座敷牢中夢地獄 18 - 21


(18)
――ははは、情けないな。もう駄目だと思ったら断ればいいものを。
――お父さん。
――好都合だが。
――でも・・・気の毒です。
――誰のためにこうなったと思っている。
――・・・でも。
――・・・なら、もう一度チャンスを

甘い匂いがする。
サラサラと何かがくすぐったく頬に触れる。
誰かが苦労しながら俺の重い体を支え、一歩一歩歩かせようとする。
「う〜・・・」
「緒方さん、そこ一段高くなってますから。足元に気をつけて・・・」
導く声が優しく耳元に響いて、目が覚めた。
「・・・アキラくん?」
「はい。もう少しですから、頑張って」
柔らかに微笑むアキラの顔が間近にあった。
サラサラと触れていたのは甘い匂いがする真っ直ぐなアキラの髪だった。
振り向くと俺たちの歩いてきた後に、長く暗い廊下が続いている。
ここまでずっと、アキラは一人で俺を支えてきてくれたらしい。

部屋に入り、ふらつく俺を畳に座らせて壁に凭せかけると、アキラは照明具の紐を
引っ張って電気を点けた。
酔った眼に光が眩しくて、俺は目をしばたたかせる。
外ではまだ雨が降っているようだった。


(19)
「アキラくんが支えてきてくれたのか・・・すまない。重かったろ」
酔いのせいで頭が朦朧とする。なんてザマだ。
「大丈夫です。それに、ボクが最後の一杯を勧めなければこんなことには・・・
今お布団を敷くので、少し待っていてくださいね」
そう言いながらスラリと押入れを開け、布団を引っ張り出そうとする。
「ああ、いいよアキラくん。後で自分で敷くから」
「ちゃんとお世話するようにって、お父さんに言われてるんです」
またお父さんか。
お父さん。お父さん。
いつだってキミはそうだった。
「アキラくん。布団はいいから、こっちに来てくれないか」
「?はい」
アキラは素直にこちらへ来て、俺の傍らにすとんと正座した。
「・・・・・・?」
柔らかな微笑みを浮かべながら少し首を傾げて俺の言葉を待つアキラを眺めやる。
まだほんの赤ん坊の頃から、父親と母親両方の面差しを写す端正な顔立ちをした子だった。
幼い頃林檎のようにつるつると明るい色に色づいていた頬は今はしっとりと白く色褪せて
いるが、その透けるような肌膚の清らかさはあの頃から変わらない。
俺を見る黒い目の澄明な美しさも、まだ俺が誰とも認識せずにただ動くものを目で追って
いたのだろう赤ん坊の頃から変わらない。
棋力が伸び悩んで重く気が塞いでいた時も、派手なブランド品や横柄な態度で神経質な程
身を鎧わずにいられない自分に空しさを感じた時も、この澄んだ目に自分が好ましい存在
として映っているならばまだ捨てたものではないと思えた。
キミは知らないだろうが、気が遠くなるほど長いプロの道を歩む中、些細な事でぐらぐら
揺れて膝をついてしまいそうになる俺を、ずっと支えてきてくれたのはキミだった。

そうしていつまでも、キミに笑顔で駆け寄ってもらえる人間の一人であることに
満足していられれば良かったのに。


(20)
「緒方さん?やっぱり具合が・・・」
不意にひんやりとしたものが額に当てられたと思ったらアキラの手だった。
「熱がある気がする・・・ボク、冷たいタオルを取ってきましょうか」
「いいよ、ここにいてくれ。熱いのは、酔ってるせいだろう」
心配そうに覗き込んでくるアキラに笑ってみせる。
具合は悪くないが本当は今、とても寂しい。
「でも・・・」
「大丈夫。・・・アキラくんこそなんともないのか?海でずいぶん冷えただろう」
そう言えばアキラは今療養中ということだったのだ。そんな体で海に入ったり、
俺を支えて歩いたりして大丈夫だったろうかと急に心配になった。
「アキラくん、体調のほうはまだ戻らないのかい。もうここに来て一年になると言って
いたが」
アキラの澄んだ双眸が僅かに揺れた。
「あ・・・ええ、まだ・・・」
「そうなのか。・・・だったら尚更、あまり無理をしちゃいけないよ。今日はたまたま俺が
通りかかったからよかったようなものの・・・」
つい説教臭い口調になってしまう。だがアキラは神妙に頷きながら聞いていた。
体調を崩したとは具体的にどこを悪くしたのか知りたくもあったが、「初対面」の俺が
あまり突っ込んだ質問をするのも不躾な気がして、代わりにもう一つ、気になっていた
ことを訊いてみることにした。


(21)
「アキラくん。・・・海で、何を探していたんだい」
暗い海に一人で入って探すくらいだ。余程大事なものなのだろう。
だがアキラは首を傾げて答えた。
「さあ・・・何でしたっけ」
「何でしたっけ、って・・・」
「よく憶えていないんです。ただ、ずっと昔何かとても大事なものを失くしてしまって、
それがあの海にあるような・・・そんな気がしたんです」
要領を得ないアキラの話に、少なからず混乱を覚える。
失くしたというのは昨日今日の話ではないのか?ずっと昔に失くした、よく憶えても
いない「大事なもの」のために一人で海に入った?
しかも聞いていると、それを失くしたのが海であったかどうかすら定かではないという
口ぶりだ。何故、他の場所ではなく海にあると、そう思ったのだ?
ふと、アキラがこの土地へ療養に来たのは身体の健康上の理由ではなく
精神的なものが理由となっているのでは、という考えが頭を掠めた。
そうであれば先生がやけにアキラを甘やかし、アキラも幼い頃に帰ったかのように父親に
甘えている奇妙な状況もなんとか説明がつきそうな気がする。
だとすれば二人の間に、――ただの父子と言うには不自然な雰囲気を感じ取ってしまい
そうになるのもきっと、俺の勘繰りすぎなのだろう。

「緒方さんはご存知ないですか?ボクの探し物」
アキラがぽつりと言った。
「・・・残念ながら心当たりはないな。とにかく、もう二度とあんな真似はしないと
約束してくれ。キミに何かあったら、お父さんだって悲しむだろう?」
出したくない名前だったが敢えて出した。それがアキラには一番効く気がしたからだ。
だが意外にもアキラは、ふっと寂しそうな顔で笑った。
「どうだか・・・」



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