座敷牢中夢地獄 34 - 35
(34)
唖然として言葉を失う。
俺の師匠は真顔でこんなことを言う人だったろうか?
「それは、」
声が上手く出ない。重い鎧が喉を締めつけるのだ。
アキラは今どんな顔で俺の言葉を聞いてる?
俺が動揺する様を楽しむように先生は喉の奥で笑った。
「あぁいやすまない、答えてくれなくても良いのだよ。普通に考えれば、会ったばかりで
好きも嫌いもなかろうからな。ただ・・・」
先生の目が一瞬炎のように厳しく光った。
それと同時に先生の纏う空気がぐわりと巨きく膨らんだ気がして、俺は息を呑む。
火のような眼光。見つめられれば呼吸が苦しくなるほどの、強大な威圧感。
鎧などで卑屈に身を護らずとも、己が一身に備わる力だけで世界を敬服させ、臣従させて
しまうことのできる男がそこに立っている。
全身が竦みあがり身動き一つできないでいる俺の前で、威圧する男はゆっくりとその
力に満ちた視線を宙に浮かせた。
「私なら。愛する者が差し出す盃であれば、たとえそれが毒であろうと全部飲み干して
みせる。・・・それで命を落とそうと悔いはない」
深々とした声でそう言い終わると、男は静かに目を閉じた。
その目が再び開いた時、あの強大な威圧感は消え、元の鷹揚な表情を浮かべた先生に
戻っている。
「まぁしかしキミにこんなことを話しても仕方がなかったな。たまたま縁あって泊まって
もらうことになったが、もともとキミは私たち父子とは何の関係もない、旅の人だ。
アキラの盃がキミにとって特別な意味を持つはずもない。すまなかったね、緒方くん。
・・・アキラ、もう片付けていい。緒方くんは飲まないそうだから」
ほっとしたようにアキラが酒甕を抱えて、持ち去ろうとする。
だが俺は咄嗟にそれを呼び止めてしまった。
「待ってくれ。・・・アキラくん」
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アキラがびくっと振り向く。
俺は迷わずアキラに向かって、まだ中身の注がれていない盃を差し出した。
強張った表情でアキラが俺を見つめる。
「・・・冗談はやめてください」
「冗談じゃないさ」
視線と視線が真っ直ぐにぶつかり合う。アキラの澄んだ目が怯えたように揺れる。
俺は臆病で卑怯な男だ。キミを抱いておきながら、真実の想い一つ伝えてやれない。
だがそれでも、何かきっかけさえあればと。
言葉には出せずともせめてこの心を証す機会をと。
受身で身勝手で、けれど真摯な、願い事を胸に抱えて生きてきた。
先生は「ほう」と一声上げたまま、面白そうに腕組みをして成り行きを見守っている。
別にアンタの挑発に乗ったわけじゃない。ただ、俺が待ち望んでいた千載一遇の機会が
目の前に巡ってきた。それを逃したくないだけだ。
「どうして・・・」
不吉な甕をぎゅっと胸に抱き締め、黒い髪をサラサラと左右に揺らしながらアキラが問う。
・・・その甕に何が入っているのか、俺は知らない。もしかしたら俺に災いをもたらす
ものかもしれない。それでも俺がこうするのは、
「・・・キミの盃で不幸になるなら、俺に悔いはないからだ」
アキラの大きな目が更に大きく見開かれる。だが理由はそれだけじゃない。
俺を逸らせているこの抗い難い衝動の正体は、きっとキミを海に入らせたのと同じものだ。
キミの心がどの程度俺に向いてくれているのか、俺はてんで自信がない。
それでももしキミが、息絶えて横たわる俺を前にしたら、少しは悲しい顔をしてくれるのだろうか。
その曇りない瞳から一しずくくらいは涙を零してくれるのだろうか。
それが知りたい。
キミが俺のために流す涙が見たい。
他の誰でもなく俺によって、キミの心が動かされたという証が欲しい。
涙。涙。塩の味の水。
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