Shangri-La第2章 30 - 36


(30)
アキラが目を覚ますと、隣に緒方の場所はあったものの、姿はなかった。
ベッドを降りて、脱いであったバスローブを羽織って
リビングへ向かうと、コーヒーの香りが濃く漏れ漂っていた。
「あぁ、おはよう、アキラ君」
キッチンにいる緒方が先に声をかけてきた。
「あ、おは……」
声が思うように出ず、渇いた喉でせき込んだ。
「声が嗄れたか…まぁ、仕方ないか。それより、着替えてきなさい」
緒方の指した先、ソファの上に、昨晩洗濯機に放り込んでおいた服が
きちんとアイロンまで掛けられて、畳まれていた。
それを持って一旦寝室に向かい、着替えて戻ると
テーブルの上にはフレンチトーストが出されていた。
その他に、水と牛乳とグレープフルーツジュースと、
コンビニのサラダを茹でただけであろう温野菜も添えられている。
この部屋に調理器具があることはもちろんだが、
ここで朝食が出されることにも、またそのメニューにも驚いた。


(31)
子供の頃、一時ハマったフレンチトーストと温野菜の組合せ。
一緒にいることが多かった緒方に、作ってとねだったが
料理の経験のない緒方はそれが出来ず、結局母に教わって作っていた。
台所に立つエプロン姿の緒方は、慣れない作業に懸命だった所為か
隣に立つ母と比べると酷く不格好だった。
その後入門した芦原が、自宅の台所で慣れた手つきで
料理をするようになるまで、男性が台所に立つのは
あまり格好良くない事なんだと、アキラは固く信じていた。

「どうしたんですか?緒方さん、ここで朝ご飯なんて
 今まで一度も作ったこと、なかったじゃありませんか」
「――食事が済んだら家まで送ろう。
 それから……、塩で良かったんだよな?」
アキラの問い掛けには答えないまま、緒方は
手にしたコーヒーカップで、テーブルの上のソルトミルを指した。
――確かに、おやつで食べるときは砂糖だったし
朝食の時は塩を振って食べていた。
「はい……それじゃあ、いただきます」
マイブームが去って以来、食べていなかったフレンチトーストは
子供の頃と変わらない、懐かしい味だった。


(32)
食事が済むと、アキラが断るのも聞かず
緒方はアキラを車で家まで送った。
途中いくつかの話題は出たが、差し障りのないありきたりの話で
何も聞かれないことが、アキラには逆にありがたかった。
自宅が近くなった所で緒方に礼を言うと、緒方からは
もう二度と部屋には入れない、と、固い口調で告げられた。

門の前ぴったりに着けられた車から降りても、
緒方の車はすぐには発車せず、アキラが玄関をくぐり
鍵をかけてやっと、エンジン音が彼方に消えていった。

きちんとアイロンまでかけられた服。小さいころ好きだった朝食。
入れられても自分には出されなかったコーヒー。
刺激物を母が酷く嫌っていた、という理由で
中学に上がって初めて、碁会所でコーヒーを口にした。
そして寸分違わず門の前に着けられた車―――
もう、アキラは十分に気づいていた。
今朝の緒方に、自分は幼い子供として扱われたのだ。
本当は、そんなに子供なんかじゃない。結構うまくやっていけている。
そう思っていても、それを妨げる存在が確実にあるのも分かっていた。


(33)
アキラは靴を脱ぎ、自室へと向かう。
そう、ヒカルと一緒に居る時間が増えるにしたがって、
自分はどんどん子供になっていく。
――時計は今なお、巻き戻され続けている。
椅子の上に鞄を置き、中の携帯を探った。
携帯は、いつヒカルからのメールや電話があってもいいように
家の中でも、常に持ち歩いていた。
そして、探り当てて取りだした携帯には着信が4件。
(―――進藤!?)
慌てて携帯を開くと、着信は午前3時過ぎ、メッセージはなかった。
曜日から言っても、また着信の時間から言っても
多分間違いなく、アルバイトの休憩時間にかけてきたのだろう。
アキラは慌てて電話をしようとして、さらに慌てて思いとどまった。
まだ午前中だから、ヒカルはきっと寝ているだろう。
今日は確か、森下先生の研究会があるはずだから
午後になったらメールしておけば、帰りにでも読んでくれるだろうか。
アキラは今日の陽が落ちるのが、楽しみで仕方なくなって
あまりに浮いた気持ちを落ち着けようと、碁盤の前に座った。


(34)
森下の研究会が終わり、棋院前で和谷と別れたヒカルが
ポケットの携帯を取りだすと、諦めつつも期待していた
アキラからのメールがあった。
突然ぱったりと電話が来なくなったり、昨晩電話に出なかった理由を
変に勘ぐってしまったが、忙しくしている自分に気を使ううえに
昨日はたまたま疲れていて目が覚めなかっただけなのだろう。

自分でも何故こんなにアキラのことを気にかけてしまうのか
ヒカルには良く分かっていない。
ただ、自分にしか見せない、子供のような無邪気さや素直さが
心を捕らえて離さず、つい、甘やかしたくなってしまうのだ。
大体、どうしてアキラは自分にそんな姿を見せるのか、
その理由さえ全く見当がつかない。
だけどそれがアキラなりの信頼の証だという事は分かる。
ヒカルも、アキラにそんなふうに頼られて、悪い気はしなかった。

メールには、
 『昨日はごめん。時間が空いたら電話をくれないか』
とあり、ヒカルは迷わずアキラに電話をかけた。
今日のアキラは、いつものとおり1コールで電話を取った。


(35)
ヒカルからの電話は、研究会が早めに終わったとかで
アキラが考えていたより早くにあった。
しかも、今日の夕方のバイトがキャンセルになったから
今から遊びに来たいという。
心の中に溜まっていたいろんなもやもやが、
ヒカルのその一言で、一瞬にしてどこかへ霧散していった。
舞い上がりすぎて、歓迎する言葉がまともに繋がらないのと
荒れた喉で話す事に多少難儀したことで
ヒカルに心配させてしまったようで悪く思ったものの
久しぶりに持てる二人だけの時間が嬉しくて、嬉しすぎて
心がふわふわ済みきった空へと飛んでいってしまいそうだ。

電話を切ったアキラは、家中の窓を開け放して
篭った空気を入れ替えた。
そしてヒカルに対するほんの少しの後ろめたさから、軽く湯を浴びた。


(36)
ヒカルが塔矢邸に着いたのは夕刻で、アキラは満面の笑顔でヒカルを出迎えた。
ヒカルが靴を脱ぐと、アキラは部屋までヒカルの手を引いて
その様子にヒカルは薄く笑い、部屋にしつらえた座椅子に座った。
「進藤、何か飲む?お茶、コーヒー、紅茶…
 あと、お土産でもらった中国茶もあるけど?」
「あ、うーん、…お茶!」
答えながら顔を上げると、アキラの机の上いっぱいに並べられた
茶器の類が目に入った。
アキラはお茶の入った二つのカップを乗せた盆をヒカルの脇に置くと
ヒカルの脚を跨いで膝を折り、向かい合わせにその腿の上に
体重をかけないよう腰を下ろした。
ヒカルがカップを取り、口を付ける仕種を、アキラは
自分もカップを取りながら見つめた。
久しぶりの光景、そして何より久しぶりの近さが嬉しい。
アキラはカップを置くと、ヒカルがカップを置くのを待って
その首に抱きついた。ヒカルの頬に自分の頬を擦り寄せると、
ヒカルの腕がアキラの肩を抱き締め、頬が頬で押し返された。



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