無題 第3部 41 - 45


(41)
何本目かの煙草を揉み消して、緒方はやっと腰を上げた。
非常階段に通じるドアが開いていた。
ゆっくりと、緒方はその階段を降りていった。

一番下の踊り場で、壁にもたれて、二人の少年が座っていた。
一人は目を閉じてもう一人の肩に頭を乗せている。
もう一人の少年は、その少年を慰めるように、いたわるように、その少年の背を抱いていた。
それは二匹の子犬が寄り添ってうずくまっているような、ありふれた、微笑ましい風景だった。
緒方は深い息をはいて、しばしその光景を眺め、それからゆっくりと彼らに近づいた。

片方の少年が彼に気付いて顔を上げ、小さく笑った。
「緒方先生、塔矢、寝ちゃったよ。」
「良かったよ。今、オレの顔を見たくはないだろうからな。」
緒方はヒカルに微笑み返して言った。
「今日はおまえの家にでも泊めてやってくれ。そこが一番安心して眠れるだろうからな。」
静かな口調で語る緒方を見て、ヒカルは胸が痛んだ。
もしかして、この人は何もかも全て知っていて、こんな事を仕組んだのだろうか?
「緒方先生…知ってたの?」
「何を?」
アキラの気持ちを、か?知らないで、こんな猿芝居が出来るとでも思うのか?
だが、そんな言葉は口にせず、ただ、わかったような笑みをヒカルに返した。
「殴って、ごめん…なさい。痛かった…?」
「痛くなんかないさ、このくらい。」
笑ってヒカルの頭を軽く小突いた。
「タクシーを拾ってきてやるよ。」
そう言って緒方はその場を後にした。


(42)
「塔矢、行くよ。」
だが深い眠りに入ってしまったらしいアキラは、ヒカルがどんなに揺すって呼びかけても
目を覚まさなかった。
「塔矢ぁ、起きて、歩いてよ。」
ヒカルがアキラの腕を肩にかけて立ち上がろうとしたが、よろけて壁にぶつかってしまった。
「おまえじゃ無理だよ。」
緒方は煙草を投げ捨てて、二人に近づいた。
「オレなんかに触わられるのはイヤかもしれんが、ちょっとだけ我慢してくれよ、アキラくん。」
そう言って、アキラの身体を抱き上げた。

もしかしたら、自分の手が触れたらアキラが目を覚ましてしまうかもしれないと、緒方は怖れた
のだが、抱き上げてもアキラは変わらずに安心したような静かな笑みを浮かべたままだった。
もう触れる事は無いだろうと思っていたアキラの身体を抱いて、その美しい顔を間近に覗き
込んで、緒方は、このまま彼を手放したくない、という衝動に駆られた。
進藤なんかどうでもいい。
アキラの気持ちもどうでもいい。
このまま、アキラをさらって行ってしまいたい。
さらって行って、誰も来ない場所に閉じ込めて、自分一人のものにしてしまいたい。
そうして、後はもう、アキラがどんなに泣いて喚こうと、誰の事を口にしようと構わずに、ずっと、
いつまでも、こうしてアキラを抱いていたい。


(43)
アキラを抱く緒方の腕に力がこもった。
だがそんな事をする勇気も、度胸も、持ち合わせていない事はわかっていた。

先を行っていたヒカルがついてこない緒方を振り返った。
心配するな、コイツはもうおまえのものだよ。ヒカルにそう言ってやりたかった。
いや、それとも、と緒方は思い直した。
コイツが、オレのものだった事なんて、無かったのかも知れんな。
目で、先に行くようヒカルに促して、その後ろからアキラを抱えて歩き出した。
ヒカルの背中に小さく笑いかけて、そして、腕の中のアキラをもう一度見下ろし、アキラの
閉じられた瞼にそっと唇で触れた。

待っていたタクシーにアキラを押し込んで、発進するのを見送りながら、緒方はまた煙草に
火を点けた。


(44)
名前を呼ばれたような気がして、アキラは夢うつつのまま、その呼びかけに応えた。
「…なに?進藤。」
進藤?どうして彼が?ぼんやりした頭で考えながら目を開けると、その人物の顔が目の前
にあって、自分の顔を覗き込んでいた。
「おはよ。」
「進藤…!?」
次の瞬間、アキラは慌てて跳ね起きて、あたりを見まわした。
「ここ…キミの部屋…?」
「ウン。…あのさァ、塔矢、」
状況が飲み込めずにいる様子のアキラに、ヒカルが問いかけた。
「…おまえ、昨日の事、覚えてる?」
もしかしたら、目を覚ましたらまた、「そんな事言ってない」と言われてしまったらどうしよう、と
ヒカルはずっと不安だったのだ。


(45)
昨日の事?
アキラは記憶を手繰り寄せた。
まず、最初に思い出したのは、今も感じている、なんだか良くわからない、不思議な幸福感。
身体が暖かくなって、心が軽くなって、全てが解放されて、自分自身が大気中に溶けていって
しまいそうに感じた。
たった一つの言葉だけで、そんなにも幸福に感じられる、魔法の言葉。
アキラはそれを思い出して、そして、もう一度その言葉を口にした。
「好きだ、進藤。」
それから目を開いて、ヒカルを見詰めてもう一度、言った。
「好きだ。」
そんな風に言われて、優しく見詰められて、ヒカルはどうしたらいいかわからず、どぎまぎした。
アキラの、吸い込まれるような黒い瞳が、真っ直ぐにヒカルを見詰めている。
静まれ、オレの心臓。
何か、言わなければ。何か、言葉を返さなければ。
必死に自分に言い聞かせるヒカルの耳に次に届いた言葉に、だがヒカルは呆れかえった。
「そう、言ったよね。それは覚えてるけど、それからボク、どうしたっけ…?」
「…ボク、どうしたっけ?ふざけんなバカヤロウ。
寝ちまいやがったんだよ、それから。
こっちの気も知らないで、自分だけ好きな事言って寝ちまいやがって。
ここに運ぶんだって、どれだけ大変だったと思ってるんだ、オマエ」
ヒカルに怒鳴られて、アキラが神妙な顔をして謝った。
「ゴメン」
なんだかしょんぼりしている風のアキラがカワイイな、とヒカルは思って小さく笑った。
「あのさ、」
呼びかけられて、なに?と言う風にアキラがヒカルの顔を見た。



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