無題 第3部 16 - 20


(16)
二人の身体が離れた。
そして、緒方が先に足を進めて赤いスポーツカーに近寄り、助手席のドアを開けてアキラを促した。
気付かれる、と、ヒカルは慌てて柱の陰に隠れた。
そうしながらも、どうして自分が隠れなきゃいけないんだろうと、思った。
車のドアが閉まる音に続いてエンジン音がして、駐車場から緒方の車が出て行った。
その間ずっと、身体を震わせながら、ヒカルは柱の影で息を殺していた。

なぜ、なぜオレはこんな所で震えているんだろう。
なぜ、こんな所に隠れたままなんだろう。
「触わるな」
「オレの塔矢に、触わるな」
そう言って、緒方を殴り付けてやりたかった。
それなのに、動く事も出来なかった。
悔しい。
悔しい。悔しい。悔しい。
「塔矢…っ!」
悔し涙を滲ませながら、ヒカルは他の男と去って行ったアキラの名を呼んだ。


(17)
緒方の唇がアキラから離れて、けれどそのまま至近距離でアキラの瞳を見詰めていた。
今までとは違う、甘く優しい、包み込むようなキスに、そして、ただじっとアキラを見詰める瞳に、
アキラはどう応えていいかわからず、小さく首を振った。
「送っていくよ。」
緒方はそんなアキラに小さく微笑みかけて、助手席のドアを開け、アキラに促した。

アキラは困惑していた。
奪われれば奪い返せばいい。戦いを仕掛けられたら、怯まずに向かっていけばいい。
けれど闘う相手であった筈の人間に、こんな風に優しくされたら、どうしたらいいのかわからない。
ふと、走っている道が違う事に気付いて、それを緒方に告げようとして、だが、ある事実に気付い
てアキラは息をのんだ。
この道は、アキラの自宅―塔矢家に向かう道。
彼は知らないのだ。
自分が、一人暮らしをしている事さえ。
一体、今まで自分は何をしてきたんだろう、と思った。
そして、心底、緒方に対して申し訳ないと思った。
自分が傷つけられた事を逆手にとって、同じだけの傷を返そうとしていたのだろうか。
約束を破られた子供が、いつまでも駄々をこねてわがままを言い続けるように。
無言の抗議でいつまでも責め続けて、与えられるものを貪り尽くして、最後にはあんな暴言で
彼を責めて。それなのに、この人はそれでもこんなに優しい。
知っていた筈なのに。
この人がどんなに優しい人なのか。


(18)
知っていた。わかっていた。だからこそ、自分はこの人に身体を委ねたのだ。
例え、最初のきっかけがなんであれ、他の誰でもなく、自分にはこの人が必要だったのだ、と
アキラは思った。
そして運転席の緒方の横顔をちらりと見上げ、それからハンドルを握る手を、シフトレバーを
操る手を眺めた。がっしりとした逞しい手は盤上の石を操る美しい手でもあった。
この手に憧れ、この人に近づきたいと思っていた事もあった。
緒方は自分が見られている事に気付いているのかいないのか、真っ直ぐ前を見て、運転
を続けていた。
塔矢家の門の前で緒方は車を止め、だがそれに気付かぬ様子のアキラに声をかけた。
「着いたよ、アキラくん。」
呼びかけに驚いた様子でアキラが顔を上げ、何か思い詰めたような表情で緒方を見詰めた。
「緒方さん、」
緒方の目が問うように真っ直ぐにアキラの目を見返していた。
「ボク…ボクは…」
アキラは言いかけて、けれど、小さく首を振った。
「…なんでもないです。ごめんなさい。送ってくれて、どうもありがとう。」
それだけ言うのが、精一杯だった。
緒方の車が去っていくのをアキラは見送って、そして久しぶりの自宅の門を見上げた。


(19)
いっそ、あのままあの人の部屋に連れて行ってくれればいいのに、とさえ思った。
あんな優しいキスをされたら、ボクの身体は続きを期待してしまう。
求められれば、きっと拒めない。
なんて自分勝手でずるくて、浅ましい人間なんだろう。
自分は何もしないで貰えるものだけ貰いたいなんて。
もしかしたら、自分の事を一番わかってくれるのはあの人なのかもしれない、と思う。
そしてあの人なら何があっても、どんな事があっても、自分を受け入れてくれるのだろう、とも。
それなら、なぜ今は、彼にそのまま委ねずにここで降りてしまったのだろう。

だって、そうして、ボクはまたあの人を利用するのか?
ボクの望むものにボクは触れる事が出来ないから、あの人の優しさに逃げようとするのか?
彼を忘れるために、彼を諦めるために、あの人を利用するのか?
きっと、あの人はそれでも構わない、と言うだろう。だけど、ボクは、そんな自分を許せない。
このままじゃいけない、とは思う。
目の前に道は二つあるのに、どちらに行っていいのかわからない。
いや、どちらに進む事も出来ない。
アキラは途方に暮れて自宅の門をもう一度見上げ、そして小さく溜息をついて、歩き出した。


(20)
アパートのドアをガンガン叩く音がした。
一体どこのどいつだ、そう思って加賀がドアを開けると、今にも泣き出しそうな顔のヒカルがいた。
「加賀…オレ…」

とりあえずヒカルを部屋に上がらせて、お茶を出して、そして尋ねた。
「塔矢アキラの事か?」
卓上の湯飲みを睨み付けるようにしてヒカルが呟いた。
「塔矢がキスしてた。」
その言葉は加賀にも大きな衝撃だった。
あの、塔矢アキラが?
「キスしてた。他の男と。」
怒りと悔しさのためか、ヒカルの声が震えていた。
「信じられねェよ…どうしてなんだよ…オレ、どうしたらいいんだよ…?」
信じられない。それは加賀も同じだった。
加賀は自分の知る「塔矢アキラ」を思い浮かべた。
綺麗に切り揃えられた漆黒の髪と、切れ長の涼しげな目元。まるでよくできた人形のような
整った容姿。更にその外見以上の天賦の才能とそれに見合った孤高の精神。
そしてなによりも、選ばれた者のみが放つオーラが、彼をより一層輝かせていた。
憧れる人間は幾らでもいるだろうが、実際に手を出せる人間がいるとは思えなかった。
加賀は、なぜか自分の心臓がギリッと痛むのを感じた。
「どうしたらいいって、どういう事だよ?」
加賀は冷たい声でヒカルに言い放った。



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