座敷牢中夢地獄 46 - 50
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が、普段ならそうした場面では何よりもまず父親の意見を規範として行動するアキラが
その時は行きたい、行かせて下さいと言って譲らなかった。
聞けば以前、「名人の息子」についてちょっとした特集が雑誌で組まれた時に
プロを目指す若い才能に期待を寄せる旨のアキラ宛の葉書を編集部に送ってきた
相手なのだそうで、その後どういう経緯だったものか、編集のはからいで一度
アキラと昼食を共にしたこともあったらしい。
葉書の端正な文字や文章から教養ある常識的な人物であることは一見して知られたし、
碁に対する姿勢も真摯なものに感じられた。依頼を伝えてきた知人の話では
相当な社会的地位のある人物でもあり、人格者として周囲の信望も篤いらしい。
早いうちから彼がアキラの後援となってくれるなら、それに越したことはないように
思われた。
何よりアキラと既に面識がある人物と言うならば、金銭を受け取らず碁を打つため
私的に訪問させるくらいは差し支えなかろうという結論に先生は達した。
そして勉強中の身であるのを忘れないこと、プロ試験の残りを決して気を緩めず
過ごすことを条件に、アキラの願いを許したのだと云う。
「今思えば、それが間違いだった。・・・いや、遅かれ早かれ、いずれこういう問題は
起こっていたのかも知れないが・・・」
先生は重く溜め息をついた。
当初週に一度だった指導碁の訪問が週に二度になり、プロ試験が終わる頃には
三度になっていた。
学業と碁の勉強とを両立させてこなして行かねばならない息子が素人相手の
指導碁如きで時間を割かれているのでは、いかにも惜しい。
息子の考えで決めたことには極力口を挟まない主義の先生だったが、
さすがにある日アキラを呼びつけ、おまえはこれから幾らでも碁の勉強が必要な時期、
指導碁は週に一度までとさせていただくようにと申し渡した。
アキラは素直に頷き、先方にその旨を伝えるためその足で電話へ向かったのだと云う。
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だがそれ以後、家には頻繁に先方からの電話が掛かってくるようになった。
長い時は深夜過ぎまで、寒い玄関先で小声で話すアキラの声が聞こえる。
心配した夫人が電話機を暖房の入る居間に移すと、電話の時間はめっきり減少し
代わって分厚い封書の手紙が週に何通と届くようになった。
一回の指導碁の時間も長くなり、休日などは昼過ぎに先方に向かったアキラが
夜まで帰宅しないこともざらだった。
同時に夫人が――本来は朗らかな人なのだが――気遣わしげに何か考え込んでいる
ことが多くなり、わけを問うとこの間息子の着替えの最中に襖を開けてしまったところ
一瞬しか見なかったけれども体にたくさんの痣のようなものが見えた、学校で苛めでも
受けているのでは――と言う。
即刻学校に確認したが苛めの事実はなかった。
そんなある日、指導碁が長引いたアキラが一晩先方に泊まりたいと連絡を入れてきた。
先生は明日も学校がある身で朝帰りなどもっての外、先方が車を出してくれないのなら
タクシーを使って帰宅するようにと一喝し、深夜になってアキラはおとなしく帰ってきた。
だが、帰ったアキラの様子がどうもおかしい。
両親の目を避けるように帰宅の挨拶もそこそこに自室へ引っ込もうとし、
歩く姿勢がどこか覚束ない。
夫人を居間に待たせてアキラの部屋で二人きりになり、衣服を脱いでみせるよう命じた。
ためらいながら裸になったアキラの体は、――古い痣と真新しい痣とが混じり合って
見るに堪えなかった。
そればかりか、アキラがなかなか脱ごうとしない下半身を幼い頃尻を叩いた時のように
膝に横たわらせて剥いてみると、肛門から紐のようなものが垂れている。
引っ張ってみると何やら電動式で振動する、奇妙な玩具めいたものが現れた。
更に前には革製の器具が根元を締め付けるように取り付けてあり、先生はそれらの用途は
よくわからないながら、何かとても淫靡で不快な思いがしたと云う。
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翌日先生は自ら先方に電話し、アキラはもう指導碁に遣らないと告げた。
アキラの身体に取り付けられていた奇妙なモノたちは夫人に知らせずいざと言う時の
証拠品として保管した。
アキラが車の人物に連れ去られそうになる事件が起きたのは、それから数日後の
ことだった。
「その・・・指導碁の相手だったんですか。アキラくんを連れ去ろうとしていたのは」
「後で調べさせたが、車のナンバーが一致した」
先生は苦々しそうに言った。
警察に知らせることも出来たが、そうなればアキラが受けていた行為の内容を夫人にも
知らせることになる。お母さんにだけは言わないでとアキラが懇願した。
先生としても、ことを大きくして長引かせるより一日も早くアキラに元の生活を
取り戻させるほうがよいと思った。
相手とて立場のある人物なのだ。自分のしたことが公にされるよりは、アキラから
手を引くことを選ぶだろう。
再び先生は先方に電話し、アキラの身体に取り付けられていたモノと封書の手紙は
こちらで保管してある、今後また同様のことが続くようであれば事を公にすることも
辞さないとだけ告げた。
そして翌朝――
朝刊には、昨夜動機不明の自殺を遂げた相手の死亡記事があった。
「自殺!?」
先生がうむ・・・と頷いた。
俺は思わずアキラを見た。
俺の傍らに正座してうなだれている美しい少年。
行燈の灯りだけが照らす岩窟の中、炎よりも更に明るく強い光を内側から放っている
ような少年。
確かに彼には、関わる人間をそのような運命の淵に引きずり込む力が備わっているの
かも知れない。
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「・・・発端になった葉書は成り行き上、私の目に触れることになってしまったが、
以降の封書を読む気は私にはなかった。どんな相手からの手紙であれ、それはアキラに
宛てて書かれたものだったのだからね」
ただ、いざと言う時に備えて先方からの手紙は処分しないようにとだけアキラには
言ってあったのだと云う。
だが相手の通夜も済んだある日のこと、アキラが文箱いっぱいの封書の束を
父親のもとに持って来た。
これはもう必要ないだろうし処分してしまいたいけれども、自分では処理の仕方が
わからない、捨てるなり焼くなり、まだ保管しておくなり、お父さんの良いと思うように
して欲しいと言う。
「――だが、それらの手紙は一通も封が切られていなかったのだ」
アキラが自室に戻ってしまった後、先生は悩んだ。
息子に宛てられた手紙は読まないという姿勢を貫くなら、これはこのまま燃やすか
シュレッダーにかけるかして処分してしまうべきである。
だが恐らくは息子とのことで思いつめて自殺までしたのだろう相手が、人生の最後の
数週間に綴った手紙を、誰の目にも触れないまま闇に葬るというのはひどく憐れに思えた。
下世話な好奇心も手伝ったことは否定しない、と前置いてから先生は、それでも
アキラが読みたくないのなら代わりにこれを読んでやることは、男の死に関わった者の
父親としての自分の責務であるように感じたと語った。
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手紙は日付順に開封していった。
親子ほども年の違う子供――しかも男の――を追い回し、あるまじき悪戯を仕掛けた挙句
自殺までするような人物の手紙とは一体どのようなものかと思っていたが、
最初に開けた数通の内容は拍子抜けするほど健全なものだった。
以前見た葉書と同じ端正な文字で、アキラの体調や仕事のことを気遣ったり
自分の趣味や日常の出来事を紹介したり、先日の何々戦での誰それの棋譜はどうだった、
この間アキラが好きだと言っていた本を読んでみたらどうだったというような
他愛もない話が、延々と書き綴られている。
日記のように細々と書かれた近況報告には時折、男が色鉛筆で自筆したのだろう
少し稚拙な小さな挿絵が付されていて、そんな男の手紙から先生は無邪気で微笑ましい
印象すら受けたという。
「例えるなら小学生くらいの子供が家に帰るなり母親にまとわりついて、一日の間に
あった出来事を嬉しげに報告するような――そんな印象と言えば分かってもらえる
だろうか」
だが消印の日付が進むにつれ、その無邪気さの中に不協和音が混じり始める。
毎晩のように電話で話せた頃とは違い、手紙ではアキラの反応がわからない。
自分と会っていない間アキラが誰といて、何をしているのかもわからない。
そのことが男の精神を急速に不安定にしていったようだった。
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