
そしてアキラにそう言うと、困惑した顔で緒方を見上げたアキラの顎を捉えて、唇に軽く触れた。
アキラが驚いて目を見張った。
「言い訳をするつもりは無い。あの時は…ただ、おまえが欲しかった。」
耳元で囁いて、もう一度、今度は深く、アキラにくちづけた。
ゆっくりと、探るように緒方がアキラの口腔内に侵入すると、アキラの舌が躊躇いながらも
それに応えた。
(14)
海王中で引き止められて、すっかり遅くなってしまった。
囲碁部の女の子達にキャアキャア騒がれて指導碁をねだられるのも、正直悪い気はしな
かったのだけれど、それでも、早くアキラに会いたい気持ちで一杯で、じれったかった。
次にヒカルが知っている所と言えば、アキラと初めて会った碁会所だ。
まだいるだろうか。もう帰ってしまっただろうか。
いや、それともここには今日は来ていなかったのかも…
焦りながらヒカルはエレベーターを降りると勢いよく、碁会所のドアを開けた。
「あら、えっと、進藤君?どうしたの?」
その勢いにびっくりしながら受付の女性がヒカルに尋ねた。
「あの、塔矢、いる?」
「あら、残念。今、緒方先生と一緒にお帰りになったわよ。
きっと緒方先生、車だから、今から駐車場にいけば間に合うかもしれないわ。」
教えられた駐車場へ、ヒカルは急いだ。
エレベーターが地下駐車場について、ドアが開いた瞬間に、ヒカルはアキラの姿を見つけた。
「とう…うわっ!」
勇んで出て行こうとしたヒカルの目の前を一台の車が通過した。
危ない、危ない。ここは駐車場なんだから。
深呼吸して、心を落ち着かせて、改めてアキラの後ろ姿を見た。
そして声をかけようとして、だが、アキラと一緒にいる人物に気付いて、なぜかヒカルはその
呼び声を飲みこんだ。
―塔矢と、あれは緒方先生?
(15)
眼鏡をかけていない緒方は、なんだか別人のようだ、とヒカルは思った。
アキラと緒方は向かい合って、何か深刻そうな話をしていた。
声をかけようか迷っているヒカルに、緒方が気付いたようで、ちらりとヒカルの方を見た。
気付かれた、とヒカルは思った。だが、自分にやましい事は何もない筈だ。
そして声をかけようと一歩足を踏み出そうとしたヒカルを見て、緒方は少し笑ったように見えた。
緒方の視線を感じて、ヒカルはなぜかカッと身体が熱くなるのを感じた。
それから。
ヒカルは目を見張った。
―何?今のは…
ヒカルは今見たものが信じられなかった。
アキラは少しびっくりしたように見えたが、しかしそれを拒んではいなかった。
ヒカルには、そう見えた。
―どうして?塔矢…緒方先生…
そんなヒカルに見せ付けるように、緒方はもう一度アキラを抱いてキスした。
しかも、アキラは両腕を緒方の背に回して、そのキスに応えていた。
頭ががんがんする。目の前で起きている事が信じられない。
握り締めた拳がふるえ、目の前が赤く染まった。
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