座敷牢中夢地獄 41 - 45
(41)
――鉄格子?俺はまた夢を見ているのだろうか。
見慣れない風景に目を彷徨わせながら熱を持った指先に力を込めると少し動いた。
そのまま肘をゆっくりと持ち上げ、錆びついた鉄格子に見える「それ」の正体を確かめ
ようと手を伸ばした俺は、不意に額に舞い降りたひんやりとした感触に動きを止めた。
「緒方さん。・・・目が覚めましたか」
アキラの声が、柔らかな残響を伴って聞こえる。
視線を動かすと、蒼ざめた顔をせつなげに綻ばせたアキラがこちらを見ていた。
「体質に合わなかったのか、熱が出てしまったみたいですね。体もまだ動かしにくい
でしょうけど・・・もう少ししたら、元通りになりますから」
俺の額に当てていた手を動かして、アキラは労わるように俺の前髪をそっと撫でた。
その白い指をゆっくりと捉える。指がはっとしたように動きを止める。
俺の無表情な目に見つめられて、アキラの全身に緊張が走った。
動揺の色も露わに顔を背けたアキラは、だが俺の意図を理解してはいなかった。
俺は別に怒っていたわけでも何でもない。
いやそれ以前に、自分が今どういう状況に置かれているのか追究しようとする気持ちすら、
どこかへ吹き飛んでしまっていたのだ。
――欲しい。もう一度キミが欲しい。
熱に浮かされたように、俺の自由の利かない手はアキラの指から手首、肘、二の腕へと
緩慢な動作で勝手に移動していき、やがて怯えるようにびくりと肩を竦めたアキラの
後頭部を捉えると、力を込めて自分のほうへと引き寄せようとした。
「――お、おがたさ・・・?」
一瞬戸惑った声を上げ首から上を強張らせたアキラだったが、俺の視線がその美しい顔の
一点にじっと注がれているのに気づいて、漸くこちらの望みを察したらしい。
ほんの少し瞳を揺らしたあと瞼を閉じて、俺の手に促されるままゆっくりと顔を近づけてきた。
だがふとある状況に気がついて、その待ち望んだ柔らかな唇を味わうことを、俺は断念
しなければならなかった。
「どうした?私に構わず続けたらいい」
――錆びた鉄格子の向こう、深い闇の中で、先生が俺たち二人を見つめていた。
(42)
すぐにはこの状況が呑み込めなくて、俺はアキラの黒髪に手を差し入れたまま
顔だけ横に向けて先生と視線を合わせた。
先生が喉の奥で笑う。くぐもった響きが空気の中に残る。
「続けろと言っているのだよ。・・・昨夜のように」
言葉の意味を理解した瞬間、さっと全身が冷え、次いで先ほどよりも更に強い熱が
襲ってくる。
昨夜俺たちが何をしたか、この人は――
「知っ、て・・・」
「ああいう時はな、緒方くん。布団くらい敷きたまえ。可哀相にアキラは畳が膚に擦れて
痛かったそうだ」
思わずアキラを見ると、アキラは頬を上気させ泣きそうな顔をして項垂れた。
何故だ。
昨夜のことを父親に話したのか?アキラくん。
今朝、風呂場でもそんな素振りは一つも見せなかったのに。
項垂れるアキラの顔をこちらに向かせて問い詰めたい衝動が湧き起こった時、
アキラの肩から全身にかけて小刻みな震えが走っているのに気がついた。
――そうだ、あれほど父親を慕っているアキラのことだ。父親に問い詰められれば
何でも白状してしまうに違いない。アキラは言いたくなかったのに、この男がアキラに
言わせたのだ。きっとそうだ。
そう自分に納得させて、震えるアキラの黒い髪からそっと手を抜いた。
そして改めて、闇の中の先生と見つめあった。
(43)
「確かに俺は昨夜、アキラくんを抱きました」
先生の眉がピクリと動く。
アキラや先生の声と同じように、俺の声も不思議な残響を伴って聞こえた。
ふと見渡すとここは暗い岩窟のような場所で、鉄格子で仕切られたこちら側だけに
数畳分の畳が敷かれ、行燈の灯が幾つも灯されて小さな部屋の体裁を取っている。
俺はそこに敷かれた布団の上に仰向けに寝かされているのだった。
声が響いて聞こえるのは、この空間の中で発せられる音が剥き出しの岩肌に反響する
ためらしい。
――幽かな音を立てて燃える炎が、波のように揺らめく影をそこここに投げかけている。
「申し訳ないことをしたと・・・思っています。だから俺がこんなことを言えた義理じゃない
のはわかっていますが――あなたにそんなことを言われたら、アキラくんがあまりに
可哀相だ。アキラくんがどれだけあなたを慕っているかご存知でしょう。そのあなたが
見ている前で俺が」
「申し訳ない?そんな風に考える必要はない。アキラは昨夜、キミを誘惑するために
キミの部屋に行ったのだから。もっとも、」
と先生は一旦言葉を切ってアキラを見遣った。
「キミには何もせずにアキラを帰すという選択肢もあったわけだがね。・・・自らチャンスを
棒に振ってしまった、馬鹿な男だ」
先生のこんな吐き捨てるような口調を初めて聞いた。
動揺しながら、やっとの思いで俺は喉から声を絞り出した。
「どういう・・・ことです。それにここは一体――さっき俺が飲んだ酒も・・・」
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「ここは我が家の座敷牢だ」
あっさりと先生は明かした。
「キミのような人が現れた時は、ここに入ってもらうことにしている。さっきの酒は
ほんの少しの間、意識と体の筋肉を眠らせる薬だ。今のキミは差し詰め、意識だけ先に
目が覚めて体のほうは寝ぼけている状態か」
「何故・・・そんな酒を俺に」
「アキラのためだ」
「?」
「アキラの相手をさせるために、キミをここに入れた」
「アキラくんの・・・?」
「うむ」
相手とは、まさか単なる話し相手ではないだろう。
「ですが、何故・・・わざわざこんな所で」
「仮にキミが一夜だけでなく、しばらく我が家に滞在してくれたとしても、いつかは
出て行ってしまうだろう?それに外の人間と接触を持たれても何かと面倒だ。・・・ここに
いてもらうのが一番いい」
淡々と語られる言葉の中に潜む不穏な意味に、俺は今朝風呂場でアキラの話を聞いた時と
同じ本能的な寒気が全身を走るのを感じた。
アキラが酒を飲むなと俺に戒めたのはこのことだったのだ。
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「・・・キミには、事情を話しておこう」
行燈の炎が微かな音を立てて揺れる中、先生はぽつりぽつりと語り始めた。
「あれはアキラが中学に上がった年の、秋だったか・・・」
その頃は先生もアキラもまだ、先生の妻でありアキラの母であった人と共に
東京の邸宅にいた。
その年行われたプロ棋士採用試験ではアキラが早々と合格を決め、先生もひとまず
肩の荷が下りた気がしていた時期だと云う。
「――ある日私が帰宅すると門の前に車が一台停まっていた。そこで何やら
言い争う声が聞こえる」
声の主は息子のアキラと車中の人物で、アキラは片手を自宅の門に掛け、
片手を相手に取られながら頻りと首を横に振っている。
どうも相手が嫌がるアキラを無理強いに車の中に引き入れんとしているらしい。
「何をしている!」と一喝した先生に気づいて、相手はアキラを放すと運転手に合図し
車を走らせて去ってしまった。急なことで、相手の顔は見えなかった。
力が抜けてその場に座り込んでしまったアキラに知っている者かと質したが、
アキラは知らない、知らないと繰り返すばかりだった。
「だが、相手には少し心当たりがあってね」
アキラがプロ試験合格を決めて日も経たない頃、つてを頼って内々にアキラに
指導碁を依頼したいという申し入れがさる筋からあった。
青田買いと言うのだろうか、トップ棋士の息子という血筋と、それに恥じぬ将来性とを
兼ね備えたアキラに注目し、他に先駆けて渡りをつけたがる筋は以前から幾らもあった。
だが合格は決定事項とは言え免状を渡されないうちは身分としてはまだアマの子供、
しかもその時はまだプロ試験の最中である。
外に知られて驕りと取られては後々障りとなることも出て来ようし、
対戦相手への礼儀上も、この申し出は今は断るようにと先生はアキラに告げた。
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