座敷牢中夢地獄 42 - 45


(42)
すぐにはこの状況が呑み込めなくて、俺はアキラの黒髪に手を差し入れたまま
顔だけ横に向けて先生と視線を合わせた。
先生が喉の奥で笑う。くぐもった響きが空気の中に残る。
「続けろと言っているのだよ。・・・昨夜のように」
言葉の意味を理解した瞬間、さっと全身が冷え、次いで先ほどよりも更に強い熱が
襲ってくる。
昨夜俺たちが何をしたか、この人は――
「知っ、て・・・」
「ああいう時はな、緒方くん。布団くらい敷きたまえ。可哀相にアキラは畳が膚に擦れて
痛かったそうだ」
思わずアキラを見ると、アキラは頬を上気させ泣きそうな顔をして項垂れた。

何故だ。
昨夜のことを父親に話したのか?アキラくん。
今朝、風呂場でもそんな素振りは一つも見せなかったのに。
項垂れるアキラの顔をこちらに向かせて問い詰めたい衝動が湧き起こった時、
アキラの肩から全身にかけて小刻みな震えが走っているのに気がついた。
――そうだ、あれほど父親を慕っているアキラのことだ。父親に問い詰められれば
何でも白状してしまうに違いない。アキラは言いたくなかったのに、この男がアキラに
言わせたのだ。きっとそうだ。
そう自分に納得させて、震えるアキラの黒い髪からそっと手を抜いた。
そして改めて、闇の中の先生と見つめあった。


(43)
「確かに俺は昨夜、アキラくんを抱きました」
先生の眉がピクリと動く。
アキラや先生の声と同じように、俺の声も不思議な残響を伴って聞こえた。
ふと見渡すとここは暗い岩窟のような場所で、鉄格子で仕切られたこちら側だけに
数畳分の畳が敷かれ、行燈の灯が幾つも灯されて小さな部屋の体裁を取っている。
俺はそこに敷かれた布団の上に仰向けに寝かされているのだった。
声が響いて聞こえるのは、この空間の中で発せられる音が剥き出しの岩肌に反響する
ためらしい。
――幽かな音を立てて燃える炎が、波のように揺らめく影をそこここに投げかけている。

「申し訳ないことをしたと・・・思っています。だから俺がこんなことを言えた義理じゃない
のはわかっていますが――あなたにそんなことを言われたら、アキラくんがあまりに
可哀相だ。アキラくんがどれだけあなたを慕っているかご存知でしょう。そのあなたが
見ている前で俺が」
「申し訳ない?そんな風に考える必要はない。アキラは昨夜、キミを誘惑するために
キミの部屋に行ったのだから。もっとも、」
と先生は一旦言葉を切ってアキラを見遣った。
「キミには何もせずにアキラを帰すという選択肢もあったわけだがね。・・・自らチャンスを
棒に振ってしまった、馬鹿な男だ」
先生のこんな吐き捨てるような口調を初めて聞いた。
動揺しながら、やっとの思いで俺は喉から声を絞り出した。
「どういう・・・ことです。それにここは一体――さっき俺が飲んだ酒も・・・」


(44)
「ここは我が家の座敷牢だ」
あっさりと先生は明かした。
「キミのような人が現れた時は、ここに入ってもらうことにしている。さっきの酒は
ほんの少しの間、意識と体の筋肉を眠らせる薬だ。今のキミは差し詰め、意識だけ先に
目が覚めて体のほうは寝ぼけている状態か」
「何故・・・そんな酒を俺に」
「アキラのためだ」
「?」
「アキラの相手をさせるために、キミをここに入れた」
「アキラくんの・・・?」
「うむ」
相手とは、まさか単なる話し相手ではないだろう。
「ですが、何故・・・わざわざこんな所で」
「仮にキミが一夜だけでなく、しばらく我が家に滞在してくれたとしても、いつかは
出て行ってしまうだろう?それに外の人間と接触を持たれても何かと面倒だ。・・・ここに
いてもらうのが一番いい」
淡々と語られる言葉の中に潜む不穏な意味に、俺は今朝風呂場でアキラの話を聞いた時と
同じ本能的な寒気が全身を走るのを感じた。
アキラが酒を飲むなと俺に戒めたのはこのことだったのだ。


(45)
「・・・キミには、事情を話しておこう」
行燈の炎が微かな音を立てて揺れる中、先生はぽつりぽつりと語り始めた。

「あれはアキラが中学に上がった年の、秋だったか・・・」
その頃は先生もアキラもまだ、先生の妻でありアキラの母であった人と共に
東京の邸宅にいた。
その年行われたプロ棋士採用試験ではアキラが早々と合格を決め、先生もひとまず
肩の荷が下りた気がしていた時期だと云う。
「――ある日私が帰宅すると門の前に車が一台停まっていた。そこで何やら
言い争う声が聞こえる」
声の主は息子のアキラと車中の人物で、アキラは片手を自宅の門に掛け、
片手を相手に取られながら頻りと首を横に振っている。
どうも相手が嫌がるアキラを無理強いに車の中に引き入れんとしているらしい。
「何をしている!」と一喝した先生に気づいて、相手はアキラを放すと運転手に合図し
車を走らせて去ってしまった。急なことで、相手の顔は見えなかった。
力が抜けてその場に座り込んでしまったアキラに知っている者かと質したが、
アキラは知らない、知らないと繰り返すばかりだった。

「だが、相手には少し心当たりがあってね」
アキラがプロ試験合格を決めて日も経たない頃、つてを頼って内々にアキラに
指導碁を依頼したいという申し入れがさる筋からあった。
青田買いと言うのだろうか、トップ棋士の息子という血筋と、それに恥じぬ将来性とを
兼ね備えたアキラに注目し、他に先駆けて渡りをつけたがる筋は以前から幾らもあった。
だが合格は決定事項とは言え免状を渡されないうちは身分としてはまだアマの子供、
しかもその時はまだプロ試験の最中である。
外に知られて驕りと取られては後々障りとなることも出て来ようし、
対戦相手への礼儀上も、この申し出は今は断るようにと先生はアキラに告げた。



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