月のうさぎ 13 - 16
(13)
「ふぅー・・・」
アキラが溜め息をついた。肩の上の体がほんの少しだけ、ぐったりと重くなった。
「・・・そろそろ戻るかい?」
「ウン。・・・その前にもうちょっとだけ、いい?」
「うん?いいよ」
するとアキラは無言で、片手を緒方の髪から離し頭上で何やらし始めた。
重心の移動とフワッフワッと空を切るような気配で、アキラが月に向かって何度も
ススキを振っているのだと察しがついた。
遠過ぎる月に向かって、それでも呼びかけの合図のように、一生懸命に。
しばらくして、緒方の視界に小さなススキが力なく降りてきた。
「・・・もういいのか?」
「ウン。緒方さん、ありがとう」
「・・・きっと」
「エ?」
「きっと、月まで届いたよ」
バランスが崩れないようアキラの脚をしっかり押さえながら、片手で小さなススキを
ちょんちょんと指差してやると、頭上でアキラが声を出さずにコクンと頷く気配がした。
(14)
縁側にアキラを降ろしてから、また二人で元のように障子の陰に座り込んだ。
アキラがこてっと小さな頭を緒方の脇に凭せかけてくる。
「眠くなったのか?」
「ン・・・」
目をしぱしぱさせているアキラの体をゆっくりと横たわらせ、自分の膝に頭を載せさせた。
「寝ちゃっていいよ。後で、運んであげるから」
低い声で囁きながら冷えないように上着を掛け、甘い匂いのする素直な髪をそっと
整えてやると、アキラはうっとりと瞬きをした。
「ねぇ緒方さん、今日、ススキを取りに行ったでしょ」
昼間から片時も離さないススキをぱさんぱさんと眠たげに弄びながらアキラが言った。
「ああ、行ったな」
「お月見の時に、ススキを飾るのって、どうしてだと思う?」
膝の上の小さな頭がのろのろ動いて、澄んだ黒い目がこちらを見る。
少し悪戯っぽい響きを含んだ声は、言外に自分に答えを言わせろと甘く要求している。
上着からはみ出す冷たい足先を手で握って温めてやりながら、緒方は調子を合わせた。
「・・・さぁ、どうしてかな。アキラくんは知ってるのかい?」
「ウン、あのね・・・お月さまには、ススキがいっぱい生えてるんだよ。それでね、
フワフワして気持ちいいから、うさぎちゃんはススキが大好きなの・・・」
(15)
「だから、ススキを飾るんだ」
「そう。お月さまからススキが見えたら、もしかして、うさぎちゃんがお月さまと間違えて、
遊びに来ちゃうかもしれないでしょ・・・」
また兎への執着が甦り目が冴えてきたのか、アキラが身を起こそうとした。
緒方はそれをやんわりと押しとどめてもう一度横たわらせた。
普段ならアキラはもう寝ている時間なのだから、今からあまり興奮させないほうがいい。
ポンポンと寝かしつけるように軽く体を叩くと、アキラは素直に頭を緒方の膝に戻し
体の力を抜いた。
「・・・もし兎が遊びに来たら、アキラくんは何をして遊ぶんだい?」
「えー・・・とねぇ、ご。とねぇ、ときょうそう」
「徒競走?」
「うさぎちゃんは脚が速いでしょ。ボクとどっちが速いかしょうぶするの」
「そうか。・・・碁は、兎よりアキラくんのほうが強いだろうな。何子置かせてやるんだ?」
「えー?それは、うさぎちゃんに『きりょくはどれくらいですか?』って聞いてからだよぉ」
自分のほうが強いと言われてまんざらでもなさそうにアキラはニコニコ笑った。
「それでね、疲れたら一緒にお団子食べるの・・・」
「そうか」
目がトロンとなってきたアキラの眉間を、円を描くようにそっと撫でてやる。
今夜の夢の中で、アキラはきっとくたくたになるまで兎と駆けまわって遊ぶのだろうと思った。
今日見たススキの原のような、見渡す限りの――月の原っぱで。
(16)
「うさぎちゃん、今何してるかなぁ・・・」
小さなススキが、月に向かって儚げに揺れる。
眉間を撫でる緒方の指の隙間から、アキラはまだ名残惜しそうに半開きの目で月を見ていた。
月を見ながら、だんだん小さくなっていく声で、途切れ途切れにお喋りを続けていた。
「うさぎちゃんも今日・・・お餅を搗いて、えんかいしたのかなぁ・・・あ、そうだ、さっきの
ご本ねぇ、もう一つヘンだったんだよ。・・・お正月にお餅を搗く時は、二人でやるでしょ?・・・
なのにね、あのご本のうさぎちゃんは一人で・・・
・・・あ」
その時のアキラの表情は見ていない。
緒方は咄嗟に、眉間を撫でていた手でアキラの目を覆ってしまったのだった。
「あら、アキラさん寝ちゃったかしら?メロンを切ってきたんだけれど」
柔らかな声に振り返ると、香り高い碧と橙色の果実を二人ぶん皿に載せた明子夫人が
室内の煌くような賑わいを背に微笑んでいた。その後ろから赤い顔の芦原がひょいっと
覗き込んでくる。
「えー、アキラもう寝ちゃったんですかぁ。ひどいですよ緒方さん、自分ばっかりアキラと
ほのぼのしちゃってぇ。オレなんか何杯飲まされたと思ってるんですか〜。ホントに
寝ちゃったのかよ、遊ぼうよ〜。アキラぁ」
「わっおい、芦原」
酔っ払い特有の憎めない図々しさで、芦原がニコニコとアキラの目を覆っている緒方の手を
取り除けた。
その下のアキラがどんな表情をしているかと、緒方は一瞬身が凍った。
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