座敷牢中夢地獄 26 - 29


(26)
どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。
その境目が今一つわからない、ふわふわした頼りない気分のままで、
俺は廊下を渡り居間へと向かった。
襖の隙間から皓々と白い光が洩れている。
朝とは言え暗いから電灯を点けているのだろう。
その襖に手を掛けるのがどことなく怖ろしかった。
昨夜俺の腕の中にいたと思ったアキラが今また何事もなかったように父親の膝の上で
甘えていたら、そしてまた俺を一瞥もしなかったら、きっと俺は昨日の数倍は打ちのめ
されることだろう。
目を閉じ覚悟を決めて、「おはようございます」と一気に襖を開けた。

俺の覚悟に反して、部屋の中では拍子抜けするほど見慣れた光景が展開されていた。
碁盤を挟んで背筋を伸ばした父子が向き合っている。盤面は・・・もう終局のようだ。
「ああ、おはよう」
俺に気づいた先生が鷹揚な仕草で振り向いた。
アキラも「おはようございます」と軽く頭を下げてくる。
昨夜のことが夢だったのか現実だったのかはわからないが、正直、今朝はアキラの顔が
まともに見られない。
実を言うと今までにも師匠の息子をそういう行為の対象とする夢を見たことはあった。
だが目が覚めた後これほど生々しく感触が残っていたことはこれまでになかった。
あれが現実だったなら先生の前でそのことを気取られてはならないと思うし、
あれが夢だったならそんな夢を見てしまったことがアキラに対して後ろめたい。
何よりアキラの視線がこちらに注がれているのを感じるだけで顔が熱くなっていく。
いい年をして、初恋でもあるまいし、これしきのことで何を動揺しているのだろうと
自分で思う。


(27)
「・・・対局中でしたか。失礼しました」
「なに、もう終局だ。それはそうと風呂の支度が出来ている。使い方は昨日説明したね」
「は?風呂・・・ですか」
俺は自宅に一人でいる時は朝、出かける前にシャワーを浴びる習慣だ。
だから今日もこの家を発つ前に風呂を使わせてもらうに吝かではないのだが、
俺の意志を確認しないうちから風呂に入るものと決めつけているような先生の口ぶりに
ほんの少しだが腹が立った。
「昨夜は汗をかいただろう?流してきたほうがいい。・・・そうだな、アキラ」
突然その名前を出されて心臓が跳ね上がりそうになる。
思わずアキラを見ると、アキラもじっとこちらを見つめていた。
目が合うと昨日のようにニコッと微笑みかけてくる。
その微笑みが何故か泣き出す直前の顔のように感じられた。

湯船に浸かりながら大きく息をつく。
結局昨夜自分はアキラを抱いたのだろうか、どうなのだろうか。
昨夜は汗をかいただろうという先刻の先生の言葉は、単に夏場の宿泊者に対する気遣いの
ようにも取れるし、昨夜のことが現実で、先生がそれを知っているが故の発言のようにも
取れた。
いや、そもそもこれが全部夢だというなら、「現実」などどこにも存在しないのか?
どこまで行っても夢の中の情事。
夢の中だけで俺のものになるアキラ。
感傷めいた思いが湯気と共に広がって、ゆったりと浴室内を満たしていく。
その時、脱衣所へと続く引き戸の向こうから小さなノックの音が聞こえた。
「はい」
また先生だろうか。昨夜無言でじろじろと身体を眺め回されたような気がしたせいも
あって、返事の声は我ながら愛想が悪かった。
だが開いた引き戸の向こうから流れ込んでくる冷たい空気と共にひょっこり覗いたのは、
アキラの小さな顔だった。


(28)
「アキラくん」
「しっ・・・」
意外な来訪者に俺が驚いているとアキラは唇の前に人差し指を立て、静かに引き戸を
閉めた。服が濡れないよう注意しながら湯船の傍らにしゃがみ込み、顔を近づけてくる。
「すみません、お父さんに内緒で来ているので・・・緒方さんも、これくらいの声で
お願いします」
「あ、ああ」
至近距離で囁くアキラの優しい呼気を感じて、頬がまた火で炙られるように熱くなる。
それを誤魔化すようにざぷりと湯を両手で掬い、顔に掛けた。
「何か用でも?」
「手短に言います。・・・緒方さん。後で昨日みたいにお酒を勧められても、決して
飲まないでください」
「酒?」
「ええ。食べ物やお茶は何でも召し上がっていただいて結構ですが、お酒だけは。
・・・そして朝食が済んだらすぐにこの家を出発してください。お父さんに何を言われても
聞かないで」
囁くアキラの表情は有無を言わせないほど静かで真剣だった。
熱い湯の中だというのに、ぞくぞくっと本能的に寒気が走る。
昨夜俺が酒に潰れた時、先生は何と言っていた?

「それだけです。・・・じゃ」
踵を返そうとするアキラを慌てて呼び止めた。
「待ってくれ。・・・もう一つ訊きたいことがある」


(29)
アキラは振り返り、あの黒い目でじっと俺を見つめた。
また頬の表面に熱が集まるのを感じながら、照れ隠しの低い声で問うた。
「記憶が定かじゃないからキミに訊くんだが・・・俺は昨夜キミと、いやキミを・・・その・・・」
頬が灼けるように熱い。昨夜の記憶の中でアキラは終始目を閉じていた。
今も目を閉じていてくれたらいいのに、昔と同じ澄んだ光が俺を貫く。
堪らなくなって俺は瞼を閉じた。
「ああ。はい、昨夜は緒方さんと一緒に、・・・いました」
何があったとも言わない、それだけの言葉だったが、言いながらふと揺れた黒い目と
桜色に染まった目元が、それは確かに起こった出来事なのだと証してくれていた。
「・・・そうか」
「そうです」
「・・・その・・・すまなかった」
「え?」
「昨夜は酔っていてつい・・・」
嘘だ。真実は、酔いの力を借りて積年の思いを遂げたのだ。
酒のせいになどして逃げず、キミを好いているからキミの言葉に嫉妬したから
俺はああしたのだと言えたなら。
だが俺の繊弱な精神は卑怯にも、この期に及んでなお逃げ道を残そうとする。
キミの前に全てを曝け出すことを回避しようとする。
鎧を剥いだ生身の俺をキミが見て、もし僅かなりと嫌悪や軽蔑の表情を浮かべたら
今まで必死に築き上げ守ってきたもの全てが意味をなさなくなってしまう気がする。
それが怖いんだ。



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