座敷牢中夢地獄 21 - 25


(21)
「アキラくん。・・・海で、何を探していたんだい」
暗い海に一人で入って探すくらいだ。余程大事なものなのだろう。
だがアキラは首を傾げて答えた。
「さあ・・・何でしたっけ」
「何でしたっけ、って・・・」
「よく憶えていないんです。ただ、ずっと昔何かとても大事なものを失くしてしまって、
それがあの海にあるような・・・そんな気がしたんです」
要領を得ないアキラの話に、少なからず混乱を覚える。
失くしたというのは昨日今日の話ではないのか?ずっと昔に失くした、よく憶えても
いない「大事なもの」のために一人で海に入った?
しかも聞いていると、それを失くしたのが海であったかどうかすら定かではないという
口ぶりだ。何故、他の場所ではなく海にあると、そう思ったのだ?
ふと、アキラがこの土地へ療養に来たのは身体の健康上の理由ではなく
精神的なものが理由となっているのでは、という考えが頭を掠めた。
そうであれば先生がやけにアキラを甘やかし、アキラも幼い頃に帰ったかのように父親に
甘えている奇妙な状況もなんとか説明がつきそうな気がする。
だとすれば二人の間に、――ただの父子と言うには不自然な雰囲気を感じ取ってしまい
そうになるのもきっと、俺の勘繰りすぎなのだろう。

「緒方さんはご存知ないですか?ボクの探し物」
アキラがぽつりと言った。
「・・・残念ながら心当たりはないな。とにかく、もう二度とあんな真似はしないと
約束してくれ。キミに何かあったら、お父さんだって悲しむだろう?」
出したくない名前だったが敢えて出した。それがアキラには一番効く気がしたからだ。
だが意外にもアキラは、ふっと寂しそうな顔で笑った。
「どうだか・・・」


(22)
「アキラくん?」
予想外の反応に面食らっている俺に、アキラはちょっと微笑んで言った。
「・・・なんて。お父さんは自分の棋士としての生活を犠牲にしてまでボクの側にいて
くれるのに、そんなこと言ったら罰が当たりますよね。・・・さあ!お布団を敷いちゃい
ますね」
そう言って立ち上がろうとするアキラの手首を反射的に掴んで押しとどめた。
振り返るアキラの澄んだ瞳と目が合う。
「?何でしょうか」
「アキラくん・・・」
言葉の続きが見つからない。
自分で気づいていないのか?キミは。
「あっ」
ぐい、と引っ張るとまだ成長し切らないアキラの細い体が腕の中に倒れ込んできた。
アキラがさすがに訝しげに顔を上げる。
赤ん坊の頃に俺を感動させた美しい黒い目。
その澄明さは今も少しも変わらないのに、あの頃は無縁だった何かがやはりキミを今
苦しめているのだろうか?
人差し指の甲でアキラの滑らかな頬をそっと撫で上げると、後から後から流れ落ちる
温かで透明な雫が、掬い切れずにほろりと指の腹側へ零れ落ちた。
虚ろなほど澄み切った瞳でアキラは俺の指に掬われた自分の涙を不思議そうに眺めた。


(23)
「アキラくん。明日俺と一緒に、この家を出て行かないか?」
我ながら唐突な提案ではある。だが、何故だかそうしたほうがいいと思ったのだ。
アキラは一瞬きょとんと目を丸くして、それから首を傾げて訊いてきた。
「・・・お父さんも一緒に?」
「いや、キミと俺と二人でさ」
「そんな・・・どうして」
「たまにはよその土地を見て、気分を変えるのもいいもんだぜ」
「無理です。ボク、療養中の身なんですから」
「海に入るくらいの元気はあるんだろ?」
痛いところを突いてやると少し戸惑った顔をする。その細い顎を指で捉えて上向かせ、
畳み掛けた。
「・・・とにかく、この家でお父さんべったりに暮らすことが、キミにとっていいことだとは
思えないな。少し距離を置いたほうがいい」
夢のアキラは父親の存在に囚われ過ぎている。
よちよち歩きで父親の後ばかり追いかけていた幼な子の昔に戻ってしまったかのように。
それは彼にとって決して健全な状態とは言えないだろうと、俺は第三者の立場で冷静に
分析したつもりだった。
だがアキラはパシッと音を立てて俺の手を払い、心外そうに睨みつけてきた。
「どうしてあなたにそんなことを言われなきゃならないんですか。ボクたち父子が
どんな風に暮らしていたって、緒方さんには関係ないでしょう」
関係ない、と言われて胸が抉られる。
不安定な心がまたぐらぐらと大きく揺れ始める。
「アキラく・・・」
「ボク、もう戻ります。お父さんに、おやすみを言わなきゃ」
またお父さんだ。お父さん、お父さん、お父さん。
そうして永遠に俺はキミにとってあの男に劣る存在でしかないのか?
「・・・っ、緒方さん!?」
気がつくと俺は、立ち上がりかけたアキラを引き倒し畳の上に組み敷いていた。


(24)
後から思うと、あの時アキラよりは俺のほうが余程動揺していたのだろう。
夢の中で初対面ということになっているとは言え、俺にとってアキラはやはり
どこまで行っても師匠の息子で、生まれた時から成長を見守ってきた相手で、
決してそんな振る舞いをすべきではない相手だった。
不可侵と思い続けた相手を押さえつける両手から、畏れとも武者震いともつかない震えが
全身に広がっていく。
どうせキミは夢なんだ。
そのキミを相手に、一度だけなら、思いを遂げることも許されるだろうか?
だがもしキミがあの澄明な目で俺を睨み拒むなら、または泣き出すか怖がるかするなら、
きっと俺は夢の中でさえその先へは進めないのだろう。
・・・・・・
アキラは拒まなかった。
全身の力を抜いて、ゆっくりと瞼を閉じると自分から腕を伸ばし俺の首へ絡ませてきた。
その動きに促されるように唇に唇を触れ合わせると、後はもうその柔らかさに我を忘れた。
廊下でミシリと音がした。

「・・・本当はボク、あのまま死んでもいいと思って海に入ったんですよ。ボクが海の水で
溺れて死んだら、お父さんがどんな顔をするのか知りたくて。死んだらお父さんの顔を
見ることもできないのに。・・・馬鹿ですよね」
心地よい疲労感の中、眠りに落ちる前にアキラの柔らかな声が聞こえた。
馬鹿げていてもそんな気分になることだってあるさ。現に俺だって。
それにしても何故他の場所でなく海なのか、そのほうが気になるね。

――脇腹に鋭い痛みがある。
それでも、腕の中にある温かな身体の感触に酔っていた。
ポタリと何かが唇に落ちてくる。
塩の味がする水だった。


(25)
夢の中でもアキラを抱いていた。
だがやがて塩辛い波が押し寄せて、アキラも俺も暗い海の中に攫われてしまう。
初めて出会った時のようにアキラを浜へ引きずり出そうとするが、波の力が強くて
うまく行かない。
「アキラくん、戻るんだ」
必死で叫ぶ俺にアキラがあの澄明な目で言った。
「緒方さん、怖いんですか?」
――怖い?何が。
「ボクの探してる物が」
――え、何だって?
キミの探し物が何なのかすら俺は教えてもらっていない。
だから、怖いなんてことがあるはずがない。
なぁおい、そうだろ、キミは一言だって俺に話しちゃくれなかったじゃないか。
俺はただ、せっかく水底に沈んでいる化け物を引きずり出して欲しくないだけだ。
塩辛い水に浸った化け物を。

そこまで行って目が覚めた。
頭の下には程よい硬さの枕があてがわれ、身体の上には軽い布団が掛けられている。
布団の上に寝ているのは俺一人だった。
昨夜は布団も敷かずにアキラを抱いたまま眠ってしまったはずなのに。
――酒の上での夢だったのか?
それにしては五官に残る記憶が生々しい、ような気もする。
記憶の中のアキラは俺に抱かれながら嫌がるでもなく自分から腕を絡みつかせて、
ただ終始固く瞼を閉じて声を殺していた。
温かな素肌と至近距離で震える熱い吐息の感触が甦り、身体の芯にゾクリと震えが走る。
もう朝と言ってよい時刻のはずだが障子を透かして窺う外の世界はまだ暗い。
雨は、降りやまないようだ。



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