無題 第3部 29
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いつだったか、こんな風に玄関先でアキラの唇を貪ったことがあった。
妖しく光る黒い瞳。オレに向かって伸ばされた白い指。
あの時すでにオレはアキラに囚われていた。
いや、違う。あれはオレの夢―妄想に過ぎない。
そして今、腕の中にいるのは、抱いているのは確かに現実のアキラなのに、それなのに、
これが夢の中の出来事のように感じてしまうのはなぜだ。
手を放した瞬間に消えてしまいそうに感じているのはなぜだ。
なぜ、こんなにもさっきからオレは昔の事ばかり思い出しているんだ。
それは―それは、オレが、オレの方から、アキラを手放そうと思っているからだ。
手放す?オレが、アキラを?
馬鹿な。そんなはずがない。そんな事ができるはずがない。
緒方は目を開いてアキラを見詰めた。
心配そうな、不安そうな目で、アキラは緒方を見詰め返した。
見上げるアキラの顔に、緒方はキスの雨を降らせた。
まぶたに、長い睫毛に、白く透き通った耳たぶに、すっと伸びた形のいい鼻梁に。
そしてまた艶やかな唇に触れ、熱い舌を絡めとり、細い身体を抱きしめた。
緒方は必死になってアキラの全てを感じ取ろうと、身体に、記憶に刻もうとした。
耳にかかる息遣いを、彼を呼ぶ声を、甘く切なげな喘ぎ声を。
鼻腔をくすぐる甘い髪の香りと若い青い体臭と僅かな汗の臭いを。
からめとる唾液の甘さと頬に伝う涙の塩味を。
滑らかな肌触りと皮膚の下のしなやかな筋肉の動きを。
腕にかかる体重の重みと体温と、抱いた腰の細さを。
目に見えるもの全て、意識に感じられるもの全てを。
例えそれが一瞬の後には消えてしまうものかもしれなくても。
「やめろよっ!!」
彼もよく知っている少年の声が響いて、緒方は現実に引き戻された。
そして、声の主の方をゆっくりと振り返った。
いつものような冷然とした、皮肉そうな笑みをつくって。
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