月のうさぎ 11 - 15
(11)
「アキラくん!?」
緒方が慌ててアキラのパジャマの端を引っ張り引き留める。
今にも地面に達そうとしていたアキラの爪先がくるんと宙を掻き、軽い体が緒方の腕の中に
倒れこんできた。代わりに小さなススキが、縁側の向こうにパサリと落ちた。
「・・・お庭、行っちゃダメ?」
緒方の胴から膝の部分にかけて小さな頭と背中を凭せかけた体勢のまま、アキラはぽつりと
聞いた。いつ眠くなってもいいようにと夕方に風呂に入れられたその体からは、
清潔で甘い匂いがふんわりと漂ってくる。
「庭に、どうして行きたいんだ?」
「ン・・・もっと、お月さまの近くで見たい・・・」
いつまで経っても兎が出てきてくれないことが諦め切れないのだろう。アキラは空に浮かぶ
月から目を離さないまま答えた。
――近くと言っても、縁側と庭先でせいぜい数歩分しか距離は違わないだろうに。
緒方はアキラを縁側の縁にしっかり座らせると、自分は少し先に揃えてあった
大人用の庭履きサンダルをつっかけ、アキラに背を向けて低くしゃがみ込んだ。
「・・・なぁに?」
「なるべく近くで見たいんだろう?乗っていいぜ。・・・肩車だ」
傍らの地面に落ちていたススキを拾い上げ、後ろ手でアキラに渡した。
「わぁっ、すご・・・っく高いねぇ!」
「どうだ?肩車して、良かったろ」
「ウンッ!」
初めアキラは恥ずかしがってなかなか深く跨ろうとしなかったが、ぐらぐらと不安定な
肩上の恐怖に腹を決めたらしい。今ではパジャマに包まれた脚で緒方の首や肩をぴっちりと
息苦しいくらいに締め付け、緒方の頭につかまりながら器用にバランスを取っていた。
ずっと縁側に出ていたせいか、小さな裸足の足はすっかり冷たくなっている。
緒方はそれをアキラが驚いてバランスを崩さない程度にさりげなく、そっと掌に包み込んで温めた。
願わくは今夜、アキラがあの月の隈の秘密に気がついて、兎の夢を永遠に失ってしまうような
ことにならないようにと念じながら。
(12)
「そこからだとよく見えるか?」
「ンー・・・あんまり変わんない」
緒方はカクッとよろけそうになった。確かにその通りだろうが、子供は正直だ。
「あそこの枝は、さっきよりずっとよく見えるのになぁ・・・?どうして・・・」
納得がいかない様子で、アキラはとりわけ背の高い庭木の梢をススキで指差した。
「それは・・・あそこの木に比べて、月のほうがずっとアキラくんの遠くにあるからだよ」
「えー・・・?」
「月はあんまり遠くにあるから、人間がちょっとくらい背伸びしてもほとんど距離は
縮まらないんだ」
アキラは黙っている。まだ少し難しかったろうかと緒方は一瞬後悔した。
だが、アキラは緒方の髪を掴んでもしょもしょと手繰りながら考え考え言った。
「・・・夏休みにねぇ、お父さんとお母さんと、熱海のりょかんに遊びに行ったんだよ。
そしたらね、ボクはどんどん富士山に近づいてるはずなのに、富士山はなかなか大きく
ならなかったの。・・・それと一緒?」
緒方は大きく頷いた。
「そう、それと一緒だな。月は富士山より、もっと遠いからな」
「そう・・・だったら、うさぎちゃん遠過ぎて見えないのかもね」
「え?」
「だって、富士山に登ってる人がいても、下からは見えないでしょ?
・・・だから、お月さまのうさぎちゃんは、ボクには見えないんだねぇ・・・」
憧れて夢見るような口調でアキラは言った。
その言葉に魔法をかけられたように、一瞬、実は本当に月には兎が隠れ住んでいるような
気がした。
――いつも、遠過ぎるから見えないだけで。
夜空にまるく光り輝く月を緒方は眩しく見上げた。
(13)
「ふぅー・・・」
アキラが溜め息をついた。肩の上の体がほんの少しだけ、ぐったりと重くなった。
「・・・そろそろ戻るかい?」
「ウン。・・・その前にもうちょっとだけ、いい?」
「うん?いいよ」
するとアキラは無言で、片手を緒方の髪から離し頭上で何やらし始めた。
重心の移動とフワッフワッと空を切るような気配で、アキラが月に向かって何度も
ススキを振っているのだと察しがついた。
遠過ぎる月に向かって、それでも呼びかけの合図のように、一生懸命に。
しばらくして、緒方の視界に小さなススキが力なく降りてきた。
「・・・もういいのか?」
「ウン。緒方さん、ありがとう」
「・・・きっと」
「エ?」
「きっと、月まで届いたよ」
バランスが崩れないようアキラの脚をしっかり押さえながら、片手で小さなススキを
ちょんちょんと指差してやると、頭上でアキラが声を出さずにコクンと頷く気配がした。
(14)
縁側にアキラを降ろしてから、また二人で元のように障子の陰に座り込んだ。
アキラがこてっと小さな頭を緒方の脇に凭せかけてくる。
「眠くなったのか?」
「ン・・・」
目をしぱしぱさせているアキラの体をゆっくりと横たわらせ、自分の膝に頭を載せさせた。
「寝ちゃっていいよ。後で、運んであげるから」
低い声で囁きながら冷えないように上着を掛け、甘い匂いのする素直な髪をそっと
整えてやると、アキラはうっとりと瞬きをした。
「ねぇ緒方さん、今日、ススキを取りに行ったでしょ」
昼間から片時も離さないススキをぱさんぱさんと眠たげに弄びながらアキラが言った。
「ああ、行ったな」
「お月見の時に、ススキを飾るのって、どうしてだと思う?」
膝の上の小さな頭がのろのろ動いて、澄んだ黒い目がこちらを見る。
少し悪戯っぽい響きを含んだ声は、言外に自分に答えを言わせろと甘く要求している。
上着からはみ出す冷たい足先を手で握って温めてやりながら、緒方は調子を合わせた。
「・・・さぁ、どうしてかな。アキラくんは知ってるのかい?」
「ウン、あのね・・・お月さまには、ススキがいっぱい生えてるんだよ。それでね、
フワフワして気持ちいいから、うさぎちゃんはススキが大好きなの・・・」
(15)
「だから、ススキを飾るんだ」
「そう。お月さまからススキが見えたら、もしかして、うさぎちゃんがお月さまと間違えて、
遊びに来ちゃうかもしれないでしょ・・・」
また兎への執着が甦り目が冴えてきたのか、アキラが身を起こそうとした。
緒方はそれをやんわりと押しとどめてもう一度横たわらせた。
普段ならアキラはもう寝ている時間なのだから、今からあまり興奮させないほうがいい。
ポンポンと寝かしつけるように軽く体を叩くと、アキラは素直に頭を緒方の膝に戻し
体の力を抜いた。
「・・・もし兎が遊びに来たら、アキラくんは何をして遊ぶんだい?」
「えー・・・とねぇ、ご。とねぇ、ときょうそう」
「徒競走?」
「うさぎちゃんは脚が速いでしょ。ボクとどっちが速いかしょうぶするの」
「そうか。・・・碁は、兎よりアキラくんのほうが強いだろうな。何子置かせてやるんだ?」
「えー?それは、うさぎちゃんに『きりょくはどれくらいですか?』って聞いてからだよぉ」
自分のほうが強いと言われてまんざらでもなさそうにアキラはニコニコ笑った。
「それでね、疲れたら一緒にお団子食べるの・・・」
「そうか」
目がトロンとなってきたアキラの眉間を、円を描くようにそっと撫でてやる。
今夜の夢の中で、アキラはきっとくたくたになるまで兎と駆けまわって遊ぶのだろうと思った。
今日見たススキの原のような、見渡す限りの――月の原っぱで。
|