座敷牢中夢地獄 11 - 15


(11)
「湯加減はどうだったかね」
「いいお湯でした」
俺が部屋に入って座布団を勧められる段になっても、アキラは何も聞こえないかのように
目を閉じたまま父親の膝の上から離れようとしない。
先生がそんなアキラの背中をポンポンと叩きながら促した。
「アキラ。おまえも風呂に入ってしまいなさい」
「・・・・・・」
アキラがむずかるように先生の肩に顔を埋め、イヤイヤをする。
「まだ寒い・・・」
「風呂に入れば温まるだろう?緒方くんに呆れられてしまうぞ。ホラ」
突然ダシにされても困るのだが。
先生がアキラの真っ直ぐな髪を丁寧に何度も撫でてやると、アキラは漸く名残惜しそうに
頭を上げ、傍らに置いてあった着替え一式を手に廊下へと出て行った。
その間アキラは俺を一瞥もしなかった。
古傷のような痛みが胸をよぎる。

「今日はすまなかったね。アキラが出てきたら夕飯にするから少し待っていてくれたまえ」
「はあ」
「・・・奇妙に思うだろうね。あれはもう大きいのに、さっきのような・・・」
「いえ・・・」


(12)
どうにも答えようがない。
それどころか、目の前の男の顔を見るのすら苦痛だった。
憮然と押し黙っている俺に、先生は気を遣うように言った。
「ここに来てから、あの子を少し甘やかしすぎたとは思っているのだよ。
だが、昔まだほんの子供だったあの子がプロの碁打ちを目指すと言い出してからは、
親子の情愛で馴れ合いすぎないよう私のほうが意図的に厳しく接してきた部分があってね。
本当はもっと世の親子のように普通の愛情を注いで育ててやるべきだったのではないかと、
ずっと悔いていたのだ。・・・だから東京での生活を捨ててここへやって来たことは、
碁打ち同士としてではなく親子としての関係を一からやり直す、よい機会だったと思って
いるのだよ」
淡々と話す先生の声は常と変わらず穏やかだ。
俺などの目から見ると、一粒種の息子に対する先生の態度は十分親馬鹿に見えたし、
碁という絆がある分、世間一般の親子より余程強い繋がりをこの父子には感じていた
ものだ。
ただ、一緒に遊んだりスキンシップしたりといった点について言うと、確かにアキラが
一定以上の年齢になってからは、この父子が近しく触れ合う姿をあまり見たことがなかった。
――だがそれにしたってさっきの光景は、ただの父子の触れ合いには見えなかった。
俺の、薄暗い劣等感が、物事を歪んだ目で捉えさせてしまっているだけなのか?

その時ふと、先生の傍らに碁盤と碁笥が置いてあるのに気がついた。
こんなに近くにあったのに今まで気づかなかったなんてどうかしている。
――もしここでこの人に勝てたなら、何かが変わるだろうか?
俺の視線に気づいた先生が目を上げた。
「君も碁をやるのかね?」
「はい」
対局の運びとなった。


(13)
どうせ夢なら思い通りにいってくれても良さそうなものだ。
自ら願い出て互先で本気の碁を交えた結果、俺は術もなく負けた。
先生の碁は揺るぎなく、付け入る隙すらなかった。
――夢の中でまで俺はこの人には勝てないのか。
情けなかった。
筋がいいと賞めてくれる先生の声もどこか遠くで響いているような気がした。
「さて、それでは食事にしようか」
先生の声に顔を上げると、すぐ横に風呂から上がったアキラが正座して俺たちの対局を
見守っていた。
目が合うと花の綻ぶようにニコッと笑って、興味深げに盤面に目を戻す。
・・・あまり見ないで欲しい。

ある程度の年になって以降は、周囲の人間から見て俺は尊大な男に映ったかもしれない。
だが本来の俺は人より繊細で羞恥心の強い、臆病な若造に過ぎなかった。
そんな自分を護るために碁の勉強に打ち込み、社会的地位と金の力でありったけ身を
鎧ってきたのだ。
しかしここが夢の中で、この世界において自分がどのような位置づけにあるのか
今ひとつわからないせいもあるのだろうか、俺は何かとても不安定で脆弱な、
些細な事でぐらぐら揺れる若造の頃の自分に戻ってしまったかのような頼りない気分に
襲われていた。


(14)
「互先でお父さんとこれだけ打てるなんて凄い」
アキラの声に意識を引き戻された。
「・・・負けちゃったけどね」
「いえ、凄いです」
あの澄明な目がしっかりと俺を見据え、俺を肯定してくれる。
そうすると薄暗く塞いでいた胸の内が、少しずつ晴れていくような気がする。
「ありがとう。・・・キミのお父さん、強いね」
「!はいっ」
俺が父親のことを誉めるや、それまでとは比べ物にならないくらい弾んだ声で
嬉しそうに答える。
それを見るとたちまちまた胸の内に暗雲が差す。

「アキラ、お話なら後にしなさい。夕飯が冷めてしまう」
「はい」
立ち上がりながら、アキラが俺の耳元に顔を寄せて囁く。
軽い吐息が温かく耳に触れる。
「お父さんも久しぶりに強い人と打てて嬉しいと思います。ボクのせいで最近ちっとも、
他の人と碁を打っていないから・・・」
俺が見つめると、ちょっと寂しそうな顔をした後でアキラはまたニコッと笑った。
アキラの療養のため東京を離れたという先生の言葉が頭をよぎった。


(15)
あれは神話の話だったろうか。
黄泉の国の飲食物を口にした者はその世界の住人となってしまい、
もはや現世へ戻ることは叶わないのだという。

食卓で先生と俺が向かい合って座ると、アキラは迷わず自分の箸と茶碗を先生の席の
隣に配した。
湯気の立つ白い米飯をアキラがよそい、酒を先生がトクトクと俺の盃に注ぐ。
「今日は世話になったね。まあくつろいでくれたまえ」
先生は上機嫌に見えた。
どこを旅行して回ったのかとか、普段はどんな仕事をしているのかとか、
同居人はいるのか、またこの家へ来る前に最後に人に会ったのは何時頃どこで。など
かなり色々なことを根掘り葉掘り訊かれた気がするが、それらの問いにいちいち何と
答えたのかよく覚えていない。
アキラは先生と俺の会話を聞いているのかいないのか、時折思い出したように相槌を
打ちながら、自分の速度で箸を進めていた。
――そう言えば昔からゆっくり物を食べる子だった。
俺が若い時分は先生の家でよく夫人の手料理を振舞われたものだが、そんな時も
幼いアキラは俺や先生の三分の一にも満たない量の食事を俺や先生の倍以上の時間を
かけて漸く平らげるのが常だった。
・・・・・・
いただきますとご馳走様は家族揃って言うことと定められていた塔矢家では、
先生もアキラに合わせてどんなに忙しい時も食べ終わるまで一緒にいる習慣だった。



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