無題 第3部 36 - 40
(36)
アキラの涙に濡れた瞳がヒカルを見上げた。
「知ってたんだ。
緒方さんが、ボクをどんなに愛してくれてるか。どんなに優しくしてくれてるか。
でも、ダメなんだ。緒方さんじゃないんだ。
思い出すのはいつもキミなのに、ボクが好きなのは、ボクが欲しいのはキミだけなのに、
身体だけ、欲望に負けて、緒方さんを利用した。わかってて、利用した。
そんな、ずるくて汚いヤツなんだ、ボクは…」
―だから、こんなバチが当たって当然だ。
そう続けようとしたアキラを唐突にヒカルが引き止めた。
「ちょ、ちょっと待って、塔矢、ちょっと待って…。」
ヒカルの目が、濡れて黒く光るアキラの瞳を捕らえて、尋ねた。
「今、なんて言った…?」
「ボクはずるくて汚いって。
緒方さんの気持ちを知ってて、利用するだけした、ずるい奴だって。」
そんなアキラの言葉など打ち消すように、ヒカルが言った。
「違う、そうじゃない、オレを好きだって、オレを欲しいって、言った…?」
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アキラが目を見張って、ヒカルを見た。
「…言わない。」
「言ったよ」
「言わない。そんな事、言ってない。」
アキラは強引に言い張った。
「じゃあ、それじゃあ塔矢、オレの事、キライ…?」
アキラはうつむいて、首を振った。
「じゃあ、好き…?」
だがアキラはまた、今度はもっと強く、首を振った。
そうして、ヒカルを見上げて言った。
「ボクはこんなに汚れてるのに、キミを好きだなんて、言えるはずが無い。
ボクにはそんな資格、ないんだ。」
「資格ってなんだよ?
汚れてるって、どういう事だよ?
全部、全部キレイなヤツなんて、いないよ。」
「オレだって…オレだって、おまえの事、キレイな気持ちだけで好きだなんて、言えない。
おまえとアイツの事考えると、はらわた煮えくり返りそうになって、アイツの事、ぶん殴って
殺してやりたいって思ったよ。アイツと一緒にいるおまえを、おまえが何て言おうと、誰を
好きだろうと、ムリヤリでもオレのものにしたいと思ったよ。それも汚いのか?
おまえの事、無茶苦茶にしちまう想像だって、何度もしたよ。それも、汚いのか?
でも、そんなの、誰だってそうじゃないか?」
良いじゃないか?汚くたって。それが悪い事なのか?
ヒカルは、アキラにそう言ってやりたかった。
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「ごめん。ごめん、進藤。
でも、ボクはキミには応えられない。」
「どうして?おまえがオレをキライじゃないって言うのに、どうしてそんな事言うんだ?
おまえがオレを好きだって言ってくれてるのに、どうしておまえを諦められるなんて思うんだ?塔矢。
イヤだ。
絶対にイヤだ。
おまえが何て言おうと、オレはおまえを諦める気なんか無い。」
「進藤…」
「もう、イヤなんだ。
とり返しがつかなくなってから、もうどうやっても取り戻せなくなってから、後悔して泣くのなんか、
オレはもうイヤなんだ。」
ヒカルの目に涙が浮かんでいた。
食い込む指が痛いくらいに、アキラの肩を掴んでいた。
「おまえは生きてここにいるのに、いなくなっちゃった訳でも消えちゃった訳でもないのに、
おまえは、こうしてオレの前にいるのに。
もういなくなっちゃったヤツの事は、どんなに後悔しても、どんなにやり直したいと思っても、
もう、どうにもならないけど…
塔矢、オレ、おまえの事、あきらめたくない。
おまえの事で後悔するのなんて、絶対にいやだ。」
「進藤…」
アキラは思い出した。かつてヒカルが感じたであろう孤独と悲しみを。
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「ごめん…ごめん、進藤…」
アキラが腕を伸ばして、ヒカルの身体を抱きしめた。
「進藤…キミは…強いよな…」
「強くなんか、ねーよ…
オレだって、泣いて、馬鹿みたいに泣いて、もう一度やり直したいって、何度も叫んで、
やり直せないってわかってても、バカな方法で全部から逃げてしまいそうになったけど。
ソイツはもういないから、どんなに後悔しても、その時はもう遅かったけど。
でもおまえはここにいるのに、オレ、あきらめたくねェよ。
オレだって、まだガキだから、これからだっておまえの事責めたり、イヤな事言っちゃったり
するかも知んねーけど、でもここでおまえの事あきらめたら、オレ、絶対後悔する。
もうイヤなんだ。誰かの事で後悔するの、オレ、もうイヤなんだ。
オレはおまえをあきらめたくない。失いたくない。」
ヒカルの大きな瞳が潤んで、涙がこぼれて、アキラの制服の肩がヒカルの涙で濡れた。
「塔矢…………塔矢、一度でいいから……本当の事を言って…?」
アキラの肩口で、ヒカルが小さな声で尋ねた。
「オレを、好き?」
ヒカルを抱きしめるアキラの身体がぴくりと動いた。
一度でいいから、本当の事を。それならば言うべき言葉は一つしかない。
考えるより先に、震える声が、アキラの口から流れ出ていた。
「…好きだ。」
発してしまった自分の言葉を、噛み締めるように、確かめるように、アキラはもう一度言った。
「好きだ、進藤。」
そして口に出した言葉をもう一度心の中で繰り返した。繰り返すたびに、今までアキラの中で
閉じ込められ、縛り付けられ、もがいていた何かが解放されて、今までずっと息苦しく感じて
いたのに、すっと呼吸が楽になって、身体まで軽くなるように感じた。
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―深く考えるなよ、おまえの気持ちに素直になるのが一番だ。
そんな言葉が頭の中に蘇ってきた。
そうだね、芦原さん。こんな簡単な事だったのに。
認めてしまえばこれ以上の真実なんてなかったのに。
触れている個所から感じるヒカルの体温が心地良い。
ボクが欲しかったのはこれだったんだ、と、アキラは安心して目を閉じた。
ヒカルをぎゅっと抱きしめていた腕の力が弱まって、体重が自分にかけられるのをヒカルは感じて、
逆にアキラの身体を支えた。自分に寄り掛かってきてくれるのが嬉しくて、アキラの背を抱きながら、
半分まだ信じられない気持ちで、ヒカルはアキラの告白の言葉を反芻していた。
けれどやがてアキラの呼吸が規則正しいものにかわって来たのに気付いて、ヒカルは呆然とした。
―コイツ、もしかして寝ちまったのか…?
「おい、塔矢、」
呼びかけられて、身体を揺すられて、アキラはぼんやりと目を開いた。
「寝るなよ、おまえ、こんな所で…」
「…ごめん…昨夜、寝てないんだ…だから…」
言い訳のようにそれだけ口にするとアキラはまたヒカルにもたれて目を閉じた。
ヒカルは呆れてそんなアキラを見下ろし、それから小さな息をついて、アキラの背をポンポンと
軽く叩いた。
―寝るか?フツー、こーゆー状況で。
自分だけ好き勝手な事言ってさ。ホント、自分勝手なヤツだよな、おまえって。
でも、さっき言った事はホントだよな?おまえの本心だよな?
信じていいんだよな、オレは。
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