月のうさぎ 5 - 8
(5)
子供というのは本当によく眠る。
時も場所も選ばず、全力で眠る。
――覚えていないが、自分も子供の頃はこんな風に一心に眠っていたのだろうか?
寝る間も惜しんで碁の勉強がしたい現在の緒方にしてみれば、それだけ多くの時間を
睡眠に費すのはもったいないようにも感じる。
だが、子供にとってはそれは必要なものなのだろう。
睡眠によってもたらされる心身の休息も。眠りの中の夢の世界も。
そう言えば最近、起きた時にどんな夢を見たか覚えていることが少なくなったと、
眠るアキラの透きとおるように肌理の細かい頬を見ながら緒方はふと思う。
アキラを子供部屋の布団に寝かせてススキを枕元に置き、そっと居間へ戻ろうとした時、
緒方の足を小さな手が掴んだ。
「行っちゃやだ・・・」
「わっ。・・・アキラくん、起こしちゃったかい」
「ご本読んで・・・」
緒方は壁際にあるアキラの本棚を振り返った。
「どの本がいいんだい。アキラくん」
「せかいのみんわとでんせつ」
子供用にしては堅い書名だと思いながら本棚を探すと、緑色のハードカバーの背表紙が
見つかった。
「この中にねぇ、うさぎちゃんのお話が載ってるんだよ」
布団の中で身をよじらせ、胸の下に枕を挟んで肘をつきながらアキラは目を擦り、
ぱらぱらと目的のページを開いた。
(6)
それは中国の伝説らしい。
月には兎が住んでいて、杵と臼で薬草を搗いて薬を作っているのだという話が
子供向けの文章で簡単に紹介され、イラスト――満月の中で兎が一羽、臼の前で杵を
搗き下ろしている――が添えられている。
「でもこれ、変なんだよ。学校で習ったお歌では、お月さまのうさぎちゃんは
お餅を搗いてるの」
「この本では、薬を作ってるって書いてあるね」
「そう。どっちがホントなのかなぁ?」
小さな指先を該当する文章の活字の上で何度も往復させながらアキラが首をひねると、
真っ直ぐな髪が本のページに当たってサラ、と音を立てた。
「・・・両方作っているのかもしれないよ。月に薬しかなかったら食べる物がなくて死んじゃうし、
お餅しかなかったら、病気になった時薬がなくて困るだろう?」
我ながらうまい理屈だと思った。だがアキラは不満そうな声を上げた。
「えー・・・?そんなの、お餅だけでいいのにね」
「え、なんでだい?」
「だって、お薬よりお餅のほうが美味しいでしょ・・・」
アキラは風邪を引いても薬が嫌いで飲みたがらなくて困る、と以前明子夫人が
笑って話していたのを思い出した。
「でも・・・ねぇ、緒方さん。うさぎちゃん、本当にいると思う?」
アキラが急に内緒話のように声を潜めた。眉根を寄せ、真剣な目をしてこちらを見ている。
少しばかり動揺を覚えながら、緒方は逆に聞いた。
「うーん、どうだろうな。アキラくんはどう思うんだい?」
月に生物などいないと、緒方はもう知っている。だが、幼いアキラが月の兎の存在を
信じているなら、その夢をここで壊してしまいたくはなかった。
(7)
しかしアキラは自信なさげに肩を落とし、「わかんない・・・」と呟いた。
「わからない?」
「ン・・・だって、このご本読んでからボク毎日お月さま見てるのに、一度もうさぎちゃんが
いるの、見たことないんだよ。緒方さんは見たことある?」
「それは・・・ないな」
「そう・・・」
アキラはがっかりしたように言うと、また本のページに目を落とした。
「・・・だが、オレはそんなに毎日気をつけて見ていたわけじゃないからな。兎がいるのに
オレが気づかなかっただけかもしれないぜ」
あまり気落ちしているのが見ていられなくて、緒方は急いで付け足した。
「そう?・・・だったら、今日うさぎちゃん見えるかなぁ」
「え?」
「今日は一年中で一番お月さまが綺麗に見える日だって、お父さんが言ってたよ。
だったらうさぎちゃんも、よく見えるかも・・・」
言いながらアキラは、月の中の兎のイラストを指でなぞった。
「見えるといいね」
緒方が布団の脇の畳に片肘をついて横になりながら優しく言うと、アキラは「ウン」と
頷いて本を閉じ、枕元のススキを取ってもぞもぞとタオルケットの中に潜った。
「今日、ススキの原っぱ、綺麗だったねぇ・・・」
眠気と楽しい思い出が混じり合っているのか、アキラはうっとりとした声で言った。
そうだね、と囁きながら、緒方はアキラの眉間を円を描くようにそっと撫でる。
アキラを寝かしつけるにはこれが一番効くのだった。
アキラは自分で自分をあやすように、ススキを握っているほうの手を布団の上でゆらゆらと
不規則に動かし、そのたびに白っぽい綿毛のような穂が、赤みの差した頬やふっくらとした
小さな耳たぶ辺りを撫でている。くすぐったくないのかと思うが、眠そうで気持ち良さそうな
アキラの顔から判断するに、そのくすぐったさが快いのだろう。
ススキの動きが次第にゆっくりになり、止まる頃には、アキラはスースーと健やかな寝息を
立てていた。
それを確認してから小さな肩の上までタオルケットを掛け直し、忍び足で緒方は居間へと戻った。
(8)
夕刻になると門下生や招待を受けた棋士がぞろぞろと参集し、塔矢行洋の音頭による
乾杯の合図で月見の宴が始まった。
二つの三宝に山形に盛られた月見団子は碁石に因んで片方は白、片方はすり胡麻をまぶした黒
とするのがこの家の慣わしだった。
丸い籠に芋や果物が盛られ、花瓶には昼間取ってきたススキと秋の草花が凛と活けられている。
明子夫人の言葉どおり、しばらく水に漬けられた草花はしゃんと元気を取り戻し
会場に華やぎを添えていた。
客人の前にはずらりと並んだ酒に、花のように彩り豊かな手巻き寿司。
部屋の隅では既に一局囲んでいる者もある。
あちらでもこちらでも酒をとぽとぽ酌み交わす音と、碁打ち同士の談笑の声が聞こえる。
まるで竜宮城だと緒方は思った。
「キミが今度入った芦原くん?塔矢先生から話は伺っているよ、まあ一杯やんなさい」
「えっ。オレ、未成年もいいとこですよ〜」
「なーになに、緒方くんもキミぐらいの年にはぐいぐいやってたもんだよ。ねえ緒方くん」
「はは・・・そうでしたっけ?」
にこやかに調子を合わせ、酒癖の悪い先輩に捕まった不運な芦原を残して緒方はそっと
席を外した。
「あら緒方さん、どうかなさって?」
盆を片手に台所と会場を忙しく往復していた明子夫人に呼び止められた。
「アキラくんの姿が見えないようなんですが・・・もう自分の部屋に?」
乾杯の時は大人に混じってジュースのコップをちょこんと掲げていたアキラだったが、
いつの間にか姿を消していた。
明子夫人は「ああ」とにっこり笑い、塞がっている両手の代わりにアキラとよく似た
繊細な顎で縁側のほうを指し示しながら言った。
「あの子なら、お月さまが見たいって言って縁側にいるわ。子供なのに、なかなか風流よね」
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