月のうさぎ 21 - 24


(21)
「・・・風邪を引くぞ」
白い光を放つようなアキラの体を毛布で覆ってやってから、その同じ毛布にくるまって
緒方は後ろからアキラを抱き締めた。
アキラが小さく身じろぎをする。
どれだけの間こんな格好で寝ていたのか、アキラの体は冷え切っていた。
思わずぶるっと鳥肌を立てながら、滑らかな冷たい背中を自分の胸にぴったりと引き付ける。
それから緒方は丸まって眠るアキラの膝から脛へと掌を滑らせ、氷のような足先を
手探りで探し当てるとそっと握って温めた。

――昔もこんな風にして温めてやったんだったな。
夢の中の小さなアキラの足の冷たさを思い出す。
空を見れば、あの宴の夜と同じ月が照らしている。
あの時も今も、アキラを守りたいと願う気持ちは少しも変わらないのに
自分はいつからアキラにとって苦痛をもたらすばかりの存在になってしまったのだろう。

「アキラくん」
囁いた声が震えているのが自分でわかった。
だから二度目からは声を出さずに口の動きだけでアキラくん、アキラくんと名を呼びながら、
緒方は月の光の中で青みがかって見える黒いアキラの髪に顔を埋めた。
まだ乾き切らないしなやかな髪からは、緒方の愛用する洗髪料の匂いがひんやりと香ってくる。
肩や首筋の滑らかな皮膚には、これも緒方のバスルームに置かれてあったボディソープの
匂いが薄くまとわりついている。


(22)
あの月見の晩に自分の腕の中に倒れこんできたアキラの体は、柔らかな素材のパジャマと
あの家の石鹸の匂いでふんわりと優しく包まれ、護られていた。
それが今は身に着けるものもなく、髪の毛の一本一本から足の爪先に至るまで自分の
愛用の匂いに染められている。
そのことが可哀相で愛しくてならなかった。
冷え切ったアキラの体が緒方の体温を奪って少しずつ温かさを取り戻し、丸く縮こまっていた
四肢の緊張がほどけていく。
自分のために冷たく冷えてしまったこの肌に、体温を全て奪い去られてもいいと緒方は思った。

アキラの中で月の兎の夢は、あの夜、自分の膝の上で消えたのだろうか?
それはいまだに分からないままで、だがそうであろうとなかろうと大した違いはないのだと
いう気もする。
どのみち、アキラの子供時代は自分が終わらせることになっていたのだ。
あれから何年も経って、やたら綺麗に育ったアキラの白い身体に自分が保護欲以外の感情を
覚えた時、アキラの子供時代は死に絶えたのだ。
――それでもオレは本当にキミを、
守りたかったのだ。
守りたいのだ。
何を言っても言い訳にしかならないのはわかっているけれど。
澄んだ瞳に月の光を一杯に映して兎を夢見ていたアキラの姿が、目の裏に鮮やかに浮かぶ。

「ん・・・」
「あ、こら。・・・危ないぞ」
アキラが向こう側に寝返りを打ってベッドの端から落ちそうになったのを慌てて抱き止めた。
そのまま少し奥まで引き寄せると、緒方は片肘をついて身を起こしアキラの顔を覗き込んだ。
一人ぼっちで眠りについたアキラに、せめておやすみのキスでもしてやろうと思ったのだ。
だが緒方はそのまましばらくの間、触れることをせずに月明かりに照らされたアキラの寝顔を
しみじみと眺めた。


(23)
ここにいるのは、
四肢の自由を奪われて苦痛と快楽に顔を歪めていた先ほどのアキラではない。
父親をも超える器を見せつけて王のように盤上を支配していく、猛々しいほどの
アキラでもない。
幼い頃と同じ、小さな呼吸を繰り返して一心に眠る可憐なばかりのアキラだった。
清らかな月の光に照らされたその寝顔が何かとても神聖なものに感じられて、
緒方はしばし身動きすることも忘れて見入った。
よく見るとその透きとおるような目頭の窪みに、きらりと光るものを塗りつけたような
跡がある。
触れてみると冷たく濡れていた。反対側の目尻を指でなぞってみると、そこも少し濡れている。
アキラが戻ったことにすら気づかず自分が寝入っている横で、アキラが泣きながら
眠りに就いた証だった。

それを覚った瞬間、息苦しいほどのいとおしさとたまらない情欲が緒方の奥から同時に
突き上げた。
神聖な寝顔の上に影を落として、震える唇でアキラの涙の跡と唇に触れた。
それから自分の匂いが絡みついたアキラの髪と首筋に顔を埋め、嗚咽のような荒い息を
立てながら先ほどまで自分が責め立てていたその箇所を指で探った。
――嫌がるだろうか。またアキラを泣かせるのだろうか。
だが今、アキラを愛しいと思っている今、アキラを抱きたいと思った。
「アキラ、くん」
獣のようだと思いながら掌に吸いつく滑らかな双丘を押し開いて、固く滾り立った欲望を
そこに押し当てようとした時、アキラがそれから逃れるように軽く身をよじった。
「ン・・・イヤ・・・折角・・・」
「え?」
荒い息で囁くように聞くと、アキラは状況を把握していないらしい眠たげな声で言った。
「折角・・・いい夢・・・見てたのに」
「夢?」
「・・・ん・・・緒方さんと、うさぎちゃんと月で遊ぶ夢・・・」


(24)
緒方の手が止まった。
押し開いていた箇所から手を離すとアキラは何かむにゃむにゃと甘い声を洩らした後、
また規則正しい寝息を立て始めた。

――澄んだ目を輝かせて自分に兎の夢を語っていたアキラは、
もう二度と戻って来ないのだと思っていた。
それに、
「・・・オレも一緒に、月に連れて行ってくれるのか?」
返事はない。
だが、瞼を閉じたままのアキラの顔には微かに幸せそうな微笑みが浮かんでいる。
その微笑みを見つめ、窓の外の円く満ち足りた月を見つめ、
緒方はアキラを夢から引き戻さないようそっと背中からその体を抱いて目を閉じた。
――今からでも、自分もアキラと同じ夢を見て、月の世界でアキラと会えるだろうか?

こんな自分でも、アキラが信じてくれるなら月に届きそうな気がした。


夢の中でアキラはきっと、月の原を全力で駆けている。
そこは清らかな風が満ちる一面のススキ野原だ。
兎が跳ね回り、
白銀の綿毛のようなススキが靡く月世界で、
どこまでもどこまでも駆けて行くアキラを追いかけて追いかけて捕まえたいと思った。


傷つけても、
夢の中のようには幸せを与えてやれなくても、
来年の今夜も再来年の今夜もそれから先もずっと、
この同じ月の光の下でいとおしいアキラに触れていたいと願った。

                                                <終>



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