座敷牢中夢地獄 36 - 40
(36)
「アキラ」
彼にとって絶対的な父親の声が、その先を促した。
アキラの喉奥で悲鳴に似た呼吸が聞こえ、やがて激しく震える手で、アキラは俺の
差し出す盃にとろりとした琥珀色の液体を注いだ。
甘く媚びて誘うような芳香が、すうっとなよやかに立ちのぼり鼻腔を侵す。
毒とはこんなにも魅惑的な匂いを発しているものなのだろうか。
盃を口元に当てアキラを見ると、蒼ざめたおもての中の澄んだ大きな目が、瞬きもせずに
俺を見ていた。
先生と俺と、二人がいる中で瞬きもせず真っ直ぐに俺を。俺だけを。
その眼差しに鳥肌が立つ。
酒を飲まないうちから酔ったような心地で、俺は一気に盃を空けた。
呆気なく喉の奥へと滑り落ちていったそれは、俺の体に何の変調ももたらさなかった。
視線を横にやると先生が穏やかな笑みを浮かべている。
・・・もしかしてからかわれただけなのか?
毒の話やら愛がどうのなどという話で俺を煽って、その実単なる匂いつきの水を飲ませた
だけなのだとしたら先生も人が悪い。
だが、何か言おうと口を開いた俺は喉に力を込めても声が出せないことに気がついた。
次いでがくん、がくんと両膝の力が抜けたかと思うと畳の目がやけにゆっくりと近づいてくる。
ああ倒れるのだ、と悟った瞬間、何か温もりのあるものが俺を抱き止めた。
――アキラ・・・
昨夜俺の首に絡みついていたアキラの腕が、今同じように俺の首から肩にかけて絡みつき
俺を支えてくれているのだ。
俺を抱いたまま畳の上に横たわらせて、アキラはあの泣き出しそうな顔で微笑んだ。
昨夜と同じ甘い匂いと、優しい体温。
痺れた表情筋でどれだけ思い通りの表情が作れていたか定かではないがとりあえず俺は微笑んだ。
微笑んで、まだ辛うじて動く指でアキラの細い顎を捉えて、昨夜と同じようにその唇に口づけた。
ああ今日もキミの唇は、柔らかで痺れるくらいに気持ちがいい。
あとは、暗闇。
(37)
あれは東京の先生宅での出来事だった。
何かの用事で先生と俺が話していると、廊下を渡ってくる軽い足音が聞こえた。
足音は俺たちのいる応接室の前で急に忍び足になり、やがて何の音もしなくなったかと
思うと、そーっと襖が細く開いた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
顔を見合わせた先生と俺が注視する中、襖の取っ手よりも低い位置に真っ黒い瞳が覗いた。
が、大人二人の視線に気がつくと瞳の主は「ひゃっ」と細い声を上げ、ぱすんと襖を
閉めてしまう。
先生が苦笑して声をかけた。
「アキラ。・・・そんな所にいないで入ってきなさい」
恐る恐るまた襖が細く開き、揃えた小さな指と黒い瞳が覗く。
「あのね・・・ダメなの」
「うん?」
「お父さん今、お仕事のお話してるから、入っちゃダメなの・・・」
邪魔をしないようにと、夫人にでも言い聞かせられたらしい。
襖の向こうで頭を揺らしてもじもじしているアキラに、先生が笑いながら両腕を広げてみせた。
「仕事の話はもう終わりだ。・・・おいで、アキラ」
途端にぱっと顔を輝かせて、幼いアキラが細い隙間から器用に身を滑り込ませてきた。
とことこ父親のもとへ歩み寄りモミジのような両手を伸ばすと、先生が穏やかな表情で
抱き上げる。アキラが嬉しそうに父親の首に縋りつく。
「アキラ、緒方くんにコンニチハは?」
「ン・・・こんにちは」
「こんにちは、アキラくん」
真っ黒い瞳と林檎のような頬で愛らしく挨拶するアキラが、真っ先に駆け寄って抱きつく
相手が俺だったらいいのに。
そんな気持ちは既にあの頃から、朧ろに芽吹いていた気がする。
(38)
だいたいの場面において温和で聞き分けのいい子供だったアキラが珍しく我儘な
振る舞いを見せたのは、その日俺が帰る間際のことだった。
日程確認のため先生が手帳を取り出すと、それまで父親の膝の上で大人しくしていた
アキラが急にキッと振り向いて、手帳を持つ先生の手をモミジの手でパンッとはたいた。
「・・・アキラくん?」
呆気に取られる俺をよそに、アキラは手帳がまだ父親の手にあるのを見てむきになった
ようにその手をぺちぺちはたき続ける。
「アキラ・・・どうしてそんなことをするんだ。そんなことをしたらお父さんだって痛いだろう?」
先生が息子の顔を覗き込んで怖い声を出すとアキラは一瞬びくっと動きを止めたが、
それでもなお収まらないというように、ぺしっともう一打ち先生の手をはたいた。
「アキラ!」
「・・・手帳さんキライ!」
「うん?」
アキラの澄んだ目に見る見る涙が溜まり、眉間に勝気な皺が寄る。
「手帳さんがいると、お父さん、お外に行かなきゃいけなくなっちゃうでしょ?・・・」
「む・・・」
「だから、キライッ」
泣きそうに口元を歪めたアキラが震える手でもう一度父親の手を弱くはたくと、先生の
手から手帳が離れて畳に落ちた。
(39)
すかさずアキラが手帳を拾い上げ、ポーンと部屋の隅に放る。
「おい、アキラ」
さすがに先生が困った声を上げる。
アキラは涙を溜めた黒い瞳でそんな先生の顔を見上げ、ぎゅっと父親の着物の胸を掴んだ。
「お父さん、手帳さんとボクとどっちが大事?・・・ねぇっ、どっちが大事?・・・」
父親の胸に小さな頭を押し付けてせっつくように何度もアキラが訊くと、先生は少し
戸惑った顔で、息子の小さな背中をポンポンと軽く叩きながら言った。
「それは・・・おまえのほうが大事だよ。決まっているだろう」
「ホント?じゃ、手帳さんにバイバイして。バイバーイ。ねっ、ハイ、一緒に!バイバーイ」
「ああ、うむ・・・バイバーイ」
先生がアキラに合わせてひらひらと手を振ってみせる。
「それでね、そしたら手帳さんもういらないから、ごみ箱に捨てちゃって?」
「うむ・・・では緒方くん、すまないがそれを屑籠に」
「え」
いいんですか、と目で訊くと、うむ・・・と先生が肯いた。
「手帳さん」が屑籠に葬られたのを見るとアキラは林檎のような頬を輝かせ、満足気に
父親にしがみついた。
そのまま先生が膝の上でアキラをあやし、真っ直ぐな髪を丁寧に何度も撫でてやると、
安心したのかアキラは眠ってしまった。
(40)
やがて、昼寝用の布団から姿を消した息子を夫人が探しに来た。
「あらあら」
少女のように微笑む夫人と連れ立って、先生がアキラを布団の中に戻しに行っている間、
俺は先生の手帳を屑籠の中から拾い上げ、軽く塵を払って畳の上に置いた。
大ぶりで分厚い、黒い革製の立派なそれは、中を開けばきっとトップ棋士「塔矢行洋」の
スケジュールで隙間もなく埋め尽くされているのだろう。
応接室に戻ってきた先生は自分の座布団の前に置かれた手帳を見ると少し照れ臭そうに笑った。
「ありがとう。どうもみっともない所を見せてしまったね」
「いいえ。ですが、珍しいですね。アキラくんがあんな風に・・・」
「うむ。・・・私は仕事のスケジュール管理は全てこの手帳で済ませているのだが、この間
アキラがそれは何かと聞いてきてね。明子が、手帳さんはお父さんのお仕事のお手伝いを
しているの、手帳さんがいるからたくさんのお仕事も間違えずに出来るのよ、と説明して
いたのだが・・・どうもそれがアキラの中では、『手帳が父親に仕事をさせる、手帳がある
から父親は自分を置いて出かけてしまう』ということになっているらしいな」
「ああ。だからあんなに、キライだと」
「最近私が仕事で家を空けることが多かったから、少し甘えたがりになっているのかも
知れんな。・・・だがアキラが嫌っていても、これはとても・・・大事なものなのだ。
後で自分で拾わねばならんと思っていたのだよ。ありがとう、緒方くん」
大切そうな手つきで手帳を懐に収め、先生は穏やかに笑った。
幼いキミの目に、あの手帳はさぞ忌まわしい存在と映ったことだろう。
大好きな父親を自分から引き離し連れ去る――化け物のような。
一旦屑籠に葬ったそれを、俺は愚かにも引っ張り出してしまった。
その時俺にとってはまだそれは化け物なんかじゃなかったんだ。
頬が炙られるように熱い。
ぼんやりと意識を取り戻した俺の視界にゆっくりと現れたのは暖かな灯りと揺らめく影。
蒼ざめた美しいアキラの顔と、冷たい鉄格子だった。
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