座敷牢中夢地獄 35


(35)
アキラがびくっと振り向く。
俺は迷わずアキラに向かって、まだ中身の注がれていない盃を差し出した。
強張った表情でアキラが俺を見つめる。
「・・・冗談はやめてください」
「冗談じゃないさ」
視線と視線が真っ直ぐにぶつかり合う。アキラの澄んだ目が怯えたように揺れる。
俺は臆病で卑怯な男だ。キミを抱いておきながら、真実の想い一つ伝えてやれない。
だがそれでも、何かきっかけさえあればと。
言葉には出せずともせめてこの心を証す機会をと。
受身で身勝手で、けれど真摯な、願い事を胸に抱えて生きてきた。

先生は「ほう」と一声上げたまま、面白そうに腕組みをして成り行きを見守っている。
別にアンタの挑発に乗ったわけじゃない。ただ、俺が待ち望んでいた千載一遇の機会が
目の前に巡ってきた。それを逃したくないだけだ。
「どうして・・・」
不吉な甕をぎゅっと胸に抱き締め、黒い髪をサラサラと左右に揺らしながらアキラが問う。
・・・その甕に何が入っているのか、俺は知らない。もしかしたら俺に災いをもたらす
ものかもしれない。それでも俺がこうするのは、
「・・・キミの盃で不幸になるなら、俺に悔いはないからだ」
アキラの大きな目が更に大きく見開かれる。だが理由はそれだけじゃない。
俺を逸らせているこの抗い難い衝動の正体は、きっとキミを海に入らせたのと同じものだ。
キミの心がどの程度俺に向いてくれているのか、俺はてんで自信がない。
それでももしキミが、息絶えて横たわる俺を前にしたら、少しは悲しい顔をしてくれるのだろうか。
その曇りない瞳から一しずくくらいは涙を零してくれるのだろうか。
それが知りたい。
キミが俺のために流す涙が見たい。
他の誰でもなく俺によって、キミの心が動かされたという証が欲しい。
涙。涙。塩の味の水。



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