月のうさぎ 16 - 20
(16)
「うさぎちゃん、今何してるかなぁ・・・」
小さなススキが、月に向かって儚げに揺れる。
眉間を撫でる緒方の指の隙間から、アキラはまだ名残惜しそうに半開きの目で月を見ていた。
月を見ながら、だんだん小さくなっていく声で、途切れ途切れにお喋りを続けていた。
「うさぎちゃんも今日・・・お餅を搗いて、えんかいしたのかなぁ・・・あ、そうだ、さっきの
ご本ねぇ、もう一つヘンだったんだよ。・・・お正月にお餅を搗く時は、二人でやるでしょ?・・・
なのにね、あのご本のうさぎちゃんは一人で・・・
・・・あ」
その時のアキラの表情は見ていない。
緒方は咄嗟に、眉間を撫でていた手でアキラの目を覆ってしまったのだった。
「あら、アキラさん寝ちゃったかしら?メロンを切ってきたんだけれど」
柔らかな声に振り返ると、香り高い碧と橙色の果実を二人ぶん皿に載せた明子夫人が
室内の煌くような賑わいを背に微笑んでいた。その後ろから赤い顔の芦原がひょいっと
覗き込んでくる。
「えー、アキラもう寝ちゃったんですかぁ。ひどいですよ緒方さん、自分ばっかりアキラと
ほのぼのしちゃってぇ。オレなんか何杯飲まされたと思ってるんですか〜。ホントに
寝ちゃったのかよ、遊ぼうよ〜。アキラぁ」
「わっおい、芦原」
酔っ払い特有の憎めない図々しさで、芦原がニコニコとアキラの目を覆っている緒方の手を
取り除けた。
その下のアキラがどんな表情をしているかと、緒方は一瞬身が凍った。
(17)
だが、覆いを外されたアキラの顔は目を閉じたまま小さな呼吸を繰り返して、
既に眠り込んでしまっているように見えた。
「この子、一度眠り込むとちょっとやそっとじゃ起きないから・・・ごめんなさいね芦原さん。
また次に会った時遊んであげてちょうだいね。アキラさん、アキラさん。おねむでしょうけど、
歯磨きだけしちゃいましょうねぇ」
そのままアキラは母親の胸に抱き上げられ、連れて行かれてしまった。
小さなススキがいつの間にかアキラの手から落ちてその場に置いてきぼりにされていた
ことには、アキラが行ってしまってから気がついた。
小さなススキをいつまでも指先で弄び眺めている緒方の横で、芦原が二人分のメロンを
ぱくつきながら「今日はホント、いい月ですねぇ」と心から感嘆したように言っていた。
――あの時アキラは本当に眠っていたのだろうか?
咄嗟にアキラの目を月から隠すように覆ってしまった自分の行動を、アキラはどのような
意味に受け取ったのだろうか。
秘密を隠そうとすることによって、却ってそこに隠しているものがあることをアキラに
気づかせる結果となってしまったのではないだろうか。
それと同時に、そんな隠し事をしながらアキラに調子を合わせて会話していた自分の
卑怯さをも。
後から思うと、あの時、目を覆われる前、アキラがあの月の隈の形に気づいていたとは
限らないし、仮に気づいたからと言ってそれが直接アキラの兎の夢を壊すことに繋がるとは
限らない。もっと巧い対応の仕方があったはずだと何度も後悔した。
次にアキラが兎の話題を持ち出してきたらこう答えるのがよいか、いやああ答えるのが
よいかと、頭の中でシミュレーションを繰り返しもした。
だが、あれから緒方の前でアキラが月の兎のことを口に出すことはなかった。
――光り輝く月の中の、透きとおるような黒い兎の影が今も目に焼きついている。
(18)
夢から脱け出るように、目が覚めた。
枕を背にベッドの上に足を投げ出した体勢のまま、眠り込んでしまっていたらしい。
まだ酒が抜けていないのか頭が少しぼうっとする。
両の目頭を指で揉みながら二、三度頭を振ると、緒方は室内に目を遣った。
自分の好みで快適に整えられた寝室の中には、ブラインドを上げ切った窓を通して
青く月の光が満ちている。
――そう言えば今日は、仲秋の名月か。
だからあんな昔の夢を見たのだろう。
(19)
光り輝く月から少し視線を落とすと、広いベッドの自分とは反対側の端に、
アキラが寒そうに背を向け小さな寝息を立てていた。
――もう戻っていたのか。
最近つまらないことで喧嘩をすることが多くなった。
取るに足らないようなことでアキラを責めずにいられないのは、自分がアキラから
置き去りにされるようで不安だからなのだとわかっている。
年を追うごとにアキラは美しくなり、眩しいほどに飛躍していく。
澄んだ強い瞳は真っ直ぐに世界を、未来を見据えている。
そんなアキラの行く末に、自分などの関わる余地はあるのかと思ってしまうのだ。
自分は手の中で大切に愛でてきた可憐ないのちが、昇竜の本性を現して天空へ舞い昇って
いくのを為す術もなく見守る男である。
今日も酒に任せてほとんど言いがかりに近い理由でアキラを詰り、アキラは泣き、
泣いているアキラを見て我慢が出来なくなって抱いた。
理性も死に絶えるほど抱いた。
数時間に渡る理不尽な責め苦の後、涙も枯れ果てたアキラは壁に手をつきながら
バスルームへと傷ついた体を引きずっていった。
その背中に向かって自分が投げつけた言葉はこうである。
――後始末が済んだらすぐ戻って来い。勝手に帰ったり、ソファで寝ようとしたりしたら
今度こそ足腰が立たなくなるまで抱く。今夜はオレの隣で、寝るんだ。
もっともアキラの衣服は既に服とも呼べないような状態になっていたから、
アキラがそれを着て帰ろうとするとも思えなかったのだが。
(20)
それでもアキラが戻ってきたら、キスの一つもしていつものように一つの毛布にくるまって
眠るつもりだったのだ。
それなのに、
――いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。
緒方はベッドの中央付近で腕を組んで座った姿勢のまま、毛布の半分ほどを脚に掛けて
眠っていたが、ベッドも毛布も後の半分はアキラのために空けてあった。
だからたとえ緒方が起きていなくてもアキラは勝手に緒方の横で、毛布に潜り込んで
寝ることもできたはずなのだが、アキラはそうはしなかったようだ。
いま緒方の眼下に横たわるアキラは、何も身に着けることなく寒そうに身を丸め
両腕で体を覆うようにして、ベッドの端で背を向けている。
寝返りでも打てばたちまち床にずり落ちてしまうだろうほど端の位置である。
それは、緒方の横暴に対する精一杯の無言の抵抗なのだろう。
言われたとおり同じベッドで寝るには寝るが、一つの毛布にくるまることはしない。
隣に寄り添うこともしない。出来るだけ緒方から遠くに離れて、背を向けて眠る。
――バスローブくらい、着ればいいのに。
緒方の住居のどこに何があるか、引越しのたびにアキラには全て教えてあった。
同じ毛布が嫌なら別の毛布でもバスローブでも引き出して使えばいいものを、
自分にまつわる物は一切使いたくないとでも宣言された気がして、緒方はジクリと胸が痛んだ。
蒼い月の光に照らし出されたアキラの身体はどこまでも白く光るように滑らかで、
いつ見ても見惚れるほど美しい完璧な骨格を誇っている。
足腰を折り曲げ身を丸めた体勢のせいで、持ち主の頬に似た透きとおるように肌理細やかな
双丘の狭間から、普段より充血したまるいその箇所が無防備に緒方に向かって晒されていた。
自分を拒絶して背を向けながら、肝心な部分はこちらに向けているアキラが
たまらなく憐れでいとおしいと緒方は思った。
「アキラくん・・・」
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