Trap 21 - 25


(21)
切迫した状況下。緒方の台詞に、ゴクリ、アキラは唾を飲んだ。
確かに、この現状を打開するいい案なんて他に浮かびそうにない。
けれど……。
アキラの心の中、不安が波紋のように拡がる。
――ボクは捕らえられていても殺されはしないだろう。依頼人の件がある。
でも緒方さんは……?
緒方さんは今回の件とは何の関係もない人物だ。
彼らにとって命を奪うことなんて雑作もないことかもしれない。
リスクが大きすぎる。
「…緒方さん、やっぱり…」
何か他の手立てを。アキラがそう口にしようとした時だった。
「――この野郎!」
倒れていた男がふいに起き上がり、立ち向かってきた。
その手には――剥き出しのナイフが握られていた。
「うおぉぉッ!」
咆哮をあげながら、ナイフごと突っ込むように、緒方へと突進してくる男。
アキラを背に立ち上がる緒方。
「――!!!」


(22)
血が、ポタポタと落ちた。
灰色のコンクリの床に、点々と赤い染みを増やしていく。
「………」
それは一瞬の出来事だった
身体に触れる寸でのところで、緒方の手はナイフを捕らえていた。
右の掌で、その刃先を握り締めるようにして――。
茫然とその様子を見ていたアキラだったが、ハッと我に返り、
「緒方さん!」名を呼んだ。
「……オレはこう見えても、多少武術の心得があるんでね」
緒方は言うが早いか、ナイフを持っている方の男の腕を高く持ち上げ、
無防備になった男の腹に強烈な蹴りを入れた。
「ガハッ!」
見事に決まったようだ。
男の身体が前のめりに折れ曲がるよう崩れ落ちる。
緒方が手を離すと同時に、カシャーン、ナイフが床に叩きつけられた。
「……やってくれるじゃねぇか」
遠巻きに見ていた男達の中から声がした。
一瞬にして空気が殺気立ったのが分かった。ピリピリと痛いほどに。
アキラは眉を寄せ、心配そうに緒方を見つめている。
緒方は出血している右手はそのままに、アキラを背に庇うようにして、
「……アキラくん、さっき言った通りの作戦でいこう。オレが合図をしたら走れ。いいな」
声をひそめて指示を出した。
「でも、緒方さんは…」
「そう簡単にやられたりはしないさ」
多勢に無勢のこの状況で、本当に無事でいられるだろうか。
不安でたまらず、アキラは緒方の上着の裾をぎゅっと握る。
すると緒方は怪我をしていないほうの手で、そんなアキラの手に静かに触れた。
「……大丈夫だ」
その温もりにアキラは瞳を伏せる。
子供の頃、よく頭を撫でてくれた手。あの頃と変わらない温かさ。
久しく感じていなかった緒方の優しさに、アキラは胸が切なくなった。
「――ヤっちまえ!」
次の瞬間、男達が一斉に襲い掛かってきた。


(23)
「行け!アキラ!!」
緒方が突き放すように、アキラを押しやった。

それからのことは、よく覚えていない。
アキラは無我夢中でやみくもに走った。
力の入らない身体で、必死に出口を、光を目指して、駆け続けた。
誰かが追ってくる気配がしたけれど、それも途中で消えていった。
このまま走れば、本当に外に出られるのだろうか。
また、あの温かい世界に戻ることが出来るんだろうか……。
進藤がいて、碁を打って、時にはケンカをしたりして。
他愛もない日常の断片が、アキラの頭の中をよぎっていく。

――ザァッ。冷たい風が、頬に吹き付けてきた。
倉庫を出ると、深い夜の闇がアキラを迎え入れた。
光も温もりも存在しなかったが、それでも閉鎖された異空間から解き放たれたようで、
アキラは初めて大きく息を吸い込んだ。
すぐに緒方の車は見つかった。急いで助手席に乗り込む。
緒方の言った通り、ドアは開いていて、車にはキーが刺さったまま、エンジンはかかりっぱなしだった。
一人、助手席のシートに座りこんだアキラの身体はガタガタと震えている。
(…緒方さん…)
ガランとした隣りの運転席を見つめながら、アキラは置いてきてしまった緒方のことを思う。
どうか彼が無事に戻ってきますように……。
祈るような気持ちで、アキラは膝を抱えて、顔を伏せた。

――それから、どのくらいの時間が経ったのか。
ガチャリ。音がして、突如、運転席側のドアが開いた。
ビクッ。アキラの身体が大きく震えた。
顔を上げるのが怖い。もしも緒方でなく、男達の誰かだったら……。
だが、息の詰まるような時間は、そう長くは続かなかった。
「……アキラくん」
次に響いたのは懐かしいとさえ思える声。アキラは泣きたくなった。
バタン。音を立てて閉まるドア。
アキラはようやく顔を上げ、運転席に乗り込んだ男へと視線を向けた。
薄暗い車内。
その横顔には疲労の色は見えるものの大きな怪我もないようで、
ほっとしたと同時に、アキラの頬を一筋の涙が伝い落ちた。
緒方はシートに腰を沈めると、深く息を吐き出して、ハンドルに手をかけた。そして。
「――行くぞ」
静かな声音で、アクセルを踏み込んだのだった。


(24)
真夜中の道路を照らすサーチライト。
対向車もなく、辺りは穏やかな静寂に包まれている。
アキラは不思議な気持ちでフロントガラスの向こうを眺めていた。
……さっきまでのことが夢のように思えてくる。
足をそっと動かしてみる。
ズキッ。身体の奥に鈍い痛みが走った。アキラは僅かに眉を寄せる。
――そうか、夢のわけがない。この痛みが現実だ。
まだボクの体内には彼らの放った残滓もあるはずで。
今、羽織っている緒方さんのコートを汚してしまったかもしれないな…。申し訳なく思う。
あ、とアキラは気がついて、ハンドルを握る緒方の右手を見た。
ナイフで切れた傷は――布を巻いて止血されていた。
布がどす黒い色に染まっているところからして、かなり出血したのではないか。
「緒方さん、怪我は…」
アキラは青ざめて訊ねる。
碁石を持つ右手だ。もし傷が深かったら……。
「大丈夫だ。たいしたことはないさ」
そんなアキラの心配をよそに、緒方は前を向いたまま、何気ないことのように軽く言った。
自分を気遣ってくれている…。
緒方の優しさに、アキラは胸が熱くなる。
もしも緒方さんが助けに来てくれなかったら、ボクはもっと酷いことをされていたかもしれない。
弄ばれて、精神を…心まで犯されていたかもしれない。
「…緒方さん」
じんわりと温かい感情が、胸の中に戻ってくると同時に、ふいにアキラは昔のことを思い出した。


(25)
そうだ、前にも、ボクは緒方さんに助けられたことがある。
――あれはまだ10にも年が満たなかった、幼い日の夏のこと。
ボクは自宅の庭先で蛇にかまれた。
一体、どこから入ってきたのか、まさか、そんなところに蛇がいるとは思わなくて。
突然、足に走った鋭い痛み。
ボクの上げた悲鳴を聞きつけて、家の中から緒方さんが飛び出してきた。
父と対局中だっただろうに。
「アキラくん!?」
ボクを噛んだ蛇はまだ近くにいた。
緒方さんは必死の形相で蛇を追い払うと、ボクを抱きかかえて、縁側に寝かせ、傷口を見て眉を顰めた。
赤く腫れあがった足には、かなりの痛みがあった。
緒方さんはボクの傷口に唇をあてた。血を吸い出す。
毒が含まれているかもしれないそれを何度か吐き出した頃、救急車が到着した。
手当てを受けて、毒蛇だったことが分かった。
緒方さんの咄嗟の処置がよかったのだと医師に言われて、父と母は緒方さんに感謝の意を伝えていた。
『私もお父さんもどうしていいか分からなくてね。オロオロしていたら、緒方さんが毒を吸い出してくださって……。
緒方さんはアキラさんの命の恩人ですよ。感謝しなくてはね』
後日、母が言った言葉は、今も記憶に残っている。
足を襲う激しい痛みに意識が朦朧としていたボクは、その時のことをあまりよくは覚えていないのだけれど。
救急車に乗る直前。
『大丈夫だよ…』
緒方さんの手がボクの頭を撫でてくれた。緒方さんの優しさに触れて、ほんの少し楽になったような気がした。



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