座敷牢中夢地獄 38 - 41


(38)
だいたいの場面において温和で聞き分けのいい子供だったアキラが珍しく我儘な
振る舞いを見せたのは、その日俺が帰る間際のことだった。

日程確認のため先生が手帳を取り出すと、それまで父親の膝の上で大人しくしていた
アキラが急にキッと振り向いて、手帳を持つ先生の手をモミジの手でパンッとはたいた。
「・・・アキラくん?」
呆気に取られる俺をよそに、アキラは手帳がまだ父親の手にあるのを見てむきになった
ようにその手をぺちぺちはたき続ける。
「アキラ・・・どうしてそんなことをするんだ。そんなことをしたらお父さんだって痛いだろう?」
先生が息子の顔を覗き込んで怖い声を出すとアキラは一瞬びくっと動きを止めたが、
それでもなお収まらないというように、ぺしっともう一打ち先生の手をはたいた。
「アキラ!」
「・・・手帳さんキライ!」
「うん?」
アキラの澄んだ目に見る見る涙が溜まり、眉間に勝気な皺が寄る。
「手帳さんがいると、お父さん、お外に行かなきゃいけなくなっちゃうでしょ?・・・」
「む・・・」
「だから、キライッ」
泣きそうに口元を歪めたアキラが震える手でもう一度父親の手を弱くはたくと、先生の
手から手帳が離れて畳に落ちた。


(39)
すかさずアキラが手帳を拾い上げ、ポーンと部屋の隅に放る。
「おい、アキラ」
さすがに先生が困った声を上げる。
アキラは涙を溜めた黒い瞳でそんな先生の顔を見上げ、ぎゅっと父親の着物の胸を掴んだ。
「お父さん、手帳さんとボクとどっちが大事?・・・ねぇっ、どっちが大事?・・・」
父親の胸に小さな頭を押し付けてせっつくように何度もアキラが訊くと、先生は少し
戸惑った顔で、息子の小さな背中をポンポンと軽く叩きながら言った。
「それは・・・おまえのほうが大事だよ。決まっているだろう」
「ホント?じゃ、手帳さんにバイバイして。バイバーイ。ねっ、ハイ、一緒に!バイバーイ」
「ああ、うむ・・・バイバーイ」
先生がアキラに合わせてひらひらと手を振ってみせる。
「それでね、そしたら手帳さんもういらないから、ごみ箱に捨てちゃって?」
「うむ・・・では緒方くん、すまないがそれを屑籠に」
「え」
いいんですか、と目で訊くと、うむ・・・と先生が肯いた。

「手帳さん」が屑籠に葬られたのを見るとアキラは林檎のような頬を輝かせ、満足気に
父親にしがみついた。
そのまま先生が膝の上でアキラをあやし、真っ直ぐな髪を丁寧に何度も撫でてやると、
安心したのかアキラは眠ってしまった。


(40)
やがて、昼寝用の布団から姿を消した息子を夫人が探しに来た。
「あらあら」
少女のように微笑む夫人と連れ立って、先生がアキラを布団の中に戻しに行っている間、
俺は先生の手帳を屑籠の中から拾い上げ、軽く塵を払って畳の上に置いた。
大ぶりで分厚い、黒い革製の立派なそれは、中を開けばきっとトップ棋士「塔矢行洋」の
スケジュールで隙間もなく埋め尽くされているのだろう。

応接室に戻ってきた先生は自分の座布団の前に置かれた手帳を見ると少し照れ臭そうに笑った。
「ありがとう。どうもみっともない所を見せてしまったね」
「いいえ。ですが、珍しいですね。アキラくんがあんな風に・・・」
「うむ。・・・私は仕事のスケジュール管理は全てこの手帳で済ませているのだが、この間
アキラがそれは何かと聞いてきてね。明子が、手帳さんはお父さんのお仕事のお手伝いを
しているの、手帳さんがいるからたくさんのお仕事も間違えずに出来るのよ、と説明して
いたのだが・・・どうもそれがアキラの中では、『手帳が父親に仕事をさせる、手帳がある
から父親は自分を置いて出かけてしまう』ということになっているらしいな」
「ああ。だからあんなに、キライだと」
「最近私が仕事で家を空けることが多かったから、少し甘えたがりになっているのかも
知れんな。・・・だがアキラが嫌っていても、これはとても・・・大事なものなのだ。
後で自分で拾わねばならんと思っていたのだよ。ありがとう、緒方くん」
大切そうな手つきで手帳を懐に収め、先生は穏やかに笑った。


幼いキミの目に、あの手帳はさぞ忌まわしい存在と映ったことだろう。
大好きな父親を自分から引き離し連れ去る――化け物のような。
一旦屑籠に葬ったそれを、俺は愚かにも引っ張り出してしまった。
その時俺にとってはまだそれは化け物なんかじゃなかったんだ。

頬が炙られるように熱い。
ぼんやりと意識を取り戻した俺の視界にゆっくりと現れたのは暖かな灯りと揺らめく影。
蒼ざめた美しいアキラの顔と、冷たい鉄格子だった。


(41)
――鉄格子?俺はまた夢を見ているのだろうか。
見慣れない風景に目を彷徨わせながら熱を持った指先に力を込めると少し動いた。
そのまま肘をゆっくりと持ち上げ、錆びついた鉄格子に見える「それ」の正体を確かめ
ようと手を伸ばした俺は、不意に額に舞い降りたひんやりとした感触に動きを止めた。
「緒方さん。・・・目が覚めましたか」
アキラの声が、柔らかな残響を伴って聞こえる。
視線を動かすと、蒼ざめた顔をせつなげに綻ばせたアキラがこちらを見ていた。
「体質に合わなかったのか、熱が出てしまったみたいですね。体もまだ動かしにくい
でしょうけど・・・もう少ししたら、元通りになりますから」
俺の額に当てていた手を動かして、アキラは労わるように俺の前髪をそっと撫でた。
その白い指をゆっくりと捉える。指がはっとしたように動きを止める。
俺の無表情な目に見つめられて、アキラの全身に緊張が走った。

動揺の色も露わに顔を背けたアキラは、だが俺の意図を理解してはいなかった。
俺は別に怒っていたわけでも何でもない。
いやそれ以前に、自分が今どういう状況に置かれているのか追究しようとする気持ちすら、
どこかへ吹き飛んでしまっていたのだ。
――欲しい。もう一度キミが欲しい。
熱に浮かされたように、俺の自由の利かない手はアキラの指から手首、肘、二の腕へと
緩慢な動作で勝手に移動していき、やがて怯えるようにびくりと肩を竦めたアキラの
後頭部を捉えると、力を込めて自分のほうへと引き寄せようとした。
「――お、おがたさ・・・?」
一瞬戸惑った声を上げ首から上を強張らせたアキラだったが、俺の視線がその美しい顔の
一点にじっと注がれているのに気づいて、漸くこちらの望みを察したらしい。
ほんの少し瞳を揺らしたあと瞼を閉じて、俺の手に促されるままゆっくりと顔を近づけてきた。

だがふとある状況に気がついて、その待ち望んだ柔らかな唇を味わうことを、俺は断念
しなければならなかった。
「どうした?私に構わず続けたらいい」
――錆びた鉄格子の向こう、深い闇の中で、先生が俺たち二人を見つめていた。



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