座敷牢中夢地獄 16 - 20


(16)
「お父さん、お代わりは?」
「ああ。頼む」
空になった茶碗を先生がひょいと横に渡し、アキラがそれを受け取って飯櫃から
飯をよそう。
「はい」
「ありがとう。・・・ああ、じっとしていなさい」
「え?」
茶碗を受け取りながら先生がアキラの手を捉え、手首のほうへ指を伸ばす。
アキラの袖口に、飯をよそう時に付けてしまったのだろう白い飯粒があった。
アキラはそれに気づくと「あ、」と少しばかり極まりの悪そうな顔をしたが、
先生がそれを取り黙って自らの口に運ぶのを見ると嬉しそうに微笑んで、
またゆっくりな食事を再開した。
「・・・・・・」
目の前で行われたやりとりに、また心が不穏にざわつく。
何かがとても奇妙だ。
ここに来てからアキラを甘やかしすぎたと先生は言っていたが、確かに現実世界において
この父子の間に流れていた一種の緊張感のような雰囲気が、この夢の中の父子には見られ
なかった。
その代わりひたすらに甘く親密で、安らぎに満ちた空気だけがある。
ふと、アキラが幼い頃のこの父子の雰囲気はこんな感じだったと思い出した。


(17)
「もっとどんどん飲むといい。さあ、早く空けて」
「いや、俺はもう」
いつになく強く酒を勧めてくる先生に、俺は口を押さえて首を振った。
元来日本酒はあまり得意ではない上に、強い酒と見えてかなり酔いがまわり始めていた。
夕飯は一段落し、卓の上には酒と酒肴ばかりが並んでいる。
酒肴に新鮮な魚介類が多いのは、海の近くという土地柄ならではだろう。
海。
海。
そう言えば出掛けに女将が何か言っていたな。
こんな――こんな日には、海の底から色々なものが這い出てきて人を迷わすのだと。
じゃあこの肴の中にも、海で獲れたオバケが混じっているかもしれないな。
だがこんな刺身やら塩焼きやらになってしまっては、どうせどんな悪さも出来やしない。
だからこれはこの美味な肴は安全だ。危険なのは生きている化け物だけだ。
いや、そもそも化け物は生きたり死んだりなんてするものなのか?
ああそうだアキラくん、キミ海で何を探してたんだ?
化け物を海の底から引きずり出そうっていうのかい?
せっかく沈んでいるものを。

「ははは、どうも私の酌では酒が進まないらしい。アキラ、緒方くんにお酌してあげなさい」
「・・・はい」
アキラの声まで朦朧として聞こえる。駄目だ、もうこれ以上は。
だがアキラの優しい気配が俺の隣に移ってきて、トクトクと盃に酒を注ぎ、
「無理しないでくださいね。辛かったらもう、いいですから」
と気遣うように囁くと、忘れかけていた意地が甦り限界と思っていた臓腑へと
一気にとどめの一献を流し込ませた。
視界が暗転した。


(18)
――ははは、情けないな。もう駄目だと思ったら断ればいいものを。
――お父さん。
――好都合だが。
――でも・・・気の毒です。
――誰のためにこうなったと思っている。
――・・・でも。
――・・・なら、もう一度チャンスを

甘い匂いがする。
サラサラと何かがくすぐったく頬に触れる。
誰かが苦労しながら俺の重い体を支え、一歩一歩歩かせようとする。
「う〜・・・」
「緒方さん、そこ一段高くなってますから。足元に気をつけて・・・」
導く声が優しく耳元に響いて、目が覚めた。
「・・・アキラくん?」
「はい。もう少しですから、頑張って」
柔らかに微笑むアキラの顔が間近にあった。
サラサラと触れていたのは甘い匂いがする真っ直ぐなアキラの髪だった。
振り向くと俺たちの歩いてきた後に、長く暗い廊下が続いている。
ここまでずっと、アキラは一人で俺を支えてきてくれたらしい。

部屋に入り、ふらつく俺を畳に座らせて壁に凭せかけると、アキラは照明具の紐を
引っ張って電気を点けた。
酔った眼に光が眩しくて、俺は目をしばたたかせる。
外ではまだ雨が降っているようだった。


(19)
「アキラくんが支えてきてくれたのか・・・すまない。重かったろ」
酔いのせいで頭が朦朧とする。なんてザマだ。
「大丈夫です。それに、ボクが最後の一杯を勧めなければこんなことには・・・
今お布団を敷くので、少し待っていてくださいね」
そう言いながらスラリと押入れを開け、布団を引っ張り出そうとする。
「ああ、いいよアキラくん。後で自分で敷くから」
「ちゃんとお世話するようにって、お父さんに言われてるんです」
またお父さんか。
お父さん。お父さん。
いつだってキミはそうだった。
「アキラくん。布団はいいから、こっちに来てくれないか」
「?はい」
アキラは素直にこちらへ来て、俺の傍らにすとんと正座した。
「・・・・・・?」
柔らかな微笑みを浮かべながら少し首を傾げて俺の言葉を待つアキラを眺めやる。
まだほんの赤ん坊の頃から、父親と母親両方の面差しを写す端正な顔立ちをした子だった。
幼い頃林檎のようにつるつると明るい色に色づいていた頬は今はしっとりと白く色褪せて
いるが、その透けるような肌膚の清らかさはあの頃から変わらない。
俺を見る黒い目の澄明な美しさも、まだ俺が誰とも認識せずにただ動くものを目で追って
いたのだろう赤ん坊の頃から変わらない。
棋力が伸び悩んで重く気が塞いでいた時も、派手なブランド品や横柄な態度で神経質な程
身を鎧わずにいられない自分に空しさを感じた時も、この澄んだ目に自分が好ましい存在
として映っているならばまだ捨てたものではないと思えた。
キミは知らないだろうが、気が遠くなるほど長いプロの道を歩む中、些細な事でぐらぐら
揺れて膝をついてしまいそうになる俺を、ずっと支えてきてくれたのはキミだった。

そうしていつまでも、キミに笑顔で駆け寄ってもらえる人間の一人であることに
満足していられれば良かったのに。


(20)
「緒方さん?やっぱり具合が・・・」
不意にひんやりとしたものが額に当てられたと思ったらアキラの手だった。
「熱がある気がする・・・ボク、冷たいタオルを取ってきましょうか」
「いいよ、ここにいてくれ。熱いのは、酔ってるせいだろう」
心配そうに覗き込んでくるアキラに笑ってみせる。
具合は悪くないが本当は今、とても寂しい。
「でも・・・」
「大丈夫。・・・アキラくんこそなんともないのか?海でずいぶん冷えただろう」
そう言えばアキラは今療養中ということだったのだ。そんな体で海に入ったり、
俺を支えて歩いたりして大丈夫だったろうかと急に心配になった。
「アキラくん、体調のほうはまだ戻らないのかい。もうここに来て一年になると言って
いたが」
アキラの澄んだ双眸が僅かに揺れた。
「あ・・・ええ、まだ・・・」
「そうなのか。・・・だったら尚更、あまり無理をしちゃいけないよ。今日はたまたま俺が
通りかかったからよかったようなものの・・・」
つい説教臭い口調になってしまう。だがアキラは神妙に頷きながら聞いていた。
体調を崩したとは具体的にどこを悪くしたのか知りたくもあったが、「初対面」の俺が
あまり突っ込んだ質問をするのも不躾な気がして、代わりにもう一つ、気になっていた
ことを訊いてみることにした。



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