座敷牢中夢地獄 30 - 33
(30)
そんな俺の狡い物言いを非難するでもなく、アキラは微笑んだ。
昨日酔っ払った俺を支えて廊下を歩かせながら優しく励ましてくれたのと同じ柔らかさで。
その静かな微笑みの中の、昨夜あんなにも柔らかかった唇が動いた。
「いいですよ。本気で嫌なら、蹴飛ばしてでも逃げてました。お父さんのことを言われた
時はボクも少し腹を立ててしまいましたけど・・・ボクたち父子の事、心配してああいう風に
言ってくださったんですよね。緒方さんはいい人だと思います。だから・・・いいんです」
抱いたことを「いいんです」と言われることは寂しかった。
というよりは正直、一瞬にしてかなり落ち込んだ。
だが実際俺とアキラは相思相愛を確かめ合ったわけでも何でもないのだから仕方がない。
ましてや俺はこの世界のアキラにとって行きずりの泊まり客に過ぎない。
俺にとってはかり知れない意味を持つ一夜も、アキラにとっては降って湧いた災難以外の
何物でもないのだ。
「すまない。本当に」
今度は心の底から言った。
「本当にいいんです。緒方さんはいい人だと思うし、今までの人の中で一番優しかった。
だからボクは今、ここに来ているんです」
今までの人?
それはどういう、と尋ねようとしたところでアキラがすっくと立ち上がった。
「さあ、もう行かなきゃ。美味しい朝ご飯を用意しておきますから。初めにお話しした事、
忘れないでくださいね」
だが脱衣所へと続く引き戸を開けたアキラはその場に固まってしまった。
訝しく思い弱い視力を凝らして見ると、アキラの体の向こう側、脱衣所から廊下へ続く
もう一つの引き戸の所に一人の人物が立っていた。
――先生だ。
「お父さん・・・」
先生は無言でアキラに背を向けると、廊下に消えた。
アキラが後ろ手で力なく引き戸を閉めた。
俺はまたこの父子の世界から遮断されてしまった。
(31)
アキラの言葉どおり、風呂から上がると居間に朝食の支度が整えられていた。
風呂での一件でアキラが父親に叱られているのではないかと案じていたが、昨日と同じ
ように先生は上機嫌で、アキラのことやここに来てからの生活のことなど、この人に
しては饒舌に語ってくれた。
「・・・これが子供の頃は、私が仕事で出かけるたびに袖に取りすがって行っちゃやだ、
行っちゃやだとオンオン泣かれたものだったよ。その声がどうも御近所中に響き渡って
いたらしくてね。道を歩けばアキラくんはお父さんが大好きみたいですね、などと
ほとんど挨拶代わりのように言われたものだ」
「はあ」
「あの頃は私も多忙だったからな。いつも持ち歩いていた手帳があって、それを開けば
仕事の予定がびっしりで・・・おまえはあの手帳を嫌っていたな、アキラ」
「そうでしたっけ?よく憶えてませんけど・・・」
「ああ。手帳さんキライ!と言っては私の手からはたき落としたり・・・
そして時々その手帳がなくなるんだが、探すと必ず屑籠の中に入っているのだ。
どうも、子供心にコレさえなくなれば父親の外出を止められると思ったらしいな。
・・・そう言えばあの手帳もいつの間にか見なくなったが、どこへやったか・・・
うむ。まあそんな話はいい。緒方くん、お代わりはどうだね」
「あ、はい。では少し」
「アキラの料理の腕はなかなかだろう」
「ええ、美味いですね。どれもこれも」
お世辞ではなかった。目の前の食卓には簡素なものから手が込んだものまで様々な料理が
並んでいるが、そのいずれもがこれは、と膝を叩きたくなるほど美味い。
昨日の夕食や酒肴も全てアキラが作ったものと聞いて感心した。
(32)
「ここに来てから勉強したんです。ここは何もないから、せめて食事だけは美味しい物を
お父さんに食べてもらおうと思って・・・」
アキラが恥ずかしそうに微笑んだ。
先生が上機嫌とは言っても、やはり今日のアキラはどことなく元気がないように見えて
気にかかっていたのだが、一言父親にほめられればたちまち嬉しそうに顔を輝かせる。
部外者がなんと言おうと、アキラに対する父親の強大な影響力は決して突き崩せはしない
ものなのだろう。
夢の中でも、現実でも。
「どうぞ、緒方さん」
「ありがとう。・・・」
汁椀をやり取りする手と手が触れる。
目が合うとアキラはニコッと笑う。
アキラの言うとおりもうすぐ俺がこの家を経つことになるなら、夢のアキラとはじきに
お別れなのだろう。
・・・・・・
どうせ夢なら、いっそ全てを壊してキミを連れて逃げてやろうか。
だがきっとそうしたらキミは泣いて俺を怨むだろう。俺を嫌いになるだろう。
ありったけの思いを込めて抱きしめても、俺の腕の中で別の誰かを懐かしむだろう。
そうして俺は永遠にその誰かには敵わないのだと、俺に思い知らせるだろう。
俺はそれに耐えられない。
もし何かきっかけさえあれば、キミのために俺はこの命すら投げ出すことが出来るのだと
証立てることも出来るだろうに。
そうしたら少しはキミの心に俺という存在を刻みつけることも出来ように。
そんな受身で身勝手な願い事を胸に抱えて生きている。
アキラのあの柔らかな唇が小さく開いては食物を中に受け入れ、ゆっくりな速度で
咀嚼の動きを繰り返すのを見つめながら。
(33)
「アキラ、あれを」
「・・・はい」
食事が済むと、アキラが盃と、黒っぽい色の小さな甕を盆に載せてやって来た。
「秘蔵の酒だ。餞別代わりに一杯、飲んでいきたまえ」
アキラに目を遣るとあの澄んだ目で俺に目配せをし、小さく首を振ってみせる。
「・・・昼間は、酒は入れないことにしていますので」
「一杯くらいいいだろう。アキラ、お酌を」
「でも、お父さん。緒方さんがこうおっしゃってるんですから、無理にお勧めするのは・・・」
さりげなく先生をたしなめるアキラの声は、少し緊張しているようだった。
俺のためにアキラが父親に反論してくれているという事実に、呑気にも胸が熱くなる。
だが先生は途端に不機嫌そうな顔になって腕組みをすると、俺の顔をねめつけた。
「緒方くん。・・・うちのアキラの盃が飲めないというのかね?」
「・・・はっ?」
まさかそう来るとは思っていなかった。
二の句を継げないでいると、アキラが先生の袖を引っ張る。
「お父さん。そんな言い方・・・!」
「おまえは黙っていなさい。・・・ふむ、では質問を変えようか。緒方くんはアキラのことが
嫌いなのかね?」
「え」
思わずアキラのほうを見る。答えはわかり切っている。
「そんなことは」
「ないのかね。・・・ということは、好きなのかね?」
|